2.10.08

記号の戯れ あるいは、ライトノベルへの提言

ライトノベルの現状と問題点

ライトノベルは単なる記号の戯れにすぎない。
ライトノベルにおいて好まれる記号は、以下のとおり:
しらけ(冷め)、暴力、(非対称の対義語としての)対称性、閉鎖空間、非=没我。
これらの複合がライトノベルの本質であり、
ライトノベルとして読まれる全作品の形態であると考える。

登場人物は常に冷静で、行為は常に正しい。
対称性は、他者不在とも換言で着る。
登場人物はみなそれぞれの領分を持ち、「空気が読めている」。
たとえ他者が登場しようとも、
それは非対称的な他者として作品に深みを持たせることはなく、
対称性として、分かりやすく言うなら「悪」として、
作品世界の裏返しとして取り込まれるためのものである。
これらは、主人公が作品内で特権的地位を与えられているからだ。
全登場人物は、主人公を軸として周囲におかれている。
主軸である主人公は、その絶対性ゆえに内省・自己批判を必要としない。
これらを成り立たせているのが、作品世界という閉鎖空間だ。

ライトノベルにおける暴力とは、読者サービスのための不要な装飾品である。
かっこつけとしての白けも同様で、本来は不要だが、
主人公を頂点とする作品世界の絶対性に支えられ、
読んでいて心地よい全能性を強調するために、付与されるのであろう。

記号の戯れである所以は、この主人公を頂点とする絶対性である。
主人公に属するあらゆるものは、吟味されることを免れて正しいとされる。
一方、物語とは、何かを問題にして語るというプロセスであるが、
作品世界内ですべての価値判断が済んでいる状態では、何をも問題化できない。
よって、記号は終始、形を変えずに戯れ続けざるを得ないのだ。


ライトノベルはいかに文学性を獲得するか

ライトノベルが文学性を確保するためにはいかにすべきか。
ライトノベルは、最初に挙げた諸要素によって満たされるので、
基本的には文学との関連はない。
しかし、文学の指向をライトノベルに適用すればいいのではないかと私は考える。
それは、模倣と破壊である。
ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、
騎士道文学を模倣することによって、それを内部から破壊することに成功した。

ライトノベルの行く末は、二通り考えられる。
一つ目は、ライトノベルの形態が変容した場合。
これは、私が上に挙げて予想したような文学性獲得や、
あるいは、非常に斬新な手法によって、ライトノベルが現在の枠組みを捨てた場合。
ライトノベルは止揚することで、延命されることになる。
ただし、それが読者に受け入れられるか否かは全くの別問題。
二つ目は、ライトノベルが変容しなかった場合。
ライトノベルは、絶対的自我に支えられた、非常に現代的潮流にあったジャンルなので、
大部分の漫画のように、時代を越えられぬまま、時の忘却に遭うだろう。
黙示文学、騎士道文学、私小説、などのように、
文学史にのみその名を留めることになる。


ライトノベルからみて文学とは何か

ライトノベルを反面教師として、文学の可能性を考えることは有用である。
文章によるという形態、商業性、時代性などは共通しているからだ。
しかし、これは今後の課題としたい。


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私の云いたいことを要約すると、こうだ:
『キノの旅』がつまらなすぎる。

1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

 私から問いたいのは、ただ一つ。では、なぜライトノベルは生まれたのか。氏はライトノベルに対して文学性を模索したり、ライトノベルから文学を見直すことの有用性について言及しているが、私には、むしろライトノベルは文学の伝統的な、あるいは一見さんお断り的な束縛から逃れるために生まれたように思われる。
 文学の素晴らしさ、奥深さについてはもはや問うまい。それが価値に値するものであるということは明らかである。だが、それが全てではない。あらゆる学問が万能性を主張することができないように、文学もまた人間を余すことなく表現できているなどと断言することはできない。
 ここまでを踏まえてもらって、あえて問おう。なぜライトノベルは生まれ、現に書店に並べられるに至ったのか。