原書(フランス語版)も用意していたのだが、
結局はあまり参照せず、邦訳のみを読み進めることになった。
だが、この本において原書は一つではない。
ベケットはアイルランド生まれの英語話者で、
フランスに籠って本作をフランス語で書いた。
物語にはパロディと洒落が散りばめられながら進むが、
その豊潤さは英語とフランス語の二刀流だ。
第一部ではモロイが語り、第二部ではモランが話す。
Molloyと[Jacques] Moran、英語名とフランス語名。
モロイは母を尋ね、モランはモロイを探す。
モランを探すよう指示したユーディYoudiはエホバ、
その言伝てのゲイバーGaberはガブリエルから来ているとも。
また、途中に出てきた医者のピィPyは、
註釈では「おしゃべりな」「信心深い」という形容詞pieを繋げていたが、
私は教皇名のピウス(フランス語読みではピィPie)を連想した。
モランは信心深くて聖餐を戴くことにこだわるし、
帰路ではマンナの降ることを考えたりする。
一方、アンブロワーズ神父が生臭だったり、
巡礼先が妊娠して結婚したマリア像だったりする。
名称に暗示された意味から物語を読むのは、
極度に削ぎ落とされたストーリーが重層に富んで読み解き易くなりうる一方、
作品そのものの見地を軽視し制限してしまう危険があるように思う。
『ゴドーを待ちながら』でも、ゴドーGodotは神Godであり
舞台中心の枯れ木は十字架である、という解釈は魅力的だ。
でも、それだけだろうか?
作品自体はわけがわからない。
第一部は平板で退屈でさえあるし、前後関係も意図も行為もちぎれまくっている。
だが第二部は、(報告書なだけあって)まとまっている。
それが随所々々で、第一部を受けていることに気づく。
そしてゆっくりと、物語が両部であちこち円環していることに気づくわけ。
それは、モロイが母の部屋に住まいながら母を捜しに出るような、
一方的な矢印の、その複数形だ。
動機はない。考察はあれど決定打はない。
格子窓から見える月の移動についての考察(p.54-55)において、それは象徴的だ。
結論が「だがこんな場合に右だの左だのと言えるものだろうか」と、
最後には考えることを抛棄するのだ。
残るは、思考から閉め出された支離滅裂の行為と結果のみ。
その意味するものは何なのか? これがベケットの暗さと不可解性だと思う。
ソフォクレス『オイディプス王』に似て、
無限の解釈の余地のある図形を提示しているようだ。
だが、それはたった一つではない。
どこの連関を拾って繋げても図形になるからこそ面白いし、
何度読んでも発見がありそうだ。
でも、正直云って、この作品は読むこと自体が疲れる(笑)
28.1.11
吉田浩太『ユリ子のアロマ』
においを主題に採った映画ということで、
主人公はアロマサロンで働き、お相手の高校生は剣道部という、
においからの舞台連想としては安直に思った。
だが、嗅覚という普段意識しない評価軸が持ち出されることで、
汗臭さが魅惑的な個人識別に変じ、
アイドル的存在の女の子が香水臭いと一蹴される、
その思いがけなさはあった。
徹也(染谷将太)の自身なさそうにうつむきがちな演技が
思春期の高校生っぽくて良かった反面、
みほ(木嶋のりこ)のアホ女子高生っぷりがステレオタイプすぎると思う。
BGMの引かれ方と舞台の整いはテレビドラマ的で興醒めなときがあった。
映画は日常に溶けていながらもカメラと編集によって沸き起こるものであってほしいから、
舞台が主題以外を明快に斬り捨てているというのはちょっと…。
それが一般受けする映画ということになるのだろうけれども。
ただ、廃墟内でユリ子(江口のりこ)が徹也の頭を嗅ぐ逆光の場面は
ユリ子の動きがスクリーン全体の明度のゆらぎとなって、美しかった。
あと、最後にゆっくり結ばれるシーン、まわりの小物すべてが馥郁と香って好かった。
この映画の最大の魅力は、やはり嗅覚の動員に尽きる。
主人公はアロマサロンで働き、お相手の高校生は剣道部という、
においからの舞台連想としては安直に思った。
だが、嗅覚という普段意識しない評価軸が持ち出されることで、
汗臭さが魅惑的な個人識別に変じ、
アイドル的存在の女の子が香水臭いと一蹴される、
その思いがけなさはあった。
徹也(染谷将太)の自身なさそうにうつむきがちな演技が
思春期の高校生っぽくて良かった反面、
みほ(木嶋のりこ)のアホ女子高生っぷりがステレオタイプすぎると思う。
BGMの引かれ方と舞台の整いはテレビドラマ的で興醒めなときがあった。
映画は日常に溶けていながらもカメラと編集によって沸き起こるものであってほしいから、
舞台が主題以外を明快に斬り捨てているというのはちょっと…。
それが一般受けする映画ということになるのだろうけれども。
ただ、廃墟内でユリ子(江口のりこ)が徹也の頭を嗅ぐ逆光の場面は
ユリ子の動きがスクリーン全体の明度のゆらぎとなって、美しかった。
あと、最後にゆっくり結ばれるシーン、まわりの小物すべてが馥郁と香って好かった。
この映画の最大の魅力は、やはり嗅覚の動員に尽きる。
25.1.11
仙台で得たフランス文学的収穫(メモ)
2年ぶりに"帰仙"した。
そのときに聞いて印象深かった内容のメモ:
・駄作を出す勇気。
・1本のホームランより10本のヒット。
・2本の時制を並列して描写すれば、ノスタルジックな叙情性が生まれる。
(e.g.ネルヴァル、プルースト)
ブルトン『ナジャ』の最後の一文« La beauté sera CONVULSIVE ou ne sera pas.» が、
どうして邦訳のようになるかも解決した。
« ne sera pas. » は、ce ne sera pas convulsive. ではなく、
la beauté ne sera pas. つまり ça n'existe pas. だとのこと。
これはひとえに、私のフランス語力の不足による。
そのときに聞いて印象深かった内容のメモ:
・駄作を出す勇気。
・1本のホームランより10本のヒット。
・2本の時制を並列して描写すれば、ノスタルジックな叙情性が生まれる。
(e.g.ネルヴァル、プルースト)
ブルトン『ナジャ』の最後の一文« La beauté sera CONVULSIVE ou ne sera pas.» が、
どうして邦訳のようになるかも解決した。
« ne sera pas. » は、ce ne sera pas convulsive. ではなく、
la beauté ne sera pas. つまり ça n'existe pas. だとのこと。
これはひとえに、私のフランス語力の不足による。
18.1.11
カズオ・イシグロ『日の名残り』
両大戦間期に敗戦国ドイツとの関係を模索し
宥和主義者として失脚したダーリントン卿に仕え、
使用人を多く抱えて日々の仕事や重要な会議を担ったかつてと、
屋敷がアメリカ人富豪ファラディの手に渡って
召使いがたった二人となった現在。
すでに失われた過去の輝かしい日々の忙しさは、
しばしば持ち出される現在の様子との
対比と推移によって自然と鮮やぐ。
また、執事という仕事に誇りを持って
文字どおり休みなく窮理に努める主人公と、
仕事を十全にこなしながらも
個人的な立場や感受性も尊重するミス・ケントンと、
この対比とゆえの対立も、多く描かれる。
ミス・ケントンとのエピソードはほぼどれも、
「仕事」というものへの捉え方や考え方をめぐる相違だ。
これは、世代の新旧ともいえようし、
執事という失われつつある職業観ともいえるかもしれない。
終盤、ミス・ケントンと語る中で出てくる
「あとに残るもの」についてのくだりは、
この対比の要約のようなものだ。
退職と結婚という個人の幸せを求めたミス・ケントンと、
執事の道を極めたといってよいスティーブンスの、
それぞれの人生の夕暮れにさしかかった総括だ。そのあとに何が残るか──。
感動的なのは、お互い親密に業務を遂行しつつ対立の多かった両者が
お互いに認めあって笑いあう場面。
クンデラの小説で登場人物の生成は、
決定的に打ち解け合い得ない各点からなされる。
同一平面上にない以上、止揚はあり得ない。
この小説も同じような登場人物関係だ、と感じた。
仕事一徹のスティーブンスと、今風に云えば
「ワークライフバランス」重視のミス・ケントン。
これは、生きる上で働くことの意味を、そして、どう働くかの意味を、問う。
前者は人口に膾炙しているが、後者はさてどうだろう。
宥和主義者として失脚したダーリントン卿に仕え、
使用人を多く抱えて日々の仕事や重要な会議を担ったかつてと、
屋敷がアメリカ人富豪ファラディの手に渡って
召使いがたった二人となった現在。
すでに失われた過去の輝かしい日々の忙しさは、
しばしば持ち出される現在の様子との
対比と推移によって自然と鮮やぐ。
また、執事という仕事に誇りを持って
文字どおり休みなく窮理に努める主人公と、
仕事を十全にこなしながらも
個人的な立場や感受性も尊重するミス・ケントンと、
この対比とゆえの対立も、多く描かれる。
ミス・ケントンとのエピソードはほぼどれも、
「仕事」というものへの捉え方や考え方をめぐる相違だ。
これは、世代の新旧ともいえようし、
執事という失われつつある職業観ともいえるかもしれない。
終盤、ミス・ケントンと語る中で出てくる
「あとに残るもの」についてのくだりは、
この対比の要約のようなものだ。
退職と結婚という個人の幸せを求めたミス・ケントンと、
執事の道を極めたといってよいスティーブンスの、
それぞれの人生の夕暮れにさしかかった総括だ。そのあとに何が残るか──。
感動的なのは、お互い親密に業務を遂行しつつ対立の多かった両者が
お互いに認めあって笑いあう場面。
クンデラの小説で登場人物の生成は、
決定的に打ち解け合い得ない各点からなされる。
同一平面上にない以上、止揚はあり得ない。
この小説も同じような登場人物関係だ、と感じた。
仕事一徹のスティーブンスと、今風に云えば
「ワークライフバランス」重視のミス・ケントン。
これは、生きる上で働くことの意味を、そして、どう働くかの意味を、問う。
前者は人口に膾炙しているが、後者はさてどうだろう。
17.1.11
須永秀明『けものがれ、俺らの猿と』
大学二年かそこらの頃の帰阪中、ミッドナイトシアターで観たのが初見。
同題の町田康原作作品はすでに読んでおり、
原作に忠実な作りや、劇画風の色調も相俟って、再び観たいと思っていた。
年末にDVDを買って、今日ようやく久しぶりに観た。
ナンセンスで意味不明なのに鮮明に残る映像が繰り出されるから、
何年を経ても朧げに記憶に残っていた通りだった。
BGMも奇天烈で、作品観によく合っている。
意味をカフカ的に感じても良いけれど、
意味を排した不条理も、ストーリーや前後関係に負う以上、
何らかの意味は常に見出されてしまうからだ。
だから、そこから哲学を引き出すよりは、とにかく笑いに笑うべき作品。
佐志がどんどんとどつぼにはまって、支離滅裂となんとか折り合いをつけようともがく、
その様子がとにかく痛快だし、どのキャラクターも印象的に焼きつく。
同題の町田康原作作品はすでに読んでおり、
原作に忠実な作りや、劇画風の色調も相俟って、再び観たいと思っていた。
年末にDVDを買って、今日ようやく久しぶりに観た。
ナンセンスで意味不明なのに鮮明に残る映像が繰り出されるから、
何年を経ても朧げに記憶に残っていた通りだった。
BGMも奇天烈で、作品観によく合っている。
意味をカフカ的に感じても良いけれど、
意味を排した不条理も、ストーリーや前後関係に負う以上、
何らかの意味は常に見出されてしまうからだ。
だから、そこから哲学を引き出すよりは、とにかく笑いに笑うべき作品。
佐志がどんどんとどつぼにはまって、支離滅裂となんとか折り合いをつけようともがく、
その様子がとにかく痛快だし、どのキャラクターも印象的に焼きつく。
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