31.7.10

森鷗外『渋江抽斎』

「歴史そのまま」を標榜して晩年に書かれ、
評価の分かれる作品であることは云うに及ばず。
歴史とは、有象無象の事象の羅列が一本の物語として編集された形である以上、
それが「そのまま」として無為自然の顔をしているのは矛盾している。
ならば「歴史そのまま」ってのはどういうことなんだろう、
という疑問から、この作品を手に取ることにした。

語りは、鷗外が古書の蒐集の過程で
渋江の蔵書印の多いことに気づくところから始まり、
その末裔との接触など、渋江抽斎の生きた痕跡を調べる過程が綴られる。
続いて、抽斎とその周辺の人々の氏、名、号、職業、石高などと来歴が語られ、
そしてようやく、人と人が動いて繋がってゆく。
紀伝のような記述だと思った。
それは、遺された書物や日記から過去を再現するからなのだろう。
実際、抽斎の死後に時が下って、存命の人々の描写となると、
人物像や言動はかなり息づいてくる。
ただ、それがおもしろいかどうかは、本当に素材次第になるんじゃないか…。
実際、抽斎の生き様は小官僚みたいでそんなに惹かれなかったが、
その妻の五百の話は面白かった。
でもそれは題材に面白いが「偶然」もぐり込んだだけだ。
小説にこの偶然性が許されるのか? それはないだろう。
小説のみならず、「話」には起伏のなさは許されない。
それでよいのか、ということだ。

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