23.3.16

ポール・オースター『ガラスの街』 、スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』

 ポール・オースター『ガラスの街』

およそ半年前に読み、そのまま忘れていた小説。
ぱらぱらとめくってみるまで、あらすじをほぼ完全に忘れていた。
そう、都市という孤立した個人が互いに奇妙な境遇で袖すり合うような、
それが一つの物語となって、都市という無機質な場がわずかに神話的に息づくような、
そんな小説だった。


 スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』

原題は”Regarding the Pain of Others”。
報道写真論だが、評論というよりエッセイのようなくだけた構成だった。
以下に心に沁みた箇所を抜き書きしておく。

記憶することは以前にもまして、物語を呼び起こすことではなく、ある映像を呼び出すことになっている。[…] 物語はわれわれに理解させる。写真の役目は違う。写真はわれわれにつきまとう。(p.87~88)

同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて、それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ当然ではあっても、無責任な反応である。(p.101~102)

現実がスペクタクルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。[…]それは誰もが見物人であるということを前提にする。それはかたくなに、不真面目に、世界には現実の苦しみは存在しないことを示唆する。しかし、他の人々の苦しみの見物人になったりならなかったりする、怪しげな特権を享受している富める国々を世界だとみなすのは、途方もなく間違っている。ちょうど、戦争と戦争の巨大な不正・恐怖をじかに体験していないニュースの消費者が、自分の思考枠組みに基づいて、他人の苦しみに反応する能力を一般化するのが途方もない間違いであるように。(p.110)

21.3.16

ローラン・ビネ『HHhH』、ジョナサン・クレーリー『24/7』

 ローラン・ビネ『HHhH ──プラハ、1942年』

原題は« HHhH »。
Himmers Hirn heißt Heydrich.(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の略。
2年ほど前に書店で見かけて以来、その不可思議なタイトルもあって、
ずっと読みたいと思っていた。
体裁は小説だが、その細部に至るまで史実である以上、歴史書でもある。
しかも、そのところどころに作者がため息まじりに独白し、
書くこと、細部を捏造できないこと、望む展開ではないこと、事実への訝しみ、
といった苦しみを読者に対して打ち明ける。
そのことが小説と歴史の相違、でも結局はhistoireであり語られる言葉であるという、
小説のある種の可能性を引き出しているような気もしないでもない。
(そういえば、HHhHって、Histoireとhistoireのせめぎ合いみたいだ)

作者は、史実を文学という形式に変換しなければ、読者の記憶に残らない、
だからこうして書いている、というようなことを書いていた。
確かに、歴史という酷たらしい反面教師を現実に生かすための伝承の手段として、
文学という形式をフィクションの専売特許にとどめおくのはもったいないことだ。
にもかかわらず、その題材そのものが躍動感を帯びているために、
ストーリーは本当におもしろい。

『顔のないヒトラーたち』をつい2週間前に観た。
アイヒマン裁判を扱ったハンナ・アレント『責任と判断』を読んだのは8年前。
ナチス・ドイツがあまりに官僚的にユダヤ人問題に当たったという史実は、
この小説形式の歴史書からもよく読み取ることができた。
第三帝国下からユダヤ人を追放するための土地探しのために、
シオニストとさえ交渉していたとは、知らなかった。
そして、ユダヤ人を処刑するコスト(兵士のストレス、手間、…)の削減のために、
アウシュヴィッツとガス室という解決策へ行き着いたということも。


 ジョナサン・クレーリー『24/7──眠らない社会』

原題は”24/7 Late Capitalism and the End of the Sleep”であり、
副題の示すとおり、情報社会・管理社会における睡眠の危機が示されている。
睡眠という人間性を主軸に、
高度資本主義がいかに人間に食い込んでこようとしているか、
それを語った硬派なエッセイ、といったところだった。

2.3.16

カール・ポラニー『大転換 市場経済の形成と崩壊』

○カール・ポラニー『大転換 市場経済の形成と崩壊』

東洋経済新社版で、2009年の新訳。
いつか読みたいと思っていた名著だが、新訳出来と知って借りた。
結果、2015年に読んだ本でもっとも面白かった。

市場経済は15〜18世紀イギリスのエンクロージャーと
それによる封建制の静かな解体に差し代わる新たな社会体制として、
土地を追われた浮浪民の貧困問題への対処とともに産声を上げた。
(それ以前、商品は事実上存在せず、
 経済は市場ではなく互酬と再分配によって成り立っていた。)
スピーナムランド法により人は労働力という疑似商品化を一時的に免れたものの、
やがて産業革命の要請が、人を労働力、
土地を労働手段、資本を交換手段として疑似商品化させた。
商品化された人は、自己調整システムによって生活基盤を失った。
商品化された土地は、商品作物の生産手段となり、
全国市場の形成に寄与し、植民地主義への原動力となった。
商品化された交換手段である貨幣は、
世界経済における価値裏付けとしての金本位制において、
流通量の調整の機能不全によって保護主義、ブロック経済、
そして最終的には二つの大戦を引き起こした。
以上がごくごく大雑把な謂いである。

ポラニーはこの理論をきわめて実地的に検証している。
それゆえ、近代以前の封建社会やアフリカの部族社会の研究が、
近代の市場経済を一つの文化的な再分配体系であると看破する説得力を持つし、
第一次世界大戦における大銀行家の暗躍が
どのようにバランス・オブ・パワーシステムを掌中で動かし、
平和を引き起こすとともに戦争を引き起こしたか、という
近代史的な視座を含んでもいる。

ポラニーは結びとして、ロバート・オーウェンの思想を引き継ぐ形で、
人、土地、資本の疑似商品化への制限を提言している。
具体的には、リバタリアニズムを批判した上での、
国家による一定の制約と、国際協調だ。

原著はいわば第二次世界大戦終局期の1944年に発表された。
その後、金本位制はドル本位制へ形を変えて今も残っている。
土地はいまだに市場経済における一商品である。
労働力は小泉規制緩和の一環として流動化された結果、
生活基盤の弱体化と知識伝達の機能不全が昨今ようやく叫ばれている。
国家間ではブロック経済ではなく関税自由化が進められているが、
通貨切り下げ競争による価格競争力の押し付けあいが起きている。
国家による再分配システムが新自由主義的政策と世界金融経済の下で弱体化し、
世界の富の何パーセントをごくわずかな富裕層が保有している、
そのような事態は、まるで第一次世界大戦前の大銀行家の再来である。
オーウェン的な一定の政治的な制限が、世界単一市場に対してどのように可能か、
今こそ考えなければ、システムや枠組みそのものが私企業の手に渡り、
自己調整システムと同じ価格至上主義に生活基盤が押しつぶされかねない。

モラヴィア『薔薇とハナムグリ』、平田オリザ『演技と演出』『演劇入門』、オースター『偶然の音楽』『孤独の発明』、バルザック『ゴプセック 毬打つ猫の店』『サラジーヌ』、多和田葉子『雪の練習生』、別役実『ベケットと「いじめ」』、中沢新一『大阪アースダイバー』『アースダイバー』、クンデラ『冗談』、田中慎弥『実験』

○アルベルト・モラヴィア『薔薇とハナムグリ シュルレアリスム・風刺短篇集』

光文社古典新訳文庫版。
どれも南欧の明るい皮肉が利いているが、
特に、投機商品に喰われる「パパーロ」が、心に残っている。


○平田オリザ『演技と演出』『演劇入門』

いずれも講談社現代新書。
舞台上にいかにリアルを構築するか、という
平田オリザらしい演出のノウハウについて。
また、観客の想像力のコントロール、
内輪へ他者を組み入れることでのストーリーの始動、など。
あるイメージに対して、もっとも遠いところから近づけてゆく、
というリアリティの出し方は感心させられた。

平田オリザの方法論的な演劇の作り方は、
どこかで誰かが書いていた「人間という動物の生態を見せる」そのものであり、
やはり次の技法が求められているような気がしないでもない。
しかし、それは何だろうか?


○ポール・オースター『偶然の音楽』『孤独の発明』

いずれも新潮文庫。
オースターの小説はどれも(『幽霊たち』『孤独の発明』を除いて)、
即興詩のような展開をする。
より具体的にいえば、主人公はその立ち位置を都度々々内省して、
その次の一手を決めて、そのリアクションがストーリーを動かして、
という繰り返しなのだ。
だから、躍動的で一貫しているし、起承転結の波が多重だ。
どの程度までプロットが考えられているのか、疑問に思うことがある。
にもかかわらず、きちんとうまいこと擱筆される。

『偶然の音楽』はタイトルからしてその文体を示していて、
ストーリーもそうだった。
ただ、主人公ナッシュという名はナッシュ均衡を思わせたし、
賭博や会計など数字的な要素がいたるところに散りばめられていて、
BGM的に挿入される音楽が均衡の産物としての藝術だということもある。
思うに、オースターの即興詩のような文体は、
この作品によって見出だされた技法なのではないか。

『孤独の発明』の(以降の作よりは)おっかなびっくりなリニアなストーリー展開が、
そう思わせずにはいられない。

「見えない人物の肖像」は、著者の父の物語、というか筆者による父の人生の分析だ。
誰にも本音を見せない仮面のような人物としての生き様の展開と、
遺品整理から出てきたわずかな人間らしいふるまいの痕跡。
「記憶の書」もまた、著者の家系をめぐる(おそらく実話としての)物語だ。
巻頭の写真に封じ込められた謎へ迫るのは面白い。


○オノレ・ド・バルザック『ゴプセック 毬打つ猫の店』『サラジーヌ』

いずれも岩波文庫。
バルザックの作品はどれもストーリーとして完璧に面白い。
人間の欲望があらわに垂れ出てきて、読み始めてしまった以上は目が離せない。
枠物語も凝っている。
自らの筆名に貴族めかして「ド」を入れただけあって、
社交界の爛熟した村社会の興味関心とはこのようなものだったのかと想像する。


○多和田葉子『雪の練習生』

新潮文庫。
ホッキョクグマの三代記。
多和田葉子の触覚や味覚の表現は素晴らしい。
読後感としては、一つのクマの人生を懸命に生きた充実感のようなものがあった。


○別役実『ベケットと「いじめ」』

ベケット分析から、「個」から「孤」への人間性の変化。
非常に示唆的であり、何箇所もメモしながら読んだ。

「孤」の乗り越え方について。
以前、東京藝術劇場で青山真治演出の『フェードル』を観たが、
あの劇にどこかしらの新しさを感じたのは、
「褪め」みたいな瞬間をうまく取り入れている
(「褪め」がクライマックスの一つの相対化として導入されていた)
と思ったからだ。
個がすでに関係性に埋め込まれている以上、
その枠を破って得体の知れない別の人格を覗かせる手法として、
一つあるのかもしれない。今そう考えている。


○中沢新一『大阪アースダイバー』『アースダイバー』

ファッションビルに復活(復古?)した檸檬で名高い丸善京都店で手に取り、
その後、図書館で立て続けに借りて読んだ。

「ブラタモリ」や古地図が流行するなど、町歩きや小さな身近な歴史が見直されている。
そんな時代にあって、都市が覆い隠せない地形や旧跡や言い伝えが、
どのように残されているかを語る、
それを神話にまで昇華させる試論として
『大阪アースダイバー』は割り切っていて、楽しめた。
大阪という土地は1000年足らずの歴史しかない低湿地で、
そこに生まれる無縁、商売、笑い、死生観、など、
大阪土着の特徴を肌感覚でもわかるように語っていて、面白かった。

東京版である『アースダイバー』は、方法論の模索というか、時代性の先取か。
土地柄としてまでは精通していないからか、そこまで楽しめなかった。
それは、江戸が先史時代から現代まで一本につながっていないためかもしれない。


○ミラン・クンデラ『冗談』

クンデラの思索的な独白調が好きだ。
思考がストーリーと密接につながっていて、小説かくあるべし。
クンデラは人生を哀しく笑い飛ばす、その原点が見られたし、
最後のドタバタ劇は前半から中盤にかけてのシリアスで塞ぐような展開を
一気に蹴落とすかのようだった。
笑いの奥の哀しみの根源は、やはり東欧世界の人生を虚仮にしてきた政治だし、
人間を駒としてしか考えられない非個人主義の徹底だったのだろう。
しかし、それが資本主義社会にも通じるということは、
社会システムに踊らされているという根は同じだということだろう。


○田中慎弥『実験』

久しぶりに文芸誌掲出っぽい中篇小説を読んだ。
そして、その質感が、(誰の作品であろうと)変わっていないことに驚き、
日本文学の停滞を否応なしに見せつけられた気がした。

永田和宏『現代秀歌』、石川文洋『沖縄の70年』、原武史『鉄道ひとつばなし2』、五十嵐太郎『現代建築に関する16章』

(昨年の秋頃に読んだ本たち)


○永田和宏『現代秀歌』

岩波新書。
アンソロジーとして手に取りやすく、その割には充実していた。
気に入った歌をここに記しておく。

ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう(岡野弘彦)
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ(東直子)
右翼の木そそり立つ見ゆたまきはるわがうちにこそ茂りたる見ゆ(岡井隆)
神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき(香川ヒサ)
ふるさとに母を叱りていたりけり極彩あはれ故郷の庭(小池光)
明日弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いゆく(道浦母都子)
一分ときめてぬか俯す黙禱の「終り」といへばみな終るなり(竹山広)
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり(永井陽子)
父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日(永井陽子)
帰りたきいろこのみやの大阪やゆきかふものはみなゑらぐなり(池田はるみ)
春がすみいよよ濃くなる眞晝間のなにも見えねば大和と思へ(前川佐美雄)
神田川の潮ひくころは自転車が泥のなかより半身を出す(大島史洋)
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が(河野裕子)



○石川文洋『フォト・ストーリー 沖縄の70年』

岩波新書。
著者は沖縄出身で戦争を撮り続けた写真家。

戦後、アメリカ軍政に置かれてベトナム戦争の後背の役割を担わされ、
基地排除のために望んだ本土復帰でも基地問題は解決せず、
今は辺野古に揺れる、沖縄の終わらない戦後に対して、
辺野古がまさに戦後の日本のいまであることを、
現実的・日常的にありあまる映像で日本人に突きつける。



○原武史『鉄道ひとつばなし2』

講談社現代新書。
産業史ではなく天皇論、郊外論で語られる鉄道コラムは、
やはりこの著者ならではで面白い。
東急田園都市線の通勤地獄とイメージの乖離、
駅弁や駅そばの画一化、
利用者の減少など、コラム一つずつに濃淡はあれど、
ポストバブル期の郊外論が読み取れた。


○五十嵐太郎『現代建築に関する16章』

講談社現代新書。
建築の哲学が概観できるという意味で、入門書的ながら面白い内容だった。

思うに、現代建築はその時代時代の名建築を見てゆくと、
近現代の個人主義が90年代からポストモダンへ移り変わっているさまが、
非常に明確に現われているような気がする。
例えば、先週に博多で訪れた伊東豊雄プロデュースのネクサスシティを見たときに、
場所性や土地色や周囲環境から解放された一個人の追求がされているように感じたが、
それは戦前、戦後から90年代後半までの建築家に
一貫するスタンスだったように思われる。
大規模な公共事業ではなく個人邸からスタートした安藤忠雄においても、
「住吉の長屋」はやはりそうだ。
言いかえれば、建築においても、人文学や藝術と同じくして、
90年代後半に大きな物語が終わった、ということではないか。
その後、SANAAに代表されるような溶け込む建築が主流となり、
建築は物語性(ならびに物語に従属する個々人)を演出する装置に転換した。
「住む機械」における個人の優越と、コミュニティ・土地への回帰。
建築家から施主(あるいはその思考の土壌としての社会)へ、主役が変わったのか。
転換なのか、転向なのか、脱却なのか、逃走なのか。