ヤクザ映画ではないが、間あいの取り方がやはり良かった。
終盤、キャンプで遊ぶシーンは、『ソナチネ』に似ている気がした。
底の張り詰めた雰囲気はなく、もっとユーモラスだったとはいえ。
これも一つの大きな間あいだ。
菊次郎って少年の名前じゃなくておっさんのほうなのか。
人々が奇妙に繋がる、その別れの挨拶がすべて「またね」だったのが良かった。
おそらくはもう二度と会わないだろうのに。
14.8.10
レーモン・クノー『地下鉄のザジ』
主人公以外の登場人物もそれぞれ際立った群像劇で、
口語の多いドタバタとスピード感が読み心地よい。
フランス語の言葉遊びの部分が、邦訳ではかなり隠れるのは残念。
作品の発表が1959年ということもあり、
種々を笑い飛ばしてしまう(作者や書く行為をも)態度が、
庄司薫的な文壇に対する挑発行為だったのか、とも思った。
実際、訳者の生田耕作は後書きで、実存主義と抵抗文学で
重苦しくなった読書界に非常に受けた、ということを書いている。
口語の多いドタバタとスピード感が読み心地よい。
フランス語の言葉遊びの部分が、邦訳ではかなり隠れるのは残念。
作品の発表が1959年ということもあり、
種々を笑い飛ばしてしまう(作者や書く行為をも)態度が、
庄司薫的な文壇に対する挑発行為だったのか、とも思った。
実際、訳者の生田耕作は後書きで、実存主義と抵抗文学で
重苦しくなった読書界に非常に受けた、ということを書いている。
11.8.10
エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリ『南仏ロマンの謝肉祭(カルナヴァル) 叛乱の想像力』
原題は « Le Carnaval de Romans de la Chandeleur au Mercredi des Cendre 1579-1580 »。
1580年、ロマン・シュル・イゼール(Romans-sur-Isère, Dauphiné)の
謝肉祭で、都市手工業者と農民、新教徒過激派が叛乱を起こした。
この事件は謝肉祭というハレの文法に則って行われたことで、
フランス中世社会史的には有名。
おこりの特殊な構造と、日常空間と祝祭空間がどのように溶け合っていたのか、
それを知るために手に取ったこの本は、全700ページほどもある大著だった。
地理、身分、宗教、貧富、職業などが
複雑に積み重なり絡み合った位相として、叛乱は惹き起こされる。
叛乱への前過程・背景として大きく章を割いているのは、
所得や身分ごとの人口比とその納税額。
新興貴族階級の免税特権批判と第三身分の負担軽減を求める声は
かなり強まっていた。
1579年のカトリーヌ・ド・メディシス巡察時、
民衆派弁護士ド・ブールによって陳述書が直訴されていたことからも伺える。
税の負担や特権に関するだけでも、
不在地主の納税という都市-農村の対立、
人的課税を批判しローマ法的な物的課税を求める
第三身分の声(貴族・聖職者-民衆の対立)、
同じドーフィネ地方内でも貴族の免税特権のない都市の存在などの位相がある。
17世紀に入っても、民衆派の論客たちの主張が
身分制批判ではないというところが興味深かった。
むしろ、身分制を擁護したうえで、序爵を買ったような新興貴族への批判や、
貴族という身分が本来果たすべき役割を問うような批判だった。
アリストテレス的調和論、プトレマイオス的世界観がよく表れている。
エドモンド・リーチなどによれば、祝祭は
日常から祝祭への突入(仮面舞踏会など)、
逆転や周縁の強調(死の踊り、無礼講、など)、
日常への再統合(偽王の処刑など)の三位相に分類される。
反体制側の動きは第二相的で、体制側は第三相的に動いた。
動乱とその封じ込めのどちらも露骨に政治的だが、
祝祭に重ねられている以上、
諸事項に込められた意味はきわめて祝祭的に多重に解釈される。
例えば、手工業者の守護聖人ブレーズの祝日に叛乱は起き、
ブランルという踊りが踊られる。
足に鈴をつけることで教会(鐘)の権威を地に落とし、
また、死や脱聖化を意味する。
とはいえむしろ、この叛乱は心性にどうこうというより、
この祝祭によって緊張関係が頂点に達したことで、
祝祭のコードが体よく利用された、かなり政治的な事件だっただけ、
という気もする(首領部はけっこう冷めている)。
もっとも、謝肉祭そのものが、見方によっては政治的・反動的なのだが。
だから物語展開は大江健三郎『万延元年のフットボール』とよく似た心地がした。
1580年、ロマン・シュル・イゼール(Romans-sur-Isère, Dauphiné)の
謝肉祭で、都市手工業者と農民、新教徒過激派が叛乱を起こした。
この事件は謝肉祭というハレの文法に則って行われたことで、
フランス中世社会史的には有名。
おこりの特殊な構造と、日常空間と祝祭空間がどのように溶け合っていたのか、
それを知るために手に取ったこの本は、全700ページほどもある大著だった。
地理、身分、宗教、貧富、職業などが
複雑に積み重なり絡み合った位相として、叛乱は惹き起こされる。
叛乱への前過程・背景として大きく章を割いているのは、
所得や身分ごとの人口比とその納税額。
新興貴族階級の免税特権批判と第三身分の負担軽減を求める声は
かなり強まっていた。
1579年のカトリーヌ・ド・メディシス巡察時、
民衆派弁護士ド・ブールによって陳述書が直訴されていたことからも伺える。
税の負担や特権に関するだけでも、
不在地主の納税という都市-農村の対立、
人的課税を批判しローマ法的な物的課税を求める
第三身分の声(貴族・聖職者-民衆の対立)、
同じドーフィネ地方内でも貴族の免税特権のない都市の存在などの位相がある。
17世紀に入っても、民衆派の論客たちの主張が
身分制批判ではないというところが興味深かった。
むしろ、身分制を擁護したうえで、序爵を買ったような新興貴族への批判や、
貴族という身分が本来果たすべき役割を問うような批判だった。
アリストテレス的調和論、プトレマイオス的世界観がよく表れている。
エドモンド・リーチなどによれば、祝祭は
日常から祝祭への突入(仮面舞踏会など)、
逆転や周縁の強調(死の踊り、無礼講、など)、
日常への再統合(偽王の処刑など)の三位相に分類される。
反体制側の動きは第二相的で、体制側は第三相的に動いた。
動乱とその封じ込めのどちらも露骨に政治的だが、
祝祭に重ねられている以上、
諸事項に込められた意味はきわめて祝祭的に多重に解釈される。
例えば、手工業者の守護聖人ブレーズの祝日に叛乱は起き、
ブランルという踊りが踊られる。
足に鈴をつけることで教会(鐘)の権威を地に落とし、
また、死や脱聖化を意味する。
とはいえむしろ、この叛乱は心性にどうこうというより、
この祝祭によって緊張関係が頂点に達したことで、
祝祭のコードが体よく利用された、かなり政治的な事件だっただけ、
という気もする(首領部はけっこう冷めている)。
もっとも、謝肉祭そのものが、見方によっては政治的・反動的なのだが。
だから物語展開は大江健三郎『万延元年のフットボール』とよく似た心地がした。
31.7.10
森鷗外『渋江抽斎』
「歴史そのまま」を標榜して晩年に書かれ、
評価の分かれる作品であることは云うに及ばず。
歴史とは、有象無象の事象の羅列が一本の物語として編集された形である以上、
それが「そのまま」として無為自然の顔をしているのは矛盾している。
ならば「歴史そのまま」ってのはどういうことなんだろう、
という疑問から、この作品を手に取ることにした。
語りは、鷗外が古書の蒐集の過程で
渋江の蔵書印の多いことに気づくところから始まり、
その末裔との接触など、渋江抽斎の生きた痕跡を調べる過程が綴られる。
続いて、抽斎とその周辺の人々の氏、名、号、職業、石高などと来歴が語られ、
そしてようやく、人と人が動いて繋がってゆく。
紀伝のような記述だと思った。
それは、遺された書物や日記から過去を再現するからなのだろう。
実際、抽斎の死後に時が下って、存命の人々の描写となると、
人物像や言動はかなり息づいてくる。
ただ、それがおもしろいかどうかは、本当に素材次第になるんじゃないか…。
実際、抽斎の生き様は小官僚みたいでそんなに惹かれなかったが、
その妻の五百の話は面白かった。
でもそれは題材に面白いが「偶然」もぐり込んだだけだ。
小説にこの偶然性が許されるのか? それはないだろう。
小説のみならず、「話」には起伏のなさは許されない。
それでよいのか、ということだ。
評価の分かれる作品であることは云うに及ばず。
歴史とは、有象無象の事象の羅列が一本の物語として編集された形である以上、
それが「そのまま」として無為自然の顔をしているのは矛盾している。
ならば「歴史そのまま」ってのはどういうことなんだろう、
という疑問から、この作品を手に取ることにした。
語りは、鷗外が古書の蒐集の過程で
渋江の蔵書印の多いことに気づくところから始まり、
その末裔との接触など、渋江抽斎の生きた痕跡を調べる過程が綴られる。
続いて、抽斎とその周辺の人々の氏、名、号、職業、石高などと来歴が語られ、
そしてようやく、人と人が動いて繋がってゆく。
紀伝のような記述だと思った。
それは、遺された書物や日記から過去を再現するからなのだろう。
実際、抽斎の死後に時が下って、存命の人々の描写となると、
人物像や言動はかなり息づいてくる。
ただ、それがおもしろいかどうかは、本当に素材次第になるんじゃないか…。
実際、抽斎の生き様は小官僚みたいでそんなに惹かれなかったが、
その妻の五百の話は面白かった。
でもそれは題材に面白いが「偶然」もぐり込んだだけだ。
小説にこの偶然性が許されるのか? それはないだろう。
小説のみならず、「話」には起伏のなさは許されない。
それでよいのか、ということだ。
29.7.10
中上健次『地の果て 至上の時』
すべてをお見通しの存在として君臨していた浜村龍造が弱まり、
他の登場人物が輝き出すという、多極化してばらばらになりそうな設定、
これを一本にまとめあげる力を、神話というのだろう。
秋幸と浜村龍造の立場の違いと同一性が浮き彫りにされながら、
終わり=円環の始まり に向かって進んでゆく一本の筋だけでは、
この厚みにはならない。
路地の消失と再現、開発の波、新興宗教、そして他の若い勢力の擡頭、
これらがどれ一つとっても濃い謂いを有していることが、
この厚みと、『枯木灘』に較べて一見遅い進行だ。
『百年の孤独』にまで神話的文学を求めなくとも、
本作が現代に神話を、あまりに現実が生々しい神話を、現出させている。
ヒントがささくれのようにあちこちに飛び出していて
どう分析してもおもしろい、だから当然ながら再読したくなる。
他の登場人物が輝き出すという、多極化してばらばらになりそうな設定、
これを一本にまとめあげる力を、神話というのだろう。
秋幸と浜村龍造の立場の違いと同一性が浮き彫りにされながら、
終わり=円環の始まり に向かって進んでゆく一本の筋だけでは、
この厚みにはならない。
路地の消失と再現、開発の波、新興宗教、そして他の若い勢力の擡頭、
これらがどれ一つとっても濃い謂いを有していることが、
この厚みと、『枯木灘』に較べて一見遅い進行だ。
『百年の孤独』にまで神話的文学を求めなくとも、
本作が現代に神話を、あまりに現実が生々しい神話を、現出させている。
ヒントがささくれのようにあちこちに飛び出していて
どう分析してもおもしろい、だから当然ながら再読したくなる。
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