27.1.10

岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』

短篇二篇。

どちらも文章はとても口語的で、するすると読めるし、
やはり口語じゃないと伝わらなそうな
微妙なニュアンスを汲み取った表現が面白い。
特徴的だな、と思ったのは、話者がときどき巧妙にすり替わること。
登場人物のみなさんの声が聞ける、とでもいおうか。

しかし、やはり日常のサブに徹しているなぁ。
現代の(ゼロ世代の)語りってのは、こうなってしまうのだろうか。

24.1.10

アルベルト・モラーヴィア『無関心な人々』、ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』、川上美映子『ヘヴン』

○アルベルト・モラーヴィア『無関心な人々』

この完成度で処女作、ってのがちょっと信じ難い。
主人公の苦悩の元凶であり、主題である「無関心」ってのは、
実存の不安、と云ってしまえばしまいなんだろう。
でも、主題も意識も情景も、細部まで豊かに描かれていて、
本当に面白かった。
特に、母親マリーアグラツィアの妄想狂的な人物像。
また、鏡のイメージがときどき出てきて、
それが象徴的だった。


○ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』

和光にて一緒に観ていた先輩たちとともに、思わず拍手。面白い!
滑り出しからして惹き込まれるし、
プロットも、カシッ、カシッ、と嵌ってゆく。
何より、題材が大きい。観ていて、手に汗。詰まる息。
私小説崩れでしかない、せせこましい莫迦話にまみれた邦画群が
霧のように霞んで、見えなくなってしまう。

過去の映像の反復と、現在を重ねる手法。
現在が過去をたえず参照する形。
これは、いいね。


○川上美映子『ヘヴン』

ストーリーが澱みなく、するすると流れる。
だが文体が(村上春樹×2+川上弘美×0.5)÷3て感じ。2.5ではなく3で割る。
群像だったかの対談で作者は、
標準語で書いたんですね、てなことを訊かれてたが、
これは大阪弁で書かれては困るタイプの小説だと思った。

出てくる西暦からして、題材の世代は我々の一回り上だ。
とすると、中野富士見中あたりの一連のいじめの社会問題化が題材だろうか。

思ったこと。
長篇って、あらすじではなく細部のイメージだな、と思った。
そのイメージが、大衆受けするマニアックさなのか、
あるいは、やっぱりマニアックなマニアックさなのか、
このどっちなのかって、大きいと思う。
そして、この長篇は、自分にとってはさほど……だった。
森絵都のカラフルとかのほうが、自分には強烈だった
(読んだ時の年代の多感さは、間違いなく拘ると思うけどね)。

16.1.10

ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』、黒沢清『ニンゲン合格』

・ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』

科学は技術とは別物、という態度は
ヨーロッパ型教養人、って感じ。
科学すなわち応用技術、常に進歩あるのみ、
という科学の態度と、資本主義の類似性の指摘。
映画、テレビ、インターネットによる
地理感の喪失、加えてニュートン的絶対時間感の喪失
(テレビ的なカットや編集の多用によって
 均一に時間が流れる平衡感覚を失うことを、
 単なるパラダイム移行と片づけられるのだろうか)。
そして世界は均一化へ向かう。
差異を価値とし、それを埋め合わせながら
新たな差異を開拓し、商品化することが
資本主義の本質である以上、
これは避けられない事態だ。
しかし、脳や思考といった最後の「未開」が
そのターゲットとされ、クローンや洗脳技術として
埋められてゆく。
生命は均一な状態からエントロピーを摂取することで
環境変化に対応し、生き延びてきた。
それをテクノロジーが均一化すればどうなるのか…。
実際、単一市場という資本主義の最終目的にして
非常に暴力的な非人間的な場は、
アジア通貨危機、株価の世界的暴落として
すでに現出している。

とまぁ、こんな内容。
トポスの喪失はよくわかるが、
速度的なパラダイムは、新しい見方だった。
現代藝術や民主主義政治のパフォーマンス化は、
加速度的な時間観(「もっと早く、もっと効率よく」)
を導入すれば、とてもわかりやすい。


・黒沢清『ニンゲン合格』

思ってたより淡々としてて、味わい深かった。
静かで冷たそうに時間は流れるけど、
人間(じんかん)に生きてこその人間(にんげん)だからね。

11.1.10

秋葉原の雑感

欲望の街、秋葉原に初めて行った。
なぜ欲望なのかは、現在ポール・ヴィリリオを読んでいるので、
のちのち詳しく書くだろう。
ここでは雑感を。


・音ゲー

友人が華麗に披露してくれた音ゲーを見ながら、漠然と、
カイヨワの遊びの四分類
(アゴン=競争、アレア=偶然、ミミクリ=模倣、イリンクス=目眩)
の、どれに当たるか考えた。
提示される形式にできるかぎり似せてインプットを操作する。
よって、ミミクリだろう。

第一義的にはアゴンではない。
点数化という乱暴な一元化システムを実装すれば、
ほぼあらゆる遊びに競争を導入できる。
逆にいえば、現代はあらゆる事象がアゴン的だ。
受験も人事考課もゲームも、多様であるはずの容姿や性格も
偏差値、点数、ランキング、等の下で
競争にさらされ、一本化されてしまう。

リズムを第五として提唱する人もいる
(ナムコ株式会社・岩谷徹)
が、そこまでカイヨワの分類が脆弱と思えないし、
この四分類は五感とは何の関係もないのに
聴覚だけ取り出すのはおかしい。


・オタク文化の形式と受容

オタク文化が「サブ」カルチャーなのは、
現実の下位にオタク文化があるという意味で、正しい。
(ハイ・カルチャーが正統、というのは違う。
 オタク文化はハイ・カルチャーの下位にはない)

オタク文化は現実に対する巨大なミミクリであるから、
現実を意識せずにはオタク文化は存在し得ない
(オタク文化は「リア充」を意識せずにはいられない)。
しかし、現実とヴァーチャルのこの上下関係は
必ずしも固定的ではなく、クーロン力のように、
どちらがどちらを引いているとも云い難い状況である。
西洋文化はかつて、東洋をオリエンタリズムとして
初めは瞠目され、受容した。
これと同じような同化が近く行われるだろう。
オタク文化は、現実での生き方の一手法として認められ、
気にも留められない一文化と化すだろう。

常に新たな差異が作られ、同化される。これは一般論だ。

10.1.10

今村昌平『にっぽん昆虫記』

新と旧、男と女、売春婦と元締、都と鄙、
入れ替わり立ち替わりしながら身を立て、滅ぼしてゆく。
しかも、立場を変えて同じ科白が繰り返されるほど、組み立ては繊細。
ここまで濃密なのは、そして、性へのしがみつきは、
今村昌平ならではなのか。素晴らしかった。

信子との最中に唐沢が入れ歯を落とすシーンは
思わず眼を背けるほどの異彩を放った。
これまで見た映画のシーンの中で、
最もグロテスクだったかもしれない。