31.1.11

サミュエル・ベケット『モロイ』

原書(フランス語版)も用意していたのだが、
結局はあまり参照せず、邦訳のみを読み進めることになった。
だが、この本において原書は一つではない。
ベケットはアイルランド生まれの英語話者で、
フランスに籠って本作をフランス語で書いた。
物語にはパロディと洒落が散りばめられながら進むが、
その豊潤さは英語とフランス語の二刀流だ。

第一部ではモロイが語り、第二部ではモランが話す。
Molloyと[Jacques] Moran、英語名とフランス語名。
モロイは母を尋ね、モランはモロイを探す。
モランを探すよう指示したユーディYoudiはエホバ、
その言伝てのゲイバーGaberはガブリエルから来ているとも。
また、途中に出てきた医者のピィPyは、
註釈では「おしゃべりな」「信心深い」という形容詞pieを繋げていたが、
私は教皇名のピウス(フランス語読みではピィPie)を連想した。
モランは信心深くて聖餐を戴くことにこだわるし、
帰路ではマンナの降ることを考えたりする。
一方、アンブロワーズ神父が生臭だったり、
巡礼先が妊娠して結婚したマリア像だったりする。

名称に暗示された意味から物語を読むのは、
極度に削ぎ落とされたストーリーが重層に富んで読み解き易くなりうる一方、
作品そのものの見地を軽視し制限してしまう危険があるように思う。
『ゴドーを待ちながら』でも、ゴドーGodotは神Godであり
舞台中心の枯れ木は十字架である、という解釈は魅力的だ。
でも、それだけだろうか?

作品自体はわけがわからない。
第一部は平板で退屈でさえあるし、前後関係も意図も行為もちぎれまくっている。
だが第二部は、(報告書なだけあって)まとまっている。
それが随所々々で、第一部を受けていることに気づく。
そしてゆっくりと、物語が両部であちこち円環していることに気づくわけ。
それは、モロイが母の部屋に住まいながら母を捜しに出るような、
一方的な矢印の、その複数形だ。
動機はない。考察はあれど決定打はない。
格子窓から見える月の移動についての考察(p.54-55)において、それは象徴的だ。
結論が「だがこんな場合に右だの左だのと言えるものだろうか」と、
最後には考えることを抛棄するのだ。
残るは、思考から閉め出された支離滅裂の行為と結果のみ。
その意味するものは何なのか? これがベケットの暗さと不可解性だと思う。

ソフォクレス『オイディプス王』に似て、
無限の解釈の余地のある図形を提示しているようだ。
だが、それはたった一つではない。
どこの連関を拾って繋げても図形になるからこそ面白いし、
何度読んでも発見がありそうだ。
でも、正直云って、この作品は読むこと自体が疲れる(笑)

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