28.2.12

青木淳悟『私のいない高校』

ストーリーというか主軸があるとすれば、
留学生ナタリー・サンバートンを受け入れる女子高での担任の奮闘、となろうか。
だが、それはあまりに淡々と語られる。表面的には、単なる記録だ。
監視カメラから覗く日常は、おそらくこんな平板な物語になろう。

読み進めているうちに、
タイトルどおり「私のいない」状態のまま物語が進行していることに気づく。
例えば、留学生の受け入れと日本語指導に尽力する担任は、
私人の領分がないほどに常に留学生、クラス、学校行事にのみ注意をかけている。
語りの視座となっているのに、後半でようやく氏名を明かされるくらいだ。
留学生も、伝統芸能から日本の学校生活まで、多様な日本文化に触れるが、
それがどのように受け止められているのかは、まるでわからない。
終盤、ようやく日本語を身につけ始め、花道部員として作品を残すが、
それは学習成果や成長ではなく真似であり、個人の内面とは関係ない。
他の登場人物も、まったく内面を現さない。

いや、たった一箇所だけ、意思が露出する場面がある。
留学生が写真を撮るためカメラをバスに取りにいきたいと担任に願う場面だ。
が、担任は、そんな時間はない、と許可を与えない。
ささやかな抗議は、すぐに時系列の彼方へ流れ去ってしまう。
わだかまりはない。

個性だの自立だのと述べたてる社会生活が、実は内面なくして成り立っている、
そう静かに告発しているようにも読める。
教育とは結局のところ個人の内面性の涵養などではなく「まねび」である、
その実態を述べているようにも読める。
たが、それは作品の「私がない」という主題から派生する一解釈だ。
奥泉光は、個々の登場人物すべてを相対化した作品、として読んでいる(リンク)。

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