21.8.09

塚本邦雄『定家百首』、ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

・塚本邦雄『定家百首』

しばしば技巧的に過ぎるといわれる新古今の、
代表歌人である藤原定家。
その名歌の百首を編んで訳と解説を附した著作。
打ち消しの美学と余韻、現実ではなくイデア世界の描写、
時間推移までも読み込む言葉択び、などなど、
和歌に明るくない自分でもはっとするような和歌ばかりで、
800年前の和の繊細さ・藝術性に驚かされた。


・ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』

人は外部に規定される。
「学校」があるから生徒を演じ、「恋」があるから恋人を演じる。
そんな、普通の捉えられ方からの顛倒に人間の本質を見るのは、
経験主義ではヒュームの「知覚の束」であったり
サルトルの「l'être d'autrui」だったりする。
……とまぁ、そんな固い話は措いておいて、
『フェルディドゥルケ』は、うまいこと場の空気にあわせようとして
頑張るんだけど、やっぱり居心地が悪くて暴れちゃう、みたいな話。
それは「恋」に至ってすらそうだ。

 恋する気持はしあわせの一語に尽きるということを知っていたので、幸せだった。

となってしまう。「恋をしていたので幸せだった」のではない。
恋をする者に幸せを強いるような暗黙の了解が至るところにあって、
主人公だけがそこを抜け出そうとしてもがき苦しみ続ける。
主体ってどこよ? そんな哲学的な主題を
グロテスクにパロディ化した小説として、自分は読んだ。

9.8.09

村上春樹『1Q84 Book1』『1Q84 Book2』

頭の中で村上の文学性にけりをつけられていないため、
ジョージ・オーウェルを意識した明らさまなタイトルも手伝い、
手に取ることを敬遠していた本新作。
いざ読み始めると、二三日で一気に読んでしまった。
これは純粋に面白い小説だった。

外枠には確かに『1984』があるかもしれない、
しかしその世界の有り様への疑問のおこりは、
むしろ『競売ナンバー49の叫び』を思わせたし、
カルト宗教への問題意識は、同作者のノンフィクションの
『アンダーグラウンド』を素地に見出せた。
チェーホフ、フレイザー、マクルーハン、その他さまざまな引用を
小道具として入れ込んじゃうあたり、巧い。
もはや、初期の村上春樹と同一人物なのかもわからない。

もっとも、こういう手合いの「解説」って、
何の面白みもないから、もうやめる。
でも、この作品は非常に面白いし、
バブル前、最後の輝きを誇った日本経済の裏で
誰も気づかないうちに進行した精神的な問題を
いくつか問いかけているように感じてならない。

特に、ビッグ・ブラザーに対するリトル・ピープルは、
現代では匿名な多数の何がディストピアを生むのかという
鋭い指摘になっている。
それは匿名性に覆われた情報化社会か? メディアなのか?
あるいは、メディアを批判しようともその代替案を提示できずに
何に判断材料を求めればよいかわからずに保守に迷走するネット右翼?
あるいはその帰結がたまたま逆になったネット左翼?

ネタの尽きない面白い作品だった。

5.8.09

高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』

エピソードの断片とそれに対する徒然な解釈を織ってゆくような、
章立てをかなり区切ってゆくようなこの書き方って、
明らかに村上春樹の初期二短篇の影響を受けている。
もっとも、そのことと内容とは、あまり関係はない。

この文章は小説だが、あらすじを語るのは無意味というか無謀だ。
それでも知りたい人もいるかもしれないから、
一応書いておこう。こんな感じだ。

 「さようなら、ギャングたち」が主人公の名前で、
 その名の通り、ギャングたちと劇的な別れを告げる。

はい、これがあらすじ。
あらすじというか、あらすじ群の主な一本…?(笑)

この小説はとても文学的。というか、「文学」学的。
例えば、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の引用を見つけて、
ちょっとテンションが上がった。

かつて読んだ同作者の『ジョン・レノン対火星人』よりは摑めたような気がする。
次は『優雅で感傷的な日本野球』を読もうかな。

26.7.09

こんな時代

こんな時代に生まれました。 ──上松秀実

高橋和巳、庄司薫、大江健三郎、三田誠広のような世代論がないのが
我々、1980年後半生まれの特徴かもしれない。
四十年代前半には戦争文学、後半から五十年代にかけては戦後派、
六十年代には第三の新人、内向の世代、と続いて……それから何があった?
Jブンガク? それは世代関係ないよね?
私は密かに、我々の年代の代弁者たる文学は枯渇していて、
残念な綿矢りさとか、よくて金原ひとみとか、その程度しか文学史に時代を残せないまま
死んでしまうかもしれない、と、死後の世界を恐れるような漠々たる危惧を感じている。
(羽田圭介? ハッ。)
もちろん、我々を昭和最終期とか平成生まれとかいうのはおかしい。
昭和は実際的には1970年代あたりで終焉しているし、
1980年代後半生まれと平成(1990年)生まれとの間に、決定的な違いはないからだ
(いわゆるゆとり世代との峻然だる境界を見出すならその間かもしれないが、
 極論するなら、ゆとり世代は、隔週週休二日制を経験した我々をも含みうる)。
むしろ、平成という年号は、かつてないほど軽く受け止められてきたし、
バブル後の不況から現在までの、日本経済の成長幻想からの後味ばかり悪い寝覚めと
同一のものとして使用されてきた。

あ、もうやめよう。イオンで買った安い白ワインを呑みながらの徒然な文章なんて。
でも、白ワインをなめんなよ。
私はこれでも県番号67のアルザシアン、ストラスブルジョワなのだから。
基督の精液を一瓶分、たった今飲み干したる私なのだから。

上記、上松秀実の出身の佐渡に行こうとして、結局天候が悪くて行けんかった。
しかし、新潟は私の日本観に静かに影響を与えたように思う。
例えば、関東平野を差し置くような広い平野を実感したし、
行政区画(市町村)の、実情を無視した横暴たる拡大、など。
なぁ、財政が厳しいからって市町村合併を促進するなんて、
M&Aの下剋上を国が支援するのと同じことじゃないのかい?

サラマーゴ『あらゆる名前』、猪野健治『やくざと日本人』/選挙前の雑感

・サラマーゴ『あらゆる名前』

サラマーゴは仮想現実的、思考実験的な舞台を作図し、
ボルヘスはメタ小説、虚構を材に取ったジャーナリズムである。
そして、ボルヘスの『バベルの図書館』とサラマーゴの『あらゆる名前』は
完全に交叉しているように思った。
『バベルの図書館』は文学の極北だと思う。
この万能知から出発して文学を生き生きと蘇らせることができるか、
これが現代文学の重要な一課題だと。
日本文学では、庄司薫が『白鳥の歌なんか聞こえない』で、
そして初期の村上春樹が消極的にこの問題に真っ向から取り組んだ。
だが、それはやはり、お手上げ、という結論が仄めいてはいなかったか。
サラマーゴは、辛うじて人間が主体性を維持できていると表明した。
だが、それは情報社会がITからICTへ着々と推移する現代社会にも通用するのだろうか。


・猪野健治『やくざと日本人』

「そんな物騒な題材の本を読んで」と嫌悪した者を、私は嫌悪する。
これはやくざの社会史であって、やくざを通して視た日本社会・政治史だ。
大枠には、やくざは地元ののし上がり的な名士だった。
港湾や炭坑といった警察力の届かない領域を実行支配した裏の警察力だから、
悪とすれば必要不可欠な悪だった。
帝国議会の衆議院が単なる地方地方のお山の大将の寄せ集めに過ぎなかったのと
全く同じ理由で、戦前なら政友会や民政党とやくざは当然のように癒着するし、
跡を継いで戦後は自民党との癒着が政治史に見え隠れするやくざの存在は、
ルソーのいう特殊意志に雁字搦めになった議会制民主主義の調整役だった。
そして東京五輪の時期に頂上作戦によって一気に勢力を殺がれて市民の理解を失ってから、
アジア系裏社会と対立しつつさらに見えない地下へ潜ってゆく。
日本における権力とは何か、という現実を視る上で、これほどの名著はない。
近づく総選挙の投票先の参考にするという意味で、特に自民支持層には読んでほしい。
その上で、「自民のいう『経済政策』の実態は何なのか」を考えてほしい。

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最近の雑感として、自民党と公明党はもはやどう違うのかがわからない。
もちろん支持母体や成り立ちは違うが、やっていることや協力の親密さという実態の部分で
自民党と公明党にどれだけの差異があるだろうか。

加えて、上の『やくざと日本人』にちらと出てきた
「戦後の保守の流れには、吉田と鳩山の二大勢力が原則としてあった」という指摘。
民主党はその意味でも、小沢の後釜に鳩山を据えるべきではなかった。
麻生(吉田茂の孫)vs鳩山では、五十五年体制は異様な再現度を保って持続しているし、
民主党は社民党と接近しているとはいえ中枢は依然として保守であって、
決して海外の新聞で短絡に附記されるように中道左派の政党ではないからだ。
もちろん、利権維持のためでしかない保守よりは民主党のほうがはるかにマシだが、
長期的に民主党が政権を維持しては、再び自民党の亜種が出来上がるだけだ。
だから今回の選挙では民主党の首に縄をかけておく意味を込めて
社民党が伸びてくれることを希うのが、戦略的に正しいのかもしれない。