28.3.09

ドストエフスキー『地下室の手記』 「ライ麦畑」型物語のアンチテーゼ


今流行の新訳ではなく、新潮社版の江川卓訳。

1864年発表なので、その内容はあまりに斬新すぎたろう。
それはいいとして、気づいた点をメモするにとどめる。

Ⅱ部について。
私は、この物語の筋に、「ライ麦畑」的プロットの
原型および批判を見出だした。
類似としては、
「日常生活への鬱屈を煮詰めたような出来事」→
「彷徨、その果てにささやかな邂逅」
という、主人公の一日の筋書き。
批判としては、
邂逅が主人公にとって浄化になる(=「ライ麦畑」型物語)
のではない、という結末が提示してあるということ。
浄化は示唆されながらもなされず、
主人公が結局撥ね付けてしまうという、読者への裏切りは、
「ライ麦畑」的なある種のファンタジックな現実逃避への
警告と非難であるように、思えてならなかった
(「ライ麦畑」型の諸物語がどれも『地下室の手記』の後発なのにも拘らず)。

じゃあ同著者の『罪と罰』って? と私の思考は続いた。
「ライ麦畑」型というのは、彷徨の果ての邂逅が、
ある種の免罪符のように働き、主人公は恍惚としながら一瞬で転向する、
それゆえに、「罪と特赦」といえるのではないか。
一方『罪と罰』では、ソーニャは彷徨の果ての邂逅として機能するものの
ラスコーリニコフはシベリアへの流刑となる。
罪は恍惚的な改悛によって消滅するようなやわなもんではなく、
同じくらい重くて辛い罰によってのみ償われる。

0 件のコメント: