18.1.11

カズオ・イシグロ『日の名残り』

両大戦間期に敗戦国ドイツとの関係を模索し
宥和主義者として失脚したダーリントン卿に仕え、
使用人を多く抱えて日々の仕事や重要な会議を担ったかつてと、
屋敷がアメリカ人富豪ファラディの手に渡って
召使いがたった二人となった現在。
すでに失われた過去の輝かしい日々の忙しさは、
しばしば持ち出される現在の様子との
対比と推移によって自然と鮮やぐ。

また、執事という仕事に誇りを持って
文字どおり休みなく窮理に努める主人公と、
仕事を十全にこなしながらも
個人的な立場や感受性も尊重するミス・ケントンと、
この対比とゆえの対立も、多く描かれる。
ミス・ケントンとのエピソードはほぼどれも、
「仕事」というものへの捉え方や考え方をめぐる相違だ。
これは、世代の新旧ともいえようし、
執事という失われつつある職業観ともいえるかもしれない。

終盤、ミス・ケントンと語る中で出てくる
「あとに残るもの」についてのくだりは、
この対比の要約のようなものだ。
退職と結婚という個人の幸せを求めたミス・ケントンと、
執事の道を極めたといってよいスティーブンスの、
それぞれの人生の夕暮れにさしかかった総括だ。そのあとに何が残るか──。
感動的なのは、お互い親密に業務を遂行しつつ対立の多かった両者が
お互いに認めあって笑いあう場面。

クンデラの小説で登場人物の生成は、
決定的に打ち解け合い得ない各点からなされる。
同一平面上にない以上、止揚はあり得ない。
この小説も同じような登場人物関係だ、と感じた。
仕事一徹のスティーブンスと、今風に云えば
「ワークライフバランス」重視のミス・ケントン。
これは、生きる上で働くことの意味を、そして、どう働くかの意味を、問う。
前者は人口に膾炙しているが、後者はさてどうだろう。

0 件のコメント: