16.5.11

松宮秀治『ミュージアムの思想』

世界遺産とはもとより特異な一文化の際を保存するものだったが、
その考え方があらゆる差異への視点と変わり、
どんどん世界遺産が増え、やがては世界のあらゆる差異が
保護区に入れられて、墓として聖別されてしまうのではないか。

そんな具合で、美術館、博物館、図書館、資料館、等といった、
蒐集と保存をする一機関という思想への疑問は、個人的に2年ほど前から持っていた。

一方で、蒐集・保存・開陳というミュージアムの思想は、
すべての世界史的事象が相対化されてリアルとしては
日常近辺しかなくなってしまうという90年代とゼロ世代以降の文学世界に対し、
聖域創出というアンチテーゼになるかもしれない。
では、そもそもミュージアムとは何なのか?
この疑問について歴史的な背景を知っておこうと、この本を手に取った。
しかし嬉しいことに、歴史的な経緯だけでなく非常に多くの示唆を与えられた。

ミュージアムとは、公衆に開かれ、社会とその発展に奉仕し、かつまた、人間とその環境との物的証拠に関する諸調査を行い、これらを獲得し、それらを保存、報告し、しかも、それらを研究と、教育と、レクリェーションを目的として陳列する、営利を目的とせぬ恒常的な一機関である」(ミュージアム規約、UNESCO。p.260より孫引き)
一見すると普遍的に思えるこの思想がヨーロッパ的枠組みで発展し、
ヨーロッパ的な思考秩序の下にある、という考え方が、歴史軸に沿って述べられる。
ヨーロッパ中世の二重権力構造(教皇と世俗君主)から抜け出すため、
世俗君主が自らの正統性や偉大さを固持するための蒐集物を集めた部屋である
Kunstkammer(Kunst=art, kammer=chambre)が、始まり。
その際、画家その他芸術家は単なる職人(art-ist、技芸人)だった一方で、
その根本たる思想家はパトロンからの待遇が破格だった。
神話創出と正統性主張の根拠という役割を保持したまま、
近代以降にはそこに公共性が付与されて公開されることで、
職人に過ぎなかった芸術家が、ドイツ古典主義で徹底的に神格化されて今に至り、
民族意識・国民意識形成に利用される。
また、ミュージアムは有益なもの(動植物など)を持ち帰り、
薬学などに活かすための拠点ともなった。

大枠の流れとしてはこんな感じなのだが、
その論拠や思惟がすばらしい。
例えば、アジアでミュージアム的思想が現れなかった理由や、
大航海時代のアメリカ"発見"が、ヨーロッパ外来種の雑草と、
じゃがいもやトマトなどの有用な植物の不等価交換として捉えられるという思考、
F.ベーコンの著作で示される知の理想型が科学の実用性提唱を示唆するなど、
世界史の読み直しとして非常に面白かった。

5.5.11

石田梅岩『都鄙問答』、ジョン・ダイガン『トリコロールに燃えて』、リー・アンクリッチ『トイ・ストーリー3』

・石田梅岩『都鄙問答』

1935年初版の岩波文庫版で読んだ。
註釈も解説もない漢文混じり旧仮名遣いは薄学の徒にはしんどく、
およそひと月弱もかかってようやく読了。
ただ、内容も梅厳の語りも平易だ。
問答のタイトルどおり、客の問いに梅岩がひたすら答える。
愚かな客に対しても手を抜かず、僧侶や読書人の問いへも物怖じせず、
ひたすら己の哲学を開陳し、そこから回答を見出だす。
梅岩の心学たる思考が、あくまで具体的な形を取って透けて見える。
町人に対する実際的な学問という意味で、問答の形式はわかりやすい。

神儒仏のどれを切り口としても達するところは一つの倫理学、と説く
巻之三(性理問答の段)は、特に興味深かった。
ほかのどこ箇所を読んでも感じられることだが、
要は何の謂いか、という、言説に対する根源的な問いが"心"学たる所以が、
もっとも壮大で深く貫かれている。
また、西田哲学的、東洋的な、差異を見ない無批判な統合も一方で感じた。


・ジョン・ダイガン『トリコロールに燃えて』

両大戦間期から第二次大戦を経た、ギルダ、ミア、ガイの三者の生き様の絡みあい。
ギルダが実はナチス軍へのスパイ活動に従事していたというのは、附会に思われた。
ナチスへ強力してしまう登場人物が主人公にいてもいいじゃないか。
どうして主人公は常に免責されるのだろう。


・リー・アンクリッチ『トイ・ストーリー3』

おもちゃで遊ぶ年齢ではなくなってから、という設定から、観たいとは思っていた。
勧善懲悪っぽい二元論がストーリー展開の迅速さのために導入されていた感が否めないが、
内容としてはハリウッド的な冒険譚で、楽しめて観ることができた。
それにしても、おもちゃというのはみな個性的すぎるほどに個性的で、
アイデンティティが出来上がっているなぁ。
そのための設定や背景があってこそのキャラクターだから、ということか。

15.4.11

アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』

Antonio Tabucchi « Notturno Indiano ».
『イタリア広場』の読後、ぜひ他の作品を、と手に取った。
インドのホテル、夜と眠りを録したエッセイのような文体。
主人公が知人を追ってインドに来ていると、読み進めてゆくと知るが、
その手がかりも薄いままページは終わりにさしかかってから、
物語は、線先が平面から浮き上がって思わぬ方向にかしげ、終わる。

『イタリア広場』と同様、流れは省略が効いて、
その間を埋める想像力が抒情を生む。
ここに物語性が一本加えられ、もう云うことはない。

10.4.11

反原発デモに行ってみた

四月十日の十三時から、芝公園から大手町駅までを反原発デモがあるとtwitterで知った( http://410nonuke.tumblr.com/ )。同じ都内の高円寺ほか、札幌、鎌倉、名古屋、富山、京都、広島、沖縄、そして海外各地で同様のデモ。同日ではないか集会もあるという。

原発反対と考えていながら何もしないのでは口先だけの御仁になるし、権力に「声なき多数は支持」と都合よく解釈されかねない。それは厭なので(それだけの理由だが)、思いつきの飛び込み参加をした。

せっかくの好天、花見もかねた。増上寺の桜は美しかった。木々の緑と桜花を鐘ごしに観ると、視界は狭くなるが、人の混雑も隠れて良かった。

日本能率協会と正則高校の脇にある芝公園の一角が集合場所との情報だったので、そちらへ向かう。地下鉄に乗り込んだときから、旗竿を持った人や原子力マークのマスクをした人がいて、そのしっぽに着いていけばよかった。集合場所は人だかりと、たっぷりの警官がいた。

労組や市民団体の幟があったほか、関心の高そうなおばさん連中、女子大生なんかは、自分と同様にネットで見て、というおもむきだった。比率としては半分ずつぐらいだったのではないか。自分も何も考えていなかったので、約五キロの行程を歩くのに革靴だったし、もちろん手ぶらだった。「原発をとめよう」というシンプルなA3の紙を配っていたので、それを持って歩いた。自分は列の後半にいたようだった。スピーカーごしのかけ声はあったりなかったりで、巧い下手があった。丁寧に声出しをしている人もそうでない人もいた。素人の寄り合いのエリアにいたのだろう。だから、変に気疲れせずに済んだ。集まった人数は主催団体「フクロウの会」発表で2,500人。

晩八時前、デモに行ったことも忘れてぼんやりテレビを観ていた。選挙速報が始まると、そういえばとにわかに気が急いた。当確の一発目で石原が出たときは、日曜の夜のくつろぎをぶちこわそうとする下劣で悪趣味な茶番が始まったのかと思った。福井県知選も原発推進派の現職が早々に当確。何も変わらない結果に、思考停止した日本はもう変わらないと失望した。

スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』、魯迅「阿Q正伝」「狂人日記」「孔乙己」

・スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』

以前に読んだ『僕はマゼランと旅した』と同様、シカゴをめぐる短篇連作。
ただ前者のほうがストーリー性はあるし、記憶に残っている。
でも、シカゴのあちこちを連写した小説、とでもいうような短篇らしさ、詩的さがあった。
構成もそうで、短篇に掌篇が互いに挟み込まれるようになっている。
ある都市の風景というのは、土地の気質あってこそだ。
高級住宅地から工業地帯まで、断片の寄せ集めであっても、
同じ街だから交流があり、それが織り込まれて様々な様相を見せれば、
一般化なんてされていない個別エピソードの連作が、
一つの街の気質として、ずっしりと読後感が残る。
「俺、美に心酔しちゃうなあ!」とわめいてさんざんいじられるディージョも(「荒廃地域」)、
上階の住人のピアノに聞き惚れる主人公も(「冬のショパン」)、
そういった意味で、連写が偶然にスナップに残した一景、という印象。


・魯迅「阿Q正伝」

中学三年生のころ、よくわからないながら読んで、
登場人物の阿呆っぽさと、描かれる時代の不穏な空気だけが印象に残った。
これではいけないと、十年弱ぶりに読み返した。
どれだけバカにされても自尊心高々にご機嫌な阿Qが、
列強に分断される末期の清朝の寓意だと、
これは長池での丸川哲史先生の謂いだが、
書き出しから長く続く阿Qについての描写は、
面白おかしく書いている裏で、かなり丁寧にそれを示している。
阿Qが革命で処刑された後は、何にも変わらない大衆の愚かな無関心で擱筆。
この魯迅の問題意識はそのまま、閉塞して窒息しかかってなお無言の日本人に対しても
繋がらざるを得ないのではないか。
孫文後に軍閥の割拠した中国は、財閥の割拠する現代日本と相似していないか。
こういうふうに、常に現代と引き寄せて考えることのできる、
内容ではなく型(タイプ)を提供できる小説って、好きだ。


・魯迅「狂人日記」

中国最初の近代小説とされる作品。
被害妄想から、更には自分が喰われるのではないかと怯える主人公の手記の形式。
この民衆批判も、可能性としてはタイプ提供の小説だ。
だが、魯迅が直接批判しているのは、中国の民衆だ。
身の回りのみ見て保身にひた走り、市民(国民)にならない民衆、
と云ってしまえば型にはめ過ぎかもしれないけれど、
そうした者の陥りがちな疑心暗鬼を先鋭化されて提示したような作品だと思った。


・魯迅「孔乙己」

長衣を来た読書人でありながら科挙制度の秀才の試験にも受かっていない孔乙己。
そのあだ名自体が、習字の練習のための決まり文句の一部分というから寓意的。
科挙制度を俎上に載せて批判した作品だと解されるらしい。
けれども自分は、民衆の描き方、魯迅の民衆批判が、印象的だった。
阿Qと同じく孔乙己も変わり者として、ちょっと目立ってはすぐに消え、忘れ去られる。
そんな、暗くて救い難い世界に巣食っている全近代の無教育な連中、という感じがする。