ペドロ・アルモドバル『ボルベール〈帰郷〉』
例えば死んだパコの処分や叔母の葬儀など劇的なはずの場面も、
あっさり起こっては疲れた日常に紛れるように受容される、
そんな感じに描かれて、なかなかとりとめがないように感じた。
過去にばかり拘泥しているストーリー展開だし。
主題がいくつもあるのにどこに主眼を置けばよいか分からない交響曲のよう。
最後に母親の口から明かされる代々の因縁に、
一つずつの出来事が渦を巻いて呑み込まれる。
それも救いとはいかず、どこへ向かうのかよくわからない。
観客に任される、というよりは、その圧倒と余韻を楽しんだ。
登場する女性たちのなかでずば抜けて綺麗かつ化粧の濃い
ペネロペ・クルス演じるライムンダが、
初めから終わりまでずっと自己中心的に動き回るが、
最後は母親と出会って家族とともに落ち着くという、
映像的にはそんな感じだった。
塚本晋也『六月の蛇』
久しぶりに観た塚本晋也だった。
都会と暴力、というより(それもあるけど)、
『VITAL』みたいな執念を感じた。
青一色の暗い舞台と、陰に縁取られた人物のアップと、雨と湿度。
レンズが至るところに在る、という謂いは凡庸でも、
それが本性と人格を剥ぎ取ってとんでもないところへもってゆく
ストーリーが、まぁ気持悪かった。
♀部がベースで♂部が展開、両者の変な合一が虚妄、になるんだろうか。
妻とストーカーと夫と、三者が袋小路で織りなす場面は
印象的だっただけでなく、象徴的だった。
カメラのレンズはただ映す。
だが被写体の仮面どころか本性まで剥ぎ取ろうとするストーカーと、
自らがまるで妄想するレンズそのものになってしまう夫と。
30.10.10
セルジュ・ブルギニヨン『シベールの日曜日』、磯田道史『武士の家計簿』
セルジュ・ブルギニヨン『シベールの日曜日』
原題はCybèle ou les dimanches de ville d'Avray。
記憶喪失の奥に兵士として少女を撃ち殺した葛藤を抱えたピエールが、
寄宿学校に捨てられたシベールに惹かれたのは、
記憶に疼くものがあったからだろう。
シベール役のパトリシア・ゴッジの
容姿と仕草のかわいらしさが光る作品でありつも、
カメラワークが繊細で詩的だったのが印象的。
「寄宿学校のベッドで作り物の青い石が肩に触れたときに
ピエール(Pierre=石)のキスを感じた」というシベールの独白も、
曇ったガラス越しに池を眺めるピエールの眼差しも、
Cybèleの名が明されたときすぐさま同音のsi belleに変じ
その美しい風景がクリスマスの夜にすぐに消えてしまうはかなさも。
池のほとりのカフェで暖炉の火に照らされる陰翳の美しさは白黒とは思えない。
磯田道史『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』
加賀藩の御算用者の猪山家がどのように取り立てられ、
廃藩置県を経て海軍省官僚として身を立てたかが時系列をもって開陳される過程が、
たいへん史料考証的で面白かった。
原題はCybèle ou les dimanches de ville d'Avray。
記憶喪失の奥に兵士として少女を撃ち殺した葛藤を抱えたピエールが、
寄宿学校に捨てられたシベールに惹かれたのは、
記憶に疼くものがあったからだろう。
シベール役のパトリシア・ゴッジの
容姿と仕草のかわいらしさが光る作品でありつも、
カメラワークが繊細で詩的だったのが印象的。
「寄宿学校のベッドで作り物の青い石が肩に触れたときに
ピエール(Pierre=石)のキスを感じた」というシベールの独白も、
曇ったガラス越しに池を眺めるピエールの眼差しも、
Cybèleの名が明されたときすぐさま同音のsi belleに変じ
その美しい風景がクリスマスの夜にすぐに消えてしまうはかなさも。
池のほとりのカフェで暖炉の火に照らされる陰翳の美しさは白黒とは思えない。
磯田道史『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』
加賀藩の御算用者の猪山家がどのように取り立てられ、
廃藩置県を経て海軍省官僚として身を立てたかが時系列をもって開陳される過程が、
たいへん史料考証的で面白かった。
21.10.10
福永信『星座から見た地球』
A、B、C、Dの四人の小話が一段落ずつ、順繰りに延々と続く。
シャボン玉やバスの話、病院での奇妙な冒険譚、出会い、別れ、生、死、…。
そのときどきで、AはさっきのAと別の子(猫?)だし、
時間軸を遡ったり、あっちこっちでエピソード同士が重なったり翳めたりする。
ストーリーはない。いや、無数にある。
風景の点描からあぶり出されるような淡い物語のかずかずだ。
大きな一本のストーリーとしての小説を予想すると、見事に裏切られる。
なんか、ふっと暖かい。
大人のわからないところで、子供や猫や、まだ産まれていない胎児や、雰囲気が、
そっとことの成り行きを見守りつつくすくす笑っているような。
シャボン玉やバスの話、病院での奇妙な冒険譚、出会い、別れ、生、死、…。
そのときどきで、AはさっきのAと別の子(猫?)だし、
時間軸を遡ったり、あっちこっちでエピソード同士が重なったり翳めたりする。
ストーリーはない。いや、無数にある。
風景の点描からあぶり出されるような淡い物語のかずかずだ。
大きな一本のストーリーとしての小説を予想すると、見事に裏切られる。
なんか、ふっと暖かい。
大人のわからないところで、子供や猫や、まだ産まれていない胎児や、雰囲気が、
そっとことの成り行きを見守りつつくすくす笑っているような。
20.10.10
ポール・オースター『幻影の書』
無声映画で活躍し忘れられた役者ヘルター・マンの失われた一代記があり、
導入と狂言回しには語り手の悲劇と復活がある。
死後に伝記を出版するという執拗なまでに完璧で逆説的な手法が
シャトーブリアンとアルマと語り手デイヴィッドの三重奏で綴られ、
その連関と気づきが物語をどんどん明らかにしてゆく、
この冒険感はたまらなかった。
その中で語られるメタな物語の精巧さ(特に映画の描写)が美しい。
三重奏になっているのは、すでに失われかけたものを捉えて記述する流れ。
過去と折り合いをつけるべく図り、行為するなかで、
次第に芽生える未来が、最後にはっきりと記述される下りは、
じつに淡々としているが、力強い。
私的メモ。
改めて、文体について考えた。
説明においては思考し、行動においては先回りしする文体、とでも云おうか。
この体験をさせられたのは、3年ほど前に読んだサラマーゴ以来。
導入と狂言回しには語り手の悲劇と復活がある。
死後に伝記を出版するという執拗なまでに完璧で逆説的な手法が
シャトーブリアンとアルマと語り手デイヴィッドの三重奏で綴られ、
その連関と気づきが物語をどんどん明らかにしてゆく、
この冒険感はたまらなかった。
その中で語られるメタな物語の精巧さ(特に映画の描写)が美しい。
三重奏になっているのは、すでに失われかけたものを捉えて記述する流れ。
過去と折り合いをつけるべく図り、行為するなかで、
次第に芽生える未来が、最後にはっきりと記述される下りは、
じつに淡々としているが、力強い。
私的メモ。
改めて、文体について考えた。
説明においては思考し、行動においては先回りしする文体、とでも云おうか。
この体験をさせられたのは、3年ほど前に読んだサラマーゴ以来。
12.10.10
福永信『アクロバット前夜90°』
福永信の第一短篇集。
もっともこちらは「90°版」で、元は特徴的なヨコ組。
文章が改行されずにページを跨いで延々と一行目を走り、
その果てでようやく二行目に、…というもの。
福永信の短篇はどれも不思議だ。
物語が進行しているのに、記述は表面をなぞるばかりで、
意味や背景や思考は語られない。
そして語りはときに符牒や暗示を孕むが、
それがどういった意味と因果を持つのかは、やっぱりわからない。
わけのわからないまま物語であるというだけの理由で
物語を抱えて、語る言葉を駆け抜けてゆく感覚。
書き下ろし短篇「五郎の五年間」は措いて、
ほかのどれもテーマとしては、擬態と偵察だろう。
そしてそれが、ある一者の立ち位置から書き始められるものの、
結局はほかの無数に紛れ、惑わされるようにしてわからなくなる。
文体自体がそうという、なんとも煙に巻かれたような読後感だ。
もっともこちらは「90°版」で、元は特徴的なヨコ組。
文章が改行されずにページを跨いで延々と一行目を走り、
その果てでようやく二行目に、…というもの。
福永信の短篇はどれも不思議だ。
物語が進行しているのに、記述は表面をなぞるばかりで、
意味や背景や思考は語られない。
そして語りはときに符牒や暗示を孕むが、
それがどういった意味と因果を持つのかは、やっぱりわからない。
わけのわからないまま物語であるというだけの理由で
物語を抱えて、語る言葉を駆け抜けてゆく感覚。
書き下ろし短篇「五郎の五年間」は措いて、
ほかのどれもテーマとしては、擬態と偵察だろう。
そしてそれが、ある一者の立ち位置から書き始められるものの、
結局はほかの無数に紛れ、惑わされるようにしてわからなくなる。
文体自体がそうという、なんとも煙に巻かれたような読後感だ。
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