31.3.09

小津安二郎『お早よう』、島田雅彦『自由死刑』

・小津安二郎『お早よう』

団地や建売の個性なき家屋の連なりに住むという、
資本主義なのか社会主義なのかわからない高度成長下日本の家族群像でもあるし、
挨拶って、という子供の必死で純粋で滑稽な反抗の顛末でもある。
こんなに詰め込んで90分内という密度と、それを感じさせないゆるい展開と。
噛み締めるように観てこその映画なんやろな、と。


・島田雅彦『自由死刑』

冒頭、妙にぶった口調で現代の閉塞と疲弊を語るよ、と思っていた。
途中、車谷長吉の『忌中』を、似た物語として思い出した。
彼の初期作品は社会概念の戯れ・揶揄だが
後は人それぞれの生きざまに焦点を当てて、
だから、天皇の『おことば』みたいな、政治機能と個人という天皇の両機能を
混同するようなもんを書いたりしたのかな、と思ったりもした。
終盤、そんな個々人それぞれの生きざまから
社会風刺を透けさせるというやり手さを、『退廃姉妹』とは別の切り口で見た。
「自由死刑」の語。思えば人生って、「自由死刑」。
数年から数十年の自由を、デン、と押しつけられて、
その先にあるのは例外なく死刑、というのだから、まさにそのとおりだ。

あとね、旅と、ぐいぐいひっぱる加速度。すげーおもろかった。

30.3.09

塚本邦雄歌集『寵歌變』


市立図書館に行った。
啓蒙ではなく経済効果に統べられた煉瓦作りである
(おざなりの仮カウンターだけで利用者を捌き続けた後、
 この決算期に耐震工事を終えて再開したのだから、間違いない)。

その、夥しい新陳代謝と、弛緩し切った雑文の林立する中に
塚本邦雄の歌集を見つけたときには、まるで癌だな、とにやりとした。
借りて、手許にあるが、棚に置いておけば、じくじくと反乱をしてくれたろうか?

「日本人靈歌」は、高度成長下の黒い部分をぎらぎらと照らしていて、
でも、バブル崩壊後の迷走するニッポンしか知らない私には、
その良い面も悪い面も、お祭りのような賑やかさに感じられる。


 暗渠詰まりしかば春暁を奉仕せり噴泉・La fontaine  (「日本人靈歌」より)

詰まった排水溝の汚さから、春の日の出、そして噴水へ、という流れの、
あまりに綺麗な風景、そして、日本社会の空気をそこに込めるのは塚本ならでは。
朝っぱらからそんな労働に駆り出された(おそらく)土工をも包む、
この漲るような高度成長の空気って、どうよ?
「噴泉」も「La fontaine」も「ラ・フォンテーヌ」とルビで読ませていて、
そのルフランと、漢字からフランス語への書き方の変更が、
連想の流れを異国にぶっ飛ばしてくれるかのよう。

他のどの歌も、かくもといわんばかりの着眼点と破壊力をもって迫ってくるので、
嘆息に嘆息を重ねてばかりいる。

 萬國旗つくりのねむい饒舌がつなぐ戰爭と平和と危機と (「水葬物語」より)

28.3.09

ドストエフスキー『地下室の手記』 「ライ麦畑」型物語のアンチテーゼ


今流行の新訳ではなく、新潮社版の江川卓訳。

1864年発表なので、その内容はあまりに斬新すぎたろう。
それはいいとして、気づいた点をメモするにとどめる。

Ⅱ部について。
私は、この物語の筋に、「ライ麦畑」的プロットの
原型および批判を見出だした。
類似としては、
「日常生活への鬱屈を煮詰めたような出来事」→
「彷徨、その果てにささやかな邂逅」
という、主人公の一日の筋書き。
批判としては、
邂逅が主人公にとって浄化になる(=「ライ麦畑」型物語)
のではない、という結末が提示してあるということ。
浄化は示唆されながらもなされず、
主人公が結局撥ね付けてしまうという、読者への裏切りは、
「ライ麦畑」的なある種のファンタジックな現実逃避への
警告と非難であるように、思えてならなかった
(「ライ麦畑」型の諸物語がどれも『地下室の手記』の後発なのにも拘らず)。

じゃあ同著者の『罪と罰』って? と私の思考は続いた。
「ライ麦畑」型というのは、彷徨の果ての邂逅が、
ある種の免罪符のように働き、主人公は恍惚としながら一瞬で転向する、
それゆえに、「罪と特赦」といえるのではないか。
一方『罪と罰』では、ソーニャは彷徨の果ての邂逅として機能するものの
ラスコーリニコフはシベリアへの流刑となる。
罪は恍惚的な改悛によって消滅するようなやわなもんではなく、
同じくらい重くて辛い罰によってのみ償われる。

27.3.09

ウォーラーステインへのインタビュー「資本主義 その終りの始まり」の拙訳 2

(承前)

──あなたが述べられたような、現況への前例というようなものはあったのでしょうか?

人類の歴史の中で幾度もありました。このことは、マルクス主義的見方にもあるような、継続的で不可欠な進歩という、19世紀に作り上げられた歴史像から想起されるものとは、正反対です。私としては、進歩の可能性というテーマにこだわりたいのであって、進歩の不可避性には興味はないのです。確かに資本主義は、尋常ならざる驚くべきやり方で財や富を最大限に生産するということを、ノウハウとして持っています。だが、見ておかねばならないのは、同じ過程で環境や社会に対して齎される損失の総体なのです。唯一の美点は、理性的で知的な生活を最大多数が享受できるという点です。

ところで、今日の危機に一番近くに起きた類型は、15世紀中葉と16世紀中葉の間での、ヨーロッパの封建制の瓦解、そして、資本主義制への移行です。その時期には宗教戦争とともに最高潮を迎えるのですが、王権や領主権や教会権が、最も富を蓄えた農村や都市に対して保持していた支配力が、崩壊するときだったのです。まさにそのときが、脈々たる試行錯誤と意図せざるやり方でもって、不測の解決策が打ち立てられていたわけです。その達成は資本主義という形態のもとで少しずつ理解されながら、「システムづくり」を最後に迎えるのです。

26.3.09

菅原孝標女『更級日記』、谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」


菅原孝標女『更級日記』

日常の過ぎゆく淡々たる記述なのに、
どこかしら諦観というか淋しさが漂っていて、興味深かった。


谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」

「鍵」といい、これといい、片仮名で綴られていたが、
意外にもすんなりと読めた。
この勢いに乗って『戦艦大和ノ最期』も行けるんじゃないか。
それはいいとして、谷崎潤一郎からみたら
山田詠美の初期作品なんか、まるでそっくりなのかも。
時代推移に伴う(であろう)日本人と西洋人の力関係の逆転や
視点が男か女かの相違はあれど。
もっとも、谷崎はやはりどうしてもマザコンっぽい。
主人公が老人になってもね。

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今日、仙台を訪れる最後の機会から帰浜した。
慈愛の輝き、という感じの最後だった。