2.3.16

カール・ポラニー『大転換 市場経済の形成と崩壊』

○カール・ポラニー『大転換 市場経済の形成と崩壊』

東洋経済新社版で、2009年の新訳。
いつか読みたいと思っていた名著だが、新訳出来と知って借りた。
結果、2015年に読んだ本でもっとも面白かった。

市場経済は15〜18世紀イギリスのエンクロージャーと
それによる封建制の静かな解体に差し代わる新たな社会体制として、
土地を追われた浮浪民の貧困問題への対処とともに産声を上げた。
(それ以前、商品は事実上存在せず、
 経済は市場ではなく互酬と再分配によって成り立っていた。)
スピーナムランド法により人は労働力という疑似商品化を一時的に免れたものの、
やがて産業革命の要請が、人を労働力、
土地を労働手段、資本を交換手段として疑似商品化させた。
商品化された人は、自己調整システムによって生活基盤を失った。
商品化された土地は、商品作物の生産手段となり、
全国市場の形成に寄与し、植民地主義への原動力となった。
商品化された交換手段である貨幣は、
世界経済における価値裏付けとしての金本位制において、
流通量の調整の機能不全によって保護主義、ブロック経済、
そして最終的には二つの大戦を引き起こした。
以上がごくごく大雑把な謂いである。

ポラニーはこの理論をきわめて実地的に検証している。
それゆえ、近代以前の封建社会やアフリカの部族社会の研究が、
近代の市場経済を一つの文化的な再分配体系であると看破する説得力を持つし、
第一次世界大戦における大銀行家の暗躍が
どのようにバランス・オブ・パワーシステムを掌中で動かし、
平和を引き起こすとともに戦争を引き起こしたか、という
近代史的な視座を含んでもいる。

ポラニーは結びとして、ロバート・オーウェンの思想を引き継ぐ形で、
人、土地、資本の疑似商品化への制限を提言している。
具体的には、リバタリアニズムを批判した上での、
国家による一定の制約と、国際協調だ。

原著はいわば第二次世界大戦終局期の1944年に発表された。
その後、金本位制はドル本位制へ形を変えて今も残っている。
土地はいまだに市場経済における一商品である。
労働力は小泉規制緩和の一環として流動化された結果、
生活基盤の弱体化と知識伝達の機能不全が昨今ようやく叫ばれている。
国家間ではブロック経済ではなく関税自由化が進められているが、
通貨切り下げ競争による価格競争力の押し付けあいが起きている。
国家による再分配システムが新自由主義的政策と世界金融経済の下で弱体化し、
世界の富の何パーセントをごくわずかな富裕層が保有している、
そのような事態は、まるで第一次世界大戦前の大銀行家の再来である。
オーウェン的な一定の政治的な制限が、世界単一市場に対してどのように可能か、
今こそ考えなければ、システムや枠組みそのものが私企業の手に渡り、
自己調整システムと同じ価格至上主義に生活基盤が押しつぶされかねない。

モラヴィア『薔薇とハナムグリ』、平田オリザ『演技と演出』『演劇入門』、オースター『偶然の音楽』『孤独の発明』、バルザック『ゴプセック 毬打つ猫の店』『サラジーヌ』、多和田葉子『雪の練習生』、別役実『ベケットと「いじめ」』、中沢新一『大阪アースダイバー』『アースダイバー』、クンデラ『冗談』、田中慎弥『実験』

○アルベルト・モラヴィア『薔薇とハナムグリ シュルレアリスム・風刺短篇集』

光文社古典新訳文庫版。
どれも南欧の明るい皮肉が利いているが、
特に、投機商品に喰われる「パパーロ」が、心に残っている。


○平田オリザ『演技と演出』『演劇入門』

いずれも講談社現代新書。
舞台上にいかにリアルを構築するか、という
平田オリザらしい演出のノウハウについて。
また、観客の想像力のコントロール、
内輪へ他者を組み入れることでのストーリーの始動、など。
あるイメージに対して、もっとも遠いところから近づけてゆく、
というリアリティの出し方は感心させられた。

平田オリザの方法論的な演劇の作り方は、
どこかで誰かが書いていた「人間という動物の生態を見せる」そのものであり、
やはり次の技法が求められているような気がしないでもない。
しかし、それは何だろうか?


○ポール・オースター『偶然の音楽』『孤独の発明』

いずれも新潮文庫。
オースターの小説はどれも(『幽霊たち』『孤独の発明』を除いて)、
即興詩のような展開をする。
より具体的にいえば、主人公はその立ち位置を都度々々内省して、
その次の一手を決めて、そのリアクションがストーリーを動かして、
という繰り返しなのだ。
だから、躍動的で一貫しているし、起承転結の波が多重だ。
どの程度までプロットが考えられているのか、疑問に思うことがある。
にもかかわらず、きちんとうまいこと擱筆される。

『偶然の音楽』はタイトルからしてその文体を示していて、
ストーリーもそうだった。
ただ、主人公ナッシュという名はナッシュ均衡を思わせたし、
賭博や会計など数字的な要素がいたるところに散りばめられていて、
BGM的に挿入される音楽が均衡の産物としての藝術だということもある。
思うに、オースターの即興詩のような文体は、
この作品によって見出だされた技法なのではないか。

『孤独の発明』の(以降の作よりは)おっかなびっくりなリニアなストーリー展開が、
そう思わせずにはいられない。

「見えない人物の肖像」は、著者の父の物語、というか筆者による父の人生の分析だ。
誰にも本音を見せない仮面のような人物としての生き様の展開と、
遺品整理から出てきたわずかな人間らしいふるまいの痕跡。
「記憶の書」もまた、著者の家系をめぐる(おそらく実話としての)物語だ。
巻頭の写真に封じ込められた謎へ迫るのは面白い。


○オノレ・ド・バルザック『ゴプセック 毬打つ猫の店』『サラジーヌ』

いずれも岩波文庫。
バルザックの作品はどれもストーリーとして完璧に面白い。
人間の欲望があらわに垂れ出てきて、読み始めてしまった以上は目が離せない。
枠物語も凝っている。
自らの筆名に貴族めかして「ド」を入れただけあって、
社交界の爛熟した村社会の興味関心とはこのようなものだったのかと想像する。


○多和田葉子『雪の練習生』

新潮文庫。
ホッキョクグマの三代記。
多和田葉子の触覚や味覚の表現は素晴らしい。
読後感としては、一つのクマの人生を懸命に生きた充実感のようなものがあった。


○別役実『ベケットと「いじめ」』

ベケット分析から、「個」から「孤」への人間性の変化。
非常に示唆的であり、何箇所もメモしながら読んだ。

「孤」の乗り越え方について。
以前、東京藝術劇場で青山真治演出の『フェードル』を観たが、
あの劇にどこかしらの新しさを感じたのは、
「褪め」みたいな瞬間をうまく取り入れている
(「褪め」がクライマックスの一つの相対化として導入されていた)
と思ったからだ。
個がすでに関係性に埋め込まれている以上、
その枠を破って得体の知れない別の人格を覗かせる手法として、
一つあるのかもしれない。今そう考えている。


○中沢新一『大阪アースダイバー』『アースダイバー』

ファッションビルに復活(復古?)した檸檬で名高い丸善京都店で手に取り、
その後、図書館で立て続けに借りて読んだ。

「ブラタモリ」や古地図が流行するなど、町歩きや小さな身近な歴史が見直されている。
そんな時代にあって、都市が覆い隠せない地形や旧跡や言い伝えが、
どのように残されているかを語る、
それを神話にまで昇華させる試論として
『大阪アースダイバー』は割り切っていて、楽しめた。
大阪という土地は1000年足らずの歴史しかない低湿地で、
そこに生まれる無縁、商売、笑い、死生観、など、
大阪土着の特徴を肌感覚でもわかるように語っていて、面白かった。

東京版である『アースダイバー』は、方法論の模索というか、時代性の先取か。
土地柄としてまでは精通していないからか、そこまで楽しめなかった。
それは、江戸が先史時代から現代まで一本につながっていないためかもしれない。


○ミラン・クンデラ『冗談』

クンデラの思索的な独白調が好きだ。
思考がストーリーと密接につながっていて、小説かくあるべし。
クンデラは人生を哀しく笑い飛ばす、その原点が見られたし、
最後のドタバタ劇は前半から中盤にかけてのシリアスで塞ぐような展開を
一気に蹴落とすかのようだった。
笑いの奥の哀しみの根源は、やはり東欧世界の人生を虚仮にしてきた政治だし、
人間を駒としてしか考えられない非個人主義の徹底だったのだろう。
しかし、それが資本主義社会にも通じるということは、
社会システムに踊らされているという根は同じだということだろう。


○田中慎弥『実験』

久しぶりに文芸誌掲出っぽい中篇小説を読んだ。
そして、その質感が、(誰の作品であろうと)変わっていないことに驚き、
日本文学の停滞を否応なしに見せつけられた気がした。

永田和宏『現代秀歌』、石川文洋『沖縄の70年』、原武史『鉄道ひとつばなし2』、五十嵐太郎『現代建築に関する16章』

(昨年の秋頃に読んだ本たち)


○永田和宏『現代秀歌』

岩波新書。
アンソロジーとして手に取りやすく、その割には充実していた。
気に入った歌をここに記しておく。

ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう(岡野弘彦)
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ(東直子)
右翼の木そそり立つ見ゆたまきはるわがうちにこそ茂りたる見ゆ(岡井隆)
神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき(香川ヒサ)
ふるさとに母を叱りていたりけり極彩あはれ故郷の庭(小池光)
明日弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いゆく(道浦母都子)
一分ときめてぬか俯す黙禱の「終り」といへばみな終るなり(竹山広)
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり(永井陽子)
父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日(永井陽子)
帰りたきいろこのみやの大阪やゆきかふものはみなゑらぐなり(池田はるみ)
春がすみいよよ濃くなる眞晝間のなにも見えねば大和と思へ(前川佐美雄)
神田川の潮ひくころは自転車が泥のなかより半身を出す(大島史洋)
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が(河野裕子)



○石川文洋『フォト・ストーリー 沖縄の70年』

岩波新書。
著者は沖縄出身で戦争を撮り続けた写真家。

戦後、アメリカ軍政に置かれてベトナム戦争の後背の役割を担わされ、
基地排除のために望んだ本土復帰でも基地問題は解決せず、
今は辺野古に揺れる、沖縄の終わらない戦後に対して、
辺野古がまさに戦後の日本のいまであることを、
現実的・日常的にありあまる映像で日本人に突きつける。



○原武史『鉄道ひとつばなし2』

講談社現代新書。
産業史ではなく天皇論、郊外論で語られる鉄道コラムは、
やはりこの著者ならではで面白い。
東急田園都市線の通勤地獄とイメージの乖離、
駅弁や駅そばの画一化、
利用者の減少など、コラム一つずつに濃淡はあれど、
ポストバブル期の郊外論が読み取れた。


○五十嵐太郎『現代建築に関する16章』

講談社現代新書。
建築の哲学が概観できるという意味で、入門書的ながら面白い内容だった。

思うに、現代建築はその時代時代の名建築を見てゆくと、
近現代の個人主義が90年代からポストモダンへ移り変わっているさまが、
非常に明確に現われているような気がする。
例えば、先週に博多で訪れた伊東豊雄プロデュースのネクサスシティを見たときに、
場所性や土地色や周囲環境から解放された一個人の追求がされているように感じたが、
それは戦前、戦後から90年代後半までの建築家に
一貫するスタンスだったように思われる。
大規模な公共事業ではなく個人邸からスタートした安藤忠雄においても、
「住吉の長屋」はやはりそうだ。
言いかえれば、建築においても、人文学や藝術と同じくして、
90年代後半に大きな物語が終わった、ということではないか。
その後、SANAAに代表されるような溶け込む建築が主流となり、
建築は物語性(ならびに物語に従属する個々人)を演出する装置に転換した。
「住む機械」における個人の優越と、コミュニティ・土地への回帰。
建築家から施主(あるいはその思考の土壌としての社会)へ、主役が変わったのか。
転換なのか、転向なのか、脱却なのか、逃走なのか。

25.10.15

『広告都市東京』『未来の社会学』『愛と暴力の戦後とその後』『東京プリズン』『やさしさをまとった殲滅の時代』『ラノベのなかの現代日本』『ニッポンの音楽』

 長く放置したために、多くを失念してしまった。
 それでも忘れられなかった内容は貴重な経験として身になったにせよ、
 忘れられたすべてが軽んじられてよいわけではないはず。


今年(2015年)の3月に京都芸術センターで
佐々木敦、宮沢章夫らの対談を観て、
戦後の大衆文化と精神史のようなものについて、いたく興味を持った。
以来、宮沢章夫「ニッポン戦後文化サブカルチャー史」(NHK)を観たり、
岡崎京子『ヘルタースケルター』や浅野いにお『虹ヶ原ホログラフ』を読んだり、
関連する本を漁った。
結果として軽めの本ばかりになってしまったのは、
時代性とは、少年犯罪や文化現象に氷山の一角のようにして現れるものにすぎず、
体系的な研究が極めて難しいからなのか、
あるいは、そういった専門文献を当たるためのノウハウや語彙を知らなかっただけなのか。

カルチュラル・スタディーズ的な戦後日本文化の捉え方は一貫したものがある。
新宿の猥雑さと戦後政治への意識が生んだ劇場(型)文化があり、
西武=パルコによって花開いた渋谷がある。

面白いのはその先にあたるポスト80年代の捉え方の相違だ。
未だに総括されていない、終わってさえいないかもしれない時代区分だからだ。

宮沢章夫「ニッポン戦後文化サブカルチャー史」は秋葉原のオタク文化を挙げるが、
それはサブカルチャー分析ではなく現状説明にすぎない内容だった。
つまり、国営放送NHKによるクールジャパン宣伝であり、
日々のニュース番組からこぼれ落ちた三面記事だった。


○北田暁大『増補 広告都市東京 その誕生と死』

広告論として、広告装置としての都市の死、
そして、終わりなき日常と対するユートピア的昭和30年代、という
トポス性の喪失と欲求が分析されている。


○若林幹夫『未来の社会学』

現代における未来像は末尾の短い章立てだが、
高齢社会や環境問題やリスクといった不安に彩られている現状を、
ざっと紹介するように提示する。
そこまでの近代を扱う文脈では、おおむね未来を「来るべき時代像」と捉え、
社会運動やエキスポを取り扱っていただけに、
現代における未来が「来るべき時代」の喪失にほかならないという現状が露呈する。


○赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』『東京プリズン』

一方は新書であり、もう一方は小説だ。
戦前・戦中から続く何かが戦後もひっそりと漂っている、
その何かを、『愛と暴力の戦後とその後』は小説家らしい語り口で打ち明ける。
戦後史について、だ。
戦後の日本人が何を本音に抱いてきたか、が打ち明けられている。
内容としては、戦犯の級、英語原文を読んでようやく理解できる憲法の真意、
70年安保の内向きの暴力での終焉と大日本帝国軍の混迷の相似。
80年代が暴力的な地下水脈を隠してバブルに浮かれる描写は岡崎京子だし、
それがオウムという会社組織型宗教、時代の閉塞感へと続くあたり、
戦後の文化史をあまりにうまく語ってくれた。
パラパラとページをめくって拾い読みしても、面白い。
けだし名著に当たった、と思う。
『東京プリズン』は、高校生マリが留学先のアメリカで東京裁判をディベートする小説。
おそらく実体験をもとに書かれていて、
デビュー作かと思ったくらい内容に力が入っている。
『愛と暴力の戦後とその後』と繋がっていて、面白かった。


○堀井憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』

ゼロ年代の時代性について、事例をちりばめながらなんとか纏めようとしている。
その意味で、もしかすると最も軽い本かもしれないが、
反面、もしかすると最も時代性を摑んでいるかもしれない。
ゼロ年代が、あっという間に口コミが広まり、
かつて口コミに距離を置いていたマスメディアさえも口コミに呑まれた、
という状況として捉え、大衆監視社会的な様相を呈している状態を指摘している。
面白いと感じた事例として、2002年日韓共同開催のサッカーW杯での、
韓国に対するささやかな違和感が、
メディア放送に対する慰撫がインターネットに求められたことだった。
呪詛が大衆のうねりとなってターゲットを引きずり落とすという現象は、
炎上、電凸、バカッターとなって世に蔓延する存在となっている。
結びとして、著者は「社会に迷惑をかけよう」という。
別役実『ベケットと「いじめ」』で分析されているような
個人の失墜と関係性の優越を、なんとか打ち砕け、と言いたげな、
しかし結局は「個」に縋らざるを得ない二律背反の、嘆息のような願望。


○波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』

社会分析を求めて手に取ったものの、著者はあくまで作品分析をしているので、
初めから分かり合えていない読中感はあった。個々の分析はとても面白かったが。
関係性からはみ出して孤立し、しかし社会へのコミットもない、という「ぼっち」が、
いかに「誰も傷つけずに」自らの居心地の悪さを消化できるか、
みたいな絶望的青春的模索、こそがラノベ。なのか。
だが、そうなのであれば、百のラノベよりも、
村上春樹や 『新世紀エヴァンゲリオン』な気がするが。


○佐々木敦『ニッポンの音楽』

戦後のそのときどきの時代の気分が何に新しさ(=差異)を求めてきたか、
そして、新しさがどのようにゆっくりと磨耗し消費されていったのか、
その歴史として読めた。
内部=外部としての差異がなくなり、時代的な差異さえ埋められた今、
中田ヤスタカが機械と人間の差異に新しさを求めているという、
閉塞して終わるのではなく新しさを全く別のところに求める動きは、
日本の音楽の歴史はまだ終わっていないという安心感と、
結局、歴史展開は経済的な差異に立脚しているにすぎないという真の病理とを、
同時に垣間見せている。

4.3.15

藝術が商業と結びつくことで何が起きるか

瀬戸内ビエンナーレに端を発するアート・プロジェクト、
商業施設のデザインを藝術家が担当するという試み、
さらには美術館への来訪そのものを百貨店と同様に飾るというマーケティング。

いずれも、藝術と日常の融合として、つまりは素晴らしい試みとして語られがちだ。
だが、本当にそうだろうか?
藝術が日常に対置した非日常の創出を目的としているのであれば、
商業のマーケティング手法とぴったり重なるだろう。
しかし、藝術とは本来、非日常を祝祭的に彩ることではないはずだ。
結局のところ、藝術が商業に結びつくのではなく、
商業が藝術を身にまとって、新たな集客の算段としているだけだ。
藝術はうわべで利用されているにすぎない。

むしろ、藝術(特に現代藝術) の試みというのは、
日常に埋没した何かを浮き彫りにして問いかけること、
つまり、日常を異化すること、であるはずだ。
藝術とは、日常を熟考することであり、
日常に取り憑いてそれを換骨奪胎してしまうことだ。
藝術は斥候のように、かくも前衛的でなければならない。

ところで、私は現代建築が好きだ。
それは、建築をそのあり方から突き詰めて考えた上で、
建築を(あるいは住宅を、商業施設を、公共施設を)
再定義しようと試みているからだ。
その意味で、ある種の産業デザインも好ましい。
Appleの製品はラディカルだし、川崎和男の眼鏡も好きだ。
もし皿に描かれた絵が皿というものを問い詰め、
皿を再定義するなら、その皿も好きだ。

もちろん、きっかけが商業主義であっても、
商業主義そのものを離れるほどに、あるいは相対化するほどに、
藝術そのものとして成り立てば、
それは非常に素晴らしい藝術活動となるだろうが。