9.3.10

侯孝賢『戀戀風塵』

兵役と恋の終わりという同じ題材を求めた映画として、
ジャック・ドゥミ『シェルブールの雨傘』が連想されるのは当然だろう。
だがこの題材は、『戀戀風塵』という映画の終わりを彩るだけで、
映画全体を貫く主題ではない。
主題は淡々としたホンとワンがお互いを意識する淡さだ。
どうしてどうなるのか? ただ同じ田舎で同じように台北に出たから。
必然だ。あるいは、運命と呼んでもよいかもしれない。
そうやって考えると、あらゆるところに、
こういった淡々と流れる因果のような運命がある。
ワンの祖父がよくつぶやく諦観がそうだし、
父親の兵役の話や、勉強が無駄になった話、
それらはワンに何かを示唆するでもなく淡々と語られるだけ。
『シェルブールの雨傘』と比較するとき、この淡々とした諦観が
いわゆるアジア的な感覚として際立つ気がする。

7.3.10

及川中『日本製少年』

1995年の作品という。日本が閉塞の真っただ中にある時代だ。
大和(大沢樹生)の目力は、居場所のない彷徨の中で何を見据えていたのか。
かつて清掃人として勤めて馘になった浦安の楽園を遠巻きに、舞台は延々と淡々と廻る。
ふざけながら、飽きながら、とぼとぼ歩いてゆく切なさが、見ていて重かった。
とうとうペースペーカーの電池が切れて死んだカオル(嶋田加織)の身体を
抱き起こそうとしては地に崩す遠景、背景は海の潮。切なかった。
約束が叶ってゴミ箱に捨てられたカオルの満足そうな表情は
何に満足していたのか? 生きたこと?
カオルの生い立ちは語られない。だから一層、胸を打った。

6.3.10

アレクサンダー・ソクロフ『太陽』

イッセー尾形演じる唱和天皇の孤独が主題。
こうも表情と動きを抑えて演じきれるものなのか。
とにかく秀逸さには驚いた。

撮影時にチャップリンと囃される場面が印象的だった。
もちろんその服装からだが、
所詮は天皇も機構の歯車にすぎないからだろう。
動きがカクカクすぎることもあるかもしれない。

周囲に畏みを課さざるを得ない、
日本軍の長として国民に戦死と自決を課さざるを得ない、
極言すれば触れれば死に至る存在として宮城内に過ごし、
ようやくその肩の荷の降りたヒロヒトは、
人間宣言を録音した技官の自決をどう感じたのだろうか。

皇后と子どもたちを想う父親としても、大きく描かれている。
戦後の皇室像に引き寄せてか。
母子手帳をはじめとする明仁の一子の徳仁の例が、
前例のない皇室の姿だったことを、連想させた(深読みし過ぎかも)。
でもこの題材は、父親の姿というより、
皇居に単身赴任状態という、寂しさの一面のために思えた。

28.2.10

マルセル・エメ傑作短編集

20世紀の暗いユーモアが語った、でも人間味ある物語たちだった。
星新一っぽいかもしれないけれど、
パリやプロヴァンスの舞台や時代、情景は心境とともに、
綺麗に文体に写し取られている。
第一次大戦で一気に突入した、
戦争と総力戦の世紀としての短い20世紀の幕開け、
それと同時に断ち切られた19世紀への望郷が、
ところどころで垣間見えるような気がした。
人はたくましく、都市のグロテスクを生きてゆく。

24.2.10

折口信夫『死者の書』

大津皇子の魂が二上山の墓で目醒め、藤原南家郎女を呼ぶ。
藤原南家郎女はその俤を感じて、導かれるように都を出る。
蓮から糸を紡ぎ、その細い糸を奇蹟的に織り上げ、
そこに描いた曼荼羅絵の、刹那にして永遠のきらめき。
この伝説めいた感じ。

大津皇子の子孫の淡海三船、藤原仲麻呂(=恵美押勝、南家)、
大伴家持、といった官僚たちの権力争いが、脇で垣間見える。
そのせせこましさ、無常感は、主題の力強い素朴さを逆に強調し、哀れで滑稽。
言葉の端々に見える、紫微中台、大師といった官職名は、
唐風に染まった天平文化の頃の特有の名称だ。
または、平城京のだだっぴろい寂しい描写が西安の都を対比させる。

さらには、神ではなく仏が、神秘の核にある。
でも、ここに描かれた仏は、果たして仏教的な仏なのか。
葛城の寺院と、物忌の思想、さらには大津皇子の俤が菩薩となって現れるということ、
これらはかなり日本化された仏信仰ではないだろうか。

躑躅(ツツジ)や田植え、嵐、村の描写は、
どうしても緑豊かな奈良盆地を脳裡に浮かべずにはいられない。
二上山のたおやかな双峯も、また奈良らしい景色だ。

旧仮名遣いの文章ながら、さほど意識せずに読めたのは、
漢語が少なく大和言葉の多い文体ゆえかもしれない。
むしろ、漢字熟語をここまで抑制して、この表現力。