8.7.12

ジャン=フィリップ・トゥーサン『ムッシュー』、内田百閒『冥途』、開高健『戦場の博物誌』

ジャン=フィリップ・トゥーサン『ムッシュー』

主人公の名前がムッシューで、29歳にして大企業の課長。
フランス人らしいが押しが弱く、
厄介に巻き込まれる反動でおいしいとこ取りをしているような印象。
振り回されながらも飄々としていて、その内心を表すように、
「いろんな人が、いるもんです」「万事は、場合によりけりだ」と、
挿入句のように繰り返される。
それでいて大きな事件が起きることのないまま、
ムッシューの人生は順風満帆に流れてゆく。終わり。
──言ってしまえば、人生を莫迦にしたような小説だが、
テンポが良くて、ところどころがクスリと面白い。

2006年11月16日にトゥーサンが講演会で駒場に来たとき、
自分は仙台から新幹線に乗って聴きにいった。
ベケットについて熱く語っていたのをぼんやりと憶えている。


 内田百閒『冥途』

福武文庫版。
第六高等学校の交友誌初出の「烏」も併録。
この初期作品から、あの怪談調・「夢十夜」調は変わっておらず、
むしろ、ますます研ぎ澄まされていっていることがわかる。

ある種の永遠性が、どうしてこのように具体的に描き出されるのか。
それは、幼少期のきらきらした記憶のようでもあり、
じわじわと背筋に上ってくる怪談のようでもあり、
不思議と鮮明に憶えていて消えない夢のようでもある。
細部を徹底して欠いたシンボルが主人公と渉りあうからか、
相手の表情と内心がまるでのっぺらぼうで見えないまま話が進むからか。


 開高健『戦場の博物誌 開高健短篇集』

講談社文芸文庫版。副題には単に短篇集とあるが、
表題どおり、筆者がベトナム戦争に取材した内容が主。

読み終えてから頭に残ったイメージをかき集めると、
戦争の印象が実は大きく変わった、と感じずにはいられなかった。
戦争の現場として思い浮かべるのは、戦場だ。
だが、その後背で戦時景気に沸く街や、
村ともゲリラともつかない生活が戦地すぐそばで悠々と営まれているとは、
戦場の二文字からは決して連想することはできない。
どちら側の味方かころころ鞍替えし、黙して語らない「たそがれ村」の存在、
前線の父親のすぐそばに洗面器ひとつで来て暮らす家族の姿、
地雷で吹っ飛ぶ路線バス、盛り場の酒場の爆弾テロ、
米兵に笑顔でたかりつつときにゲリラとなって攻撃する子供たちの描写は、
もはや戦場の交戦が戦争ではない、と気づかせる。
ベトナムに戦争は遍在していた、
アメリカ式に一刀両断するシンプルな思考では、
まるで理解できない戦争が、ベトナムで展開されていたのだ、と。

だから枯葉剤が撒かれたし、
「民間人」(純粋な民間人はいなかった?)への虐殺も、
凄惨で悲劇的な報道写真の数々もなされたのだ、と初めて気づいた。

表題作「戦場の博物誌」では、パレスチナの国境沿いの農村も描かれる。
それも、生活が戦争と隣り合わせで営まれるという、非日常的な日常の描写だ。

3.7.12

伊坂幸太郎『仙台ぐらし』、小川国夫『試みの岸』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』


伊坂幸太郎『仙台ぐらし』

『仙台学』に連載したエッセイをまとめたものとのこと。
仙台に大学生時代を暮らし、仙台に郷愁を抱く一人にとって、
このエッセイ集に、あまり仙台らしさを感じ取ることはできなかった。
「タクシーが多すぎる」ぐらいのものだった。
それでも、文系食堂の脇の喫茶店のミルクコーラは、
学生時代に取りこぼした一エピソードを補完してくれたし、
喫茶店(のチェーン)によく行った身としては、その話題も懐かしかった。
エッセイにそうはかかれていないのだけれど、
愛宕上杉通のちっぽけなドトールを思わず重ねあわせていた。
もしかすると、仙台の良さはそういうとりとめのなさなのかもしれない。

この本の一番の良さは、後ろ1/3ほどのところで東日本大震災を挟んでいることだ。
日常が鋭く切断されて闇が広がる行く末を、じわじわと修復してゆく静かな生命力が、
伊坂幸太郎の特に特徴も抑揚もない文体から、滲んで溢れているように感じた。


小川国夫『試みの岸』

馬をめぐる短篇三作、とでもいおうか。
小川国夫の譬喩の輝きは、近代の日本文学の屈指のものだと思うが、
表題作の冒頭、馬への眼差しはその真骨頂だ。
「十吉が竜の鬚の実を摘んで、胸へぶつけると、
 筋肉を顫わせて躍ねのけた」というようなリアリズムがあれば、
「それは余一が知らない笑い方で、快いしつっこさがあった。
 彼女がわらっているのではなくて、彼女の中でだれかが笑っているようでさえあった」
という透かせるような喩えもある。小川国夫の小説を読む愉しみの極みだ。

物語は静岡の大井川の流域、おそらくは藤枝や焼津のあたりだ。
地名として骨洲、速谷、静南などが出てくるが、どれがどこを示すかはわからなかった。
静岡は高地のように温暖で牧歌的に思われた。
『アポロンの島』で描かれた風土が、より日本の土着の荒々しさは帯びたものの、
静岡に根ざして描かれていると感じた。


コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

シーンが行空けで短く区切られていて、映画のようだった。
非現実的な前提を措定してから現実性を追う、これはリアリズム小説なんだと思う。

庭のシェルターに備蓄庫を見つけ、そこで何日か暮らす。
最も幸せでありかつ、次の瞬間に何が起きるか分からないもっとも不穏なシーンだった。
幸せが、それを失わせる暴力を予感させ、幸せにあり余る恐れを生む。
囚人のジレンマで非協力が確立されてしまった世界は、こうも怯えるものなのか、と考えた。
人と人とを結びつけるという意味で、経済の功利も、つれづれに。

15.6.12

Marguerite Duras « Hiroshima Mon Amour »

デュラスのフランス語原文は端正でシンプルだと思う。
訳文では説明が盛り込まれ、修飾関係がぎくしゃくして、膨脹する。
どうしてもなんとなく読みにくくなる。それを除して読みたかった。

広島とヌヴェール(Nevers, Nièvre)の交錯が
迫る出発の時間の焦りとともに昂る。
駅でのアナウンス「広島、広島」がヌヴェールの景色で流される一景が、
読んでいて、その極みにあるように思った。
死んだ敵兵の恋人を重ねあわせ、それが目の前の日本人に生きてあり、
しかし自分はヌヴェールを背負って生きてゆく、訣別できない人生。
ありふれた、しかし身に刺さった過去が、女の長い独白に淡々と昂る。

文になりきれていない短い科白が、その反復が、原文の粋だと思う。
 Je vois ma vie. Ta mort.
 Ma vie qui continue. Ta mort qui continue. (p.78)
あるいは、
 LUI ─ J'aurais préféré que tu sois morte à Nevers.
 ELLE ─ Moi aussi. Mais je ne suis pas morte à Nevers. (p.96)

広島とヌヴェール、男と女、« histoire de quatre sous »と歴史的な事件、
現在と過去、…、の対比の搦みあい、というわけではない。
女にとって広島は地獄から蘇ったありふれた都市で、
ヌヴェールは辛い故郷として、しばしば廃墟の絵を伴う。
では、広島とは何か? « Hi-ro-shi-ma. C'est ton nom.  » なのだ、と。

広島とヌヴェールの邂逅。
原爆という非人道の極みが、ここで、
敵兵と通じた女という、戦時中のありふれた事件と通いあう。
冒頭の、「知っている」「知らない」「見た」「見ない」の
ヒロシマをめぐるキャッチボールのような会話に、
ここでは風穴が開いている。

この交錯が、次第に融けあって恍惚を伴う感触が、
ヌーヴェルヴァーグの映画、ヌーヴォーロマンの文学、らしいように思う。
それを可能にする、記号かパズルの組み合わせのような文体。

9.6.12

森敦『意味の変容・マンダラ紀行』、六車由実『神、人を喰う』、上田秋成『雨月物語』


・森敦「意味の変容」

『群像』連載後、柄谷行人が筆者に掛け合って単行本化が実現したとのこと。
境界をめぐる概念の試考、といってよい。

著者が覚書で明かしているように、位相空間論の近傍概念がまずある。
円を描き、内部に境界を含めず外部に境界を含めるとすると、
内部は近傍として境界を認識せず、境界によって密閉されていないため、
全体であるように認識される、とする。
続いて、凸レンズを経た光の屈折が実像を結ぶ事象を、内外の風穴と見る。
「外部の実現が内部の現実と接続するとき、これをリアリズムという」、
そして「われわれのリアリズムは倍率一倍と称する倍率一・二五倍である」
と帰結すれば、もうここには物理学も論理学もなくて文学理論の話をしている。

話は無限級数のような謂いへ及ぶ。
数ヶ月先の返済とする約束手形、数年、……、死ぬときの返済とする約束手形。
ここに、歴史から哲学へと手形の意味が変容する、という……!
この文学論(?)は、物語の虚実を超越している。
文学性はそこにはないのだ、と。
このダイナミックな考え方に、無二の魅力を感じた。


・森敦「マンダラ紀行」

テレビの紀行番組の司会として、出羽三山、東大寺、四国八十八ヶ所を巡る。
密教の曼荼羅から万物を呑み込むようにして、
華厳経の一即一切、一切即一の境地に至る。
読んで思ったのは、意味の遍在だった。
大日如来を中心とし周囲に異教をも取り込んで
外部を徹底的に内面化する曼荼羅のように、
筆者の密教的思考は外部がなく、意味が充満している。
数学と同じくらいに精緻な理論体系をなしている。


・六車由実『神、人を喰う 人身御供の民俗学』

第三項排除による共同体の安定を目指す祭りの行為が、
かつては人身御供だったとする伝承を生んだ、とする
遡行的な解釈が印象的だった。
伝承(=語り)という意味でも、
「もう人身御供は行われていない」という救いがあってこそ
はじめて公に語り継がれるものになるのだろう。


・上田秋成『雨月物語』

面白いと思ったのは、
全話とも国内の具体的な場所を舞台にしているだけでなく、
登場人物がしばしば広域を経巡る、ということだ。
「浅茅が宿」で主人公は葛飾郡真間に妻を残して京へ上り、
木曽で盗賊に遭い、近江に滞在した後に帰る。
「夢応の鯉魚」は近江国三井寺の僧が魚になって、
竹生島や瀬田の唐橋など、琵琶湖の名所を読者にいざなう。
江戸時代、遊山が流行ったというし、地図ガイドも種々発行された。
そういう意味で、地名が一般人にとっても、
具体性を持って土地色や距離感のイメージを
伴うものになっていたのかもしれない。

27.5.12

古井由吉『杳子・妻隠』、森敦『月山・鳥海山』、アントニオ・タブッキ『遠い水平線』


 古井由吉『杳子・妻隠』

杳子の言うこと、行いが、ふざけているようなのに深刻で、
それに振り回されていると次第に呑まれ、異化がだんだんと効いてくる。
杳子という不思議が、レンズを歪める現実の閉塞への風穴が、
読後にさっと開かれている。
不思議系というような括りを強いるラノベのカテゴライズではない。
街の喧騒が、薄暗い曖昧宿が、住宅が、日常が、
ありのままであることを信じられなくなってくるような、そんな強迫感がある。

「妻隠」は、主題といい、
その周辺をオムニバス調に配置するエピソード群としての構成といい、
「円陣を組む女たち」に似ていた。


 森敦『月山・鳥海山』

ボロ寺の冬の吹雪、その厳しい気候に生きる老人の愉しみ。酒、出会い。
雪を踏んで道を作る苦行、大根ばかりの味噌汁の日々、見え隠れする朝日連峰。
ようやくの春の花ざかり。生の息吹き。…
この前近代的な生活に美を見出だす視点が、
死の山・月山が吹雪の間から見え隠れしながら、
寒中の生活を肯定し、理解しようとして神々しく棚上げにする。
小説という近代の文学形式が反近代に材を取り、その本質に近い精神分析を一切棄て、
散文とも似た形で、小説になっている。
深沢七郎が『楢山節考』でやった仕事だ。
だが、「『楢山節考』の物語は『月山』ではただの断片なのだ」と、小島信夫の解説が言う。
そのとおりだ。
中上健次とはちょっと違う。あれは神々しい人間が一人ずつぶつかりあう。
月山では、すべてを見下ろすご神体のような山があり、
その麓で人間が天国にあるように生きている。

生の営みの、瞬間ごとの美しさよ、とでもまとめてしまえば、
この作品の広さと深さは消えてしまう。
なんというのだろう、連歌から俳諧を切り離し、
十七文字の一度限りのレンズから森羅万象を視ようとした芭蕉と同じスタンスがあるように感じた。
「行く河の流れは絶へずして」の方丈記の視点とも通じている。


 アントニオ・タブッキ『遠い水平線』

意味に憑かれて意味を見出だすような、
『競売ナンバー49の叫び』の彷徨に似たプロットを感じた。
たぶん、この作品は彷徨そのものの愉しみにあるのだと思う。
後藤明生『挟み撃ち』のような、
導かれるものがあってそこに近づいているはずなのに…という境地。
だが読み進める私は残念ながら、最初の屍体の影から逃れられず、水平線の先は見通せなかった。