5.5.19

2018年夏/安部公房『人間そっくり』、谷崎潤一郎『細雪』『蘆刈』『吉野葛』『金色の死』、バルザック『暗黒事件』、タブッキ『レクイエム』、ウエルベック『服従』、矢作俊彦『あ・じゃ・ぱん!』

昨年の夏は自分にとって、むしろ冷涼な空調とともに過ぎた。
転居という物質的な変化に始まったものの、
過ぎてみれば、心の引き裂かれる時間だった。

一方、わが小さな命は目を瞠る早さで育っている。
彼は私(たち)と周囲をどんどん飲み込んでいる。
成人して何を吐き出してくれるのか、恐れつつも楽しみだ。
が、結局は私(たち)と周囲が培ったものと肝に銘じる必要がある。

人生とは所与の時間であり、どう満たすかでしかない。
その半分は喪われた。残りを何で満たせるだろう?

9.6.18

田川建三『歴史的類比の思想』、ガンジー『ガンジー自伝』

田川建三『歴史的類比の思想』

田川建三の鋭さとは何かというと、命題を読み解く裾野の広さと洞察だと思う。
一つの問題を考えるとき、周辺や類型をも大きく汲み取る。
一般化するも、それが原則ではなくイデオロギーであることを忘れない。
現代を生きるヒントとしての歴史のありようとして、
この捉え方を会得したいものだ。

「原始キリスト教とアフリカ」では、
古代ローマ帝国と現代アフリカにおけるキリスト教普及を対応させて論じている。
ごく内輪で通じる弱小な母語と、
経済や社会の圏内で生活するためのギリシャ語/英語と、という言語の多重性があり、
支配階級ではない周辺民族のアイデンティティ喪失状態がある。
双方の個別の背景を述べながら、言語と民族と階級という軸で対照する。
アフリカのキリスト教が説教というより絶対的真理であり、
党派的勢力として関心を向けられている、という指摘が興味深かった。
皮肉でなく実態として政教の不可分ではないか。

「ウィリヤム」では、次の指摘がはっとさせられた。
歴史の随所に登場する法則だ。
抑圧の悲劇は抑圧の行為そのものに終るのではない。抑圧する者は、抑圧しているくせに、抑圧の残忍さを身につけることなく、清く美しく生きられるのに、抑圧されている者の方が、かえって、抑圧者の持つべき残忍さの性格までも、おのれの性格として背負いこんでしまうところにある。そして、おのれがもはや抑圧される位置にいなくなっても、身にしみついた抑圧者の残忍さは、持続する性格となって残る。[...]外部からの抑圧の構造が、内側の構造に転化される。(p.88)

「ウェーバーと現代」では、
ウェーバー研究家がウェーバーのみを礼讃する状況を指弾する。
要するに、自分たちの生きている状況の現実から問題を切り出していく、という消耗な、しかしそれをはずしてはすべてが虚妄になる作業は逃げておいて、問題意識自体をウェーバーから借りてくるという姿勢を持続している限りは、ついに翻訳屋でしかありえないし、その翻訳紹介にしたところで、ウェーバー自身をも矮小化してしまうことになるのです。(p.185)
自らが身を置いた文学研究を考えて、刃を突きつけられた心持がした。
カイヨワの同様の「文学」学批判を思い出す。

勁草書房刊、改装版。

ガンジー『ガンジー自伝』

蝋山芳郎訳。中公文庫版。
古い版なので字が小さかったが、読みやすかった。

モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(通称マハトマ・ガンディー)の、
信仰厚く心優しい少年時代に始まり、
アフリカでのインド人差別との闘い、
そしてインドでの各地での運動について、語られている。

宗教によって育まれた倫理が普遍性を帯びて、
イスラムやキリスト教のような他宗教の指導者とも通じあっている。
闘争の状況下ゆえなのかもしれないが、
普遍的な信念が宗教を越えていたからだと、信じたい
(大インド主義は実現されなかったが)。
市民運動が顔と心情を持っていた、そういう僥倖を遠目に眺める気持で読んだ。

14.4.18

タミム・アンサーリー『イスラームから見た「世界史」』

紀伊國屋書店刊。小沢千重子訳。

原題は"Destiny Disrupted - A History of the World Through Islamic Eyes"で、
チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』(原題は"Things Fall Apart")を思わせる。
実際、物語は欧米列強による植民地と石油利権の獲得競争によって
複雑化し分断されるイスラム世界が語られる。
邦題を見ると本書は純然たる歴史書と捉えられるし、事実そのような内容だ。
が、やはり作者の語りたいは、近代以降であり、
特権階級と石油利権と米ソに分断されたイスラム世界の現状にほかならない。
というのは、作者はあとがきで、次のように述べる。
[...]近年の欧米による道徳的・軍事的キャンペーンは、ムスリムを自身の国の中で弱体化させるという定石どおりのプログラムのように思われる。西洋の習慣や法体系や民主主義というのはまるで、個々の経済単位が合理的な利己心に基づいて自主的に判断を下すというレベルまで、社会を細分化するプロジェクトのようにみえるのだ。(p.636)
この訴えは、市民社会という近現代の自明の理に対する深い異議申し立てだ。
イスラムとは宗教つまり生きることの指針であるのみならず、
共同体の指針でもあり、しかも憲法・刑法・民法でもあるから、
いかにアメリカやロシアや西欧が自由と民主主義で社会の基盤を代替しようとも、
制度が二重化してものごとが複雑化するだけだからだ。

物語はイスラム暦である「ヒジュラ暦」の元年から始まり
(併記されている西暦は622年)、
1421年(西暦2001年)の9.11までを語る。
ムハンマドの開教以前の歴史として、ペルシア帝国やゾロアスター教があり、
9.11以降の歴史としてはアラブ革命もある。
とにかく、複雑に交錯しながらも一本の歴史があって、
今という瞬間(例えば、シリア危機)があると、はっきり感じられた。
とはいえ、筋書きは進むにつれて重苦しいことずくめになってゆく。
正統カリフ時代の終焉とともに世俗派からシーア派が分離し、
さらにはイスラム世界の統治権力も複数が相対峙するようになる。
宗派、身分、民族という対立軸が複雑化してゆき、
ときに外部のキリスト教やモンゴルが入り乱れながら、
それでも、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国の鼎立する絶頂期まで、
イスラム世界は富や仁智、文化や科学までも華々しく誇っていた。
が、欧州列強の植民地獲得競争であっという間に切り崩されてゆき、
冷戦構造や石油利権がさらに対立を深めてゆく。

現況は、ファクターが多すぎて見通しがつかない。
イスラム原理主義はあまりに国民国家や人権保護に相容れないため、
欧米諸国や国連とまともに会話すらできない。
また、数年前に「アラブの春」が民衆からの下からの抗議として拡がったが、
不満はあれどビジョンを欠いた。
つまり、それを一つにまとめ上げる理念はなく、
ええじゃないかの騒ぎのような世直し欲求として萎みかけている。
ビジョンを求めようとすれば、イスラム史をどこまで遡って参照するかという
答えのない迷宮で、刺し違えることになる。
この袋小路はどこへ行き着くのか。

蛇足だが、我が身を省みて、日本に民主主義は根づいたのか。
民主主義が建前なら、本音として巣食っている因習とは何なのか。
昨今の政情が株価を人質に取っていまだに生きながらえている様子は憂鬱だし、
その旗印たる開発独裁さえ30年近く失政続きという体たらくで、
何がこの国の本当の心情なのか。

6.4.18

ジョン・ケネス・ガルブレイス『大暴落1929』

村井章子訳。日経BPクラシックス版。
2008年刊なので、リーマン・ショックの時期にうってつけだっただろう。

経済学史における制度派の代表的な人物として著者を知っていたが、
著作を読むのは初めて。
あまりに平易な語り口は経済学というよりエッセイのようで、驚いた。

タイトル通り、世界大恐慌の発端となった1929年のアメリカのバブル崩壊を扱う。
「ブラック・チューズデー」の常套句はまるでそれが一日の出来事のように伝えるが、
実態は、値崩れだけでもひと月もあったことは、冷静な損切りの大切さを物語る。
そして、バブルという狂乱が全体主義的な異様な空気を当然であるかのように帯びて、
その全体を突き落とす、この過程はチキンレースさながらだ。

初めは人知れず熱を帯び、徐々に耳目を集めて過熱し、
それを当然とする風潮がはびこり異見を駆逐する。
すると、崩壊が始まっても夢を無理に信じ込もうとする。
また、信用取引、レバレッジ、投資信託のようなメタな金融商品が、
カネを市場に何周も駆け回らせる手法は、
むしろ昨今のバブルと大して違わない。
このあたりは、一般則を引き出すまでもなく、
実例がそのまま後の歴史で繰り返されているように思われる。

終章は、バブルの背景を考察し、
貧富差の拡大や持株会社構造や預金保護不在などを挙げている。
それらは1929年の社会システムに特有の問題だ。
が、それらの羅列を眺めて思ったのは、
社会システムというものはある条件下において、
きちんと因果律に従って崩壊する、ということだ。
どのような要素が歯車のように組み合わさるかは、社会システムによるが。
そして、社会システムがそのように脆弱性を孕んでいる以上、
分析と補正は欠かせない。
プログラムにおけるバグにとてもよく似ている。

4.4.18

リチャード・ブローティガン「西瓜糖の日々」

iDᴇᴀᴛʜのある日常が語られる。
その書き出しは淡々と美しく、小説全体を包む静けさを象徴する。
In watermelon sugar the deeds were done and done again as my life is done in watermelon sugar. I'll tell you about it because I am here and you are distant.

町はたいてい西瓜糖でできているらしい。
無数の細い川が流れ、鱒が泳いでいる。
桃源郷のような暮らしがある。
しかし、Forgetten Worksが町外れに打ち棄てられ、
そこに魅せられた者はそこでの生活に疑問を持ち、死を選ぶ。
だが、それは主人公たちには決して伝わらない。
閉ざされた世界は美しく塗り込められて、綻びは許されない。

幸福と生とのせめぎ合いが、そこでは超克されている。
生というものの本質的な危うさが、そこには無い。
いや、墓や立像や鱒としてあちこちに死が刻印されているにもかかわらず、
生が無自覚に、空気のように充満している。
だから、幸福もまた空気のように、快いが自明であり、勝ち取るものではない。

この小説は、自我のない幸福を材に取りながらも、揶揄しない。
むしろ、そのような幸せを描き切ってしまう。
ディストピア賛歌という危うい内容なだけに、問いかけに厚みがある。

──原書で読んだ。
ずっと本棚の奥へと敬遠してきたわりには、読みやすかった。