2.3.16

モラヴィア『薔薇とハナムグリ』、平田オリザ『演技と演出』『演劇入門』、オースター『偶然の音楽』『孤独の発明』、バルザック『ゴプセック 毬打つ猫の店』『サラジーヌ』、多和田葉子『雪の練習生』、別役実『ベケットと「いじめ」』、中沢新一『大阪アースダイバー』『アースダイバー』、クンデラ『冗談』、田中慎弥『実験』

○アルベルト・モラヴィア『薔薇とハナムグリ シュルレアリスム・風刺短篇集』

光文社古典新訳文庫版。
どれも南欧の明るい皮肉が利いているが、
特に、投機商品に喰われる「パパーロ」が、心に残っている。


○平田オリザ『演技と演出』『演劇入門』

いずれも講談社現代新書。
舞台上にいかにリアルを構築するか、という
平田オリザらしい演出のノウハウについて。
また、観客の想像力のコントロール、
内輪へ他者を組み入れることでのストーリーの始動、など。
あるイメージに対して、もっとも遠いところから近づけてゆく、
というリアリティの出し方は感心させられた。

平田オリザの方法論的な演劇の作り方は、
どこかで誰かが書いていた「人間という動物の生態を見せる」そのものであり、
やはり次の技法が求められているような気がしないでもない。
しかし、それは何だろうか?


○ポール・オースター『偶然の音楽』『孤独の発明』

いずれも新潮文庫。
オースターの小説はどれも(『幽霊たち』『孤独の発明』を除いて)、
即興詩のような展開をする。
より具体的にいえば、主人公はその立ち位置を都度々々内省して、
その次の一手を決めて、そのリアクションがストーリーを動かして、
という繰り返しなのだ。
だから、躍動的で一貫しているし、起承転結の波が多重だ。
どの程度までプロットが考えられているのか、疑問に思うことがある。
にもかかわらず、きちんとうまいこと擱筆される。

『偶然の音楽』はタイトルからしてその文体を示していて、
ストーリーもそうだった。
ただ、主人公ナッシュという名はナッシュ均衡を思わせたし、
賭博や会計など数字的な要素がいたるところに散りばめられていて、
BGM的に挿入される音楽が均衡の産物としての藝術だということもある。
思うに、オースターの即興詩のような文体は、
この作品によって見出だされた技法なのではないか。

『孤独の発明』の(以降の作よりは)おっかなびっくりなリニアなストーリー展開が、
そう思わせずにはいられない。

「見えない人物の肖像」は、著者の父の物語、というか筆者による父の人生の分析だ。
誰にも本音を見せない仮面のような人物としての生き様の展開と、
遺品整理から出てきたわずかな人間らしいふるまいの痕跡。
「記憶の書」もまた、著者の家系をめぐる(おそらく実話としての)物語だ。
巻頭の写真に封じ込められた謎へ迫るのは面白い。


○オノレ・ド・バルザック『ゴプセック 毬打つ猫の店』『サラジーヌ』

いずれも岩波文庫。
バルザックの作品はどれもストーリーとして完璧に面白い。
人間の欲望があらわに垂れ出てきて、読み始めてしまった以上は目が離せない。
枠物語も凝っている。
自らの筆名に貴族めかして「ド」を入れただけあって、
社交界の爛熟した村社会の興味関心とはこのようなものだったのかと想像する。


○多和田葉子『雪の練習生』

新潮文庫。
ホッキョクグマの三代記。
多和田葉子の触覚や味覚の表現は素晴らしい。
読後感としては、一つのクマの人生を懸命に生きた充実感のようなものがあった。


○別役実『ベケットと「いじめ」』

ベケット分析から、「個」から「孤」への人間性の変化。
非常に示唆的であり、何箇所もメモしながら読んだ。

「孤」の乗り越え方について。
以前、東京藝術劇場で青山真治演出の『フェードル』を観たが、
あの劇にどこかしらの新しさを感じたのは、
「褪め」みたいな瞬間をうまく取り入れている
(「褪め」がクライマックスの一つの相対化として導入されていた)
と思ったからだ。
個がすでに関係性に埋め込まれている以上、
その枠を破って得体の知れない別の人格を覗かせる手法として、
一つあるのかもしれない。今そう考えている。


○中沢新一『大阪アースダイバー』『アースダイバー』

ファッションビルに復活(復古?)した檸檬で名高い丸善京都店で手に取り、
その後、図書館で立て続けに借りて読んだ。

「ブラタモリ」や古地図が流行するなど、町歩きや小さな身近な歴史が見直されている。
そんな時代にあって、都市が覆い隠せない地形や旧跡や言い伝えが、
どのように残されているかを語る、
それを神話にまで昇華させる試論として
『大阪アースダイバー』は割り切っていて、楽しめた。
大阪という土地は1000年足らずの歴史しかない低湿地で、
そこに生まれる無縁、商売、笑い、死生観、など、
大阪土着の特徴を肌感覚でもわかるように語っていて、面白かった。

東京版である『アースダイバー』は、方法論の模索というか、時代性の先取か。
土地柄としてまでは精通していないからか、そこまで楽しめなかった。
それは、江戸が先史時代から現代まで一本につながっていないためかもしれない。


○ミラン・クンデラ『冗談』

クンデラの思索的な独白調が好きだ。
思考がストーリーと密接につながっていて、小説かくあるべし。
クンデラは人生を哀しく笑い飛ばす、その原点が見られたし、
最後のドタバタ劇は前半から中盤にかけてのシリアスで塞ぐような展開を
一気に蹴落とすかのようだった。
笑いの奥の哀しみの根源は、やはり東欧世界の人生を虚仮にしてきた政治だし、
人間を駒としてしか考えられない非個人主義の徹底だったのだろう。
しかし、それが資本主義社会にも通じるということは、
社会システムに踊らされているという根は同じだということだろう。


○田中慎弥『実験』

久しぶりに文芸誌掲出っぽい中篇小説を読んだ。
そして、その質感が、(誰の作品であろうと)変わっていないことに驚き、
日本文学の停滞を否応なしに見せつけられた気がした。

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