知は力なり。 ──フランシス・ベーコン
知が力であるという、スコラ哲学に対する反感だけではない。
知が権力であるという、来るべき制度を要請する発言である。
実際、ベーコンがデカルトとともに開いた近代において、
知はそのように振る舞えた。資本主義ならぬ知本主義。
一方で、知は啓蒙的であるべきという桎梏に囚われたとはいえまいか。
知が倫理観や良心の足枷に囚われていた、と言い換えてもよい。
サドやイジドール・デュカスが、アンチテーゼ的ながら一つの知であると
認識されるまで、この枷との戦いだった。
マルクス=アウレリウスの『自省録』のような、
主観である自分をも客観的に視ることのできる態度こそが知だった。
啓蒙主義は知か?
思考することを促しはするが、その道筋を過剰に操作するならば
それは洗脳としての危険を孕む。
19世紀の啓蒙君主とは、自分が思考主体となることで
国民の思考を括弧に入れてしまい
近代型の国民国家における国民の均一性を保つ、そういう制度なのではないか。
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