物語が端々で袂を折り重ねながら延びてゆく。
小説、というか、物語り。心地よくページが進む。
ユタの沙漠での孤独な生活のありさまが、印象的だった。
世界がどこまでも広いほど、その壁は厚く孤独を強いる感覚、
身体の境界が消えて時の流れと同化する心境。
旅の楽しみに近しい気もした。
同著者『忘却の書』によく似ているのは、所々で伏線を振り返る語りと、
登場人物がみな過去形、通り過ぎてしまって決して帰ってこない過去形であること、か。
でも、『ムーン・パレス』は、その喪失感を言い当てる象徴的な言葉があった。
僕らはつねに間違った時間にしかるべき場所にいて、しかるべき時間に間違った場所にいて、つねにあと一歩のところでたがいを見出しそこない、ほんのわずかのずれゆえに状況全体を見通しそこねていたのだ。要するにそこに尽きると思う。失われたチャンスの連鎖。断片ははじめからすべてそこにあった。でもそれをどう組み合わせたらいいのか、だれにもわからなかったのだ。(p.293)
この達観した視座の結びと、端正な文章の味わいが、オースターの小説。
だから、喪失すら心地よさとして響く心地がある。
25.11.10
塚本邦雄『王朝百首』
「百人一首に秀歌なし」との挑戦的な文言とともに、
塚本の美学の撰んだ百首がきらめく。
「定家百首」とはまた違ったアンソロジーとして、
春夏秋冬花鳥風月を愛でる一巡として素晴らしい材であるとともに、
日本語文学の表現技法の結晶のかずかずであり、
また、もちろん和歌の勉強にもなるといえばなる。
「移香の身にしむばかりちぎるとて扇の風の行方たづねむ」(定家)
というあまりに官能的な、それでいて粘着せず上下句の隙に揺らぎを持つ歌から、
「おぼつかな何しに来つらむ紅葉見に霧のかくせる山のふもとに」(小大君)
といった、穂村弘のような口語現代短歌っぽいのまで、果ては、
「あひ見てもちぢに砕くるたましひのおぼつかなさを思いおこせよ」(藤原元真)
と、恋の身の震えるような金言まで、種々を収める。
最低限の註釈と訳が付くことが多いので、
短歌を味わう初学者である自分にも読みやすかった。
また、歌を愛でる塚本邦雄の言葉そのものも端正で美しい。
批評もまた文学作品である以上、この著作は味わうに申し分ない。
あとがきに謳われた和歌の鑑賞法も幽玄だ。
講談社文芸文庫は隠れた名作揃いだが、本作もそれに漏れない。
誕生月のリクエストでこの本を贈ってくだすった方に多謝。
塚本の美学の撰んだ百首がきらめく。
「定家百首」とはまた違ったアンソロジーとして、
春夏秋冬花鳥風月を愛でる一巡として素晴らしい材であるとともに、
日本語文学の表現技法の結晶のかずかずであり、
また、もちろん和歌の勉強にもなるといえばなる。
「移香の身にしむばかりちぎるとて扇の風の行方たづねむ」(定家)
というあまりに官能的な、それでいて粘着せず上下句の隙に揺らぎを持つ歌から、
「おぼつかな何しに来つらむ紅葉見に霧のかくせる山のふもとに」(小大君)
といった、穂村弘のような口語現代短歌っぽいのまで、果ては、
「あひ見てもちぢに砕くるたましひのおぼつかなさを思いおこせよ」(藤原元真)
と、恋の身の震えるような金言まで、種々を収める。
最低限の註釈と訳が付くことが多いので、
短歌を味わう初学者である自分にも読みやすかった。
また、歌を愛でる塚本邦雄の言葉そのものも端正で美しい。
批評もまた文学作品である以上、この著作は味わうに申し分ない。
あとがきに謳われた和歌の鑑賞法も幽玄だ。
講談社文芸文庫は隠れた名作揃いだが、本作もそれに漏れない。
誕生月のリクエストでこの本を贈ってくだすった方に多謝。
24.11.10
市川段治郎・市川春猿『夢十夜』(朗読)
11月23日、渋谷のセルリアンタワー地下の能楽堂にて。
出演は市川段治郎と市川春猿、新内剛士が三味線。
建物全体の埃ひとつない立ち居といい、
能楽堂から入口の桟すべての木が正目なのといい、
渋谷らしくない重厚さがあった。
夏目漱石『夢十夜』は第四話あたりまでという
なんともぶざまな状況だったから、
このような形で"読了"できてよかった。
第五夜あたりまでは内田百閒のような幻想的な寓話だったが、
次第に、床屋や戦争の話が出てきて、そちらも好かった。
にしても、やはり役者の朗読だからか、情景や描写がありありと頭に浮かぶ。
幻想的な寓話だから、街や家のごちゃごちゃした背景に
煩わされず、心身の動きのみを追うことができるからなのかもしれないが。
漱石の文体の描写の的確さも、もちろんそれを一番底から支える。
あまり朗読によって読むことに慣れず、内容も頭に入らないと思っていたから、
この会に参列できて、本当に良かった。
舞台の上で、葛桶に腰掛けてただ読むばかりではなく、
花道を振り返ったり、二人すれ違ったりと、
それも朗読内容を豊かに表現していた。
綺麗な声はもちろん、礼のときの首筋のなめらかな動きまで、
春猿の女形の居住まいは徹底して綺麗だった。
---
夕刻、足の向くままに原宿の明治神宮に行った。
新嘗祭の贄(にえ)が各都道府県ごとに並び、
近郊の農業組合からの野菜が飾ってあった。
「なんという土人の国に住んでいるのか」という浅田彰の言葉を思い出しつつ眺めた。
出演は市川段治郎と市川春猿、新内剛士が三味線。
建物全体の埃ひとつない立ち居といい、
能楽堂から入口の桟すべての木が正目なのといい、
渋谷らしくない重厚さがあった。
夏目漱石『夢十夜』は第四話あたりまでという
なんともぶざまな状況だったから、
このような形で"読了"できてよかった。
第五夜あたりまでは内田百閒のような幻想的な寓話だったが、
次第に、床屋や戦争の話が出てきて、そちらも好かった。
にしても、やはり役者の朗読だからか、情景や描写がありありと頭に浮かぶ。
幻想的な寓話だから、街や家のごちゃごちゃした背景に
煩わされず、心身の動きのみを追うことができるからなのかもしれないが。
漱石の文体の描写の的確さも、もちろんそれを一番底から支える。
あまり朗読によって読むことに慣れず、内容も頭に入らないと思っていたから、
この会に参列できて、本当に良かった。
舞台の上で、葛桶に腰掛けてただ読むばかりではなく、
花道を振り返ったり、二人すれ違ったりと、
それも朗読内容を豊かに表現していた。
綺麗な声はもちろん、礼のときの首筋のなめらかな動きまで、
春猿の女形の居住まいは徹底して綺麗だった。
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夕刻、足の向くままに原宿の明治神宮に行った。
新嘗祭の贄(にえ)が各都道府県ごとに並び、
近郊の農業組合からの野菜が飾ってあった。
「なんという土人の国に住んでいるのか」という浅田彰の言葉を思い出しつつ眺めた。
15.11.10
ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』、松岡政則『草の人』
ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』
マジックミラー越しのトラヴィスとジェーンのやりとりは、完璧。
構図の妙はもちろんのこと、
ジェーンの恰好や口紅の原色のあざやぎの場末の安っぽさ、
トラヴィスの押し殺したような無表情と声、
淡々と語られる真実。
絵画として脳裡に焼きつく場面だった。
トラヴィスの放浪と失った母親という労苦もどこ吹く風といったように
無邪気なハンターが、最後に母親のジェーンに正面からそっと近づいて
腰に抱きつく姿は、柔らかい。
柔らかで暖かい場面が印象的なのは、トラヴィスの放浪する沙漠や
自動車でひた走るテキサスの荒野の隙間でのひとときだからなのかもしれない。
風をかき鳴らすようなライ・クーダーの音楽の挿入も素晴らしい。
松岡政則『草の人』
何年か前に読んだ『金田君の宝物』がずっと胸の中にあったので、手に取った同著者の詩集。
題名にあるとおり草が主題だが、正直、さほど青臭く煙るような詩は多くなかった。
反=自然として対比させられた「記号」や「都市」「街」が、
あまり実感としてではなく概念のままごろんと転がされていて、
それほど言葉から沁み出して感じられなかった。
(こんな云い方は僭越とはわかっているけど)
すごく言葉を興すのに苦労して、出た思いを削って磨いて
やっと縦に字を連ねている、そんな気がした。
つるつるに研磨されて、一読にはするっと柔らかく、毒を残さない気がした。
もちろん謂いは毒だけれど、言葉そのものは毛羽立っていない。
マジックミラー越しのトラヴィスとジェーンのやりとりは、完璧。
構図の妙はもちろんのこと、
ジェーンの恰好や口紅の原色のあざやぎの場末の安っぽさ、
トラヴィスの押し殺したような無表情と声、
淡々と語られる真実。
絵画として脳裡に焼きつく場面だった。
トラヴィスの放浪と失った母親という労苦もどこ吹く風といったように
無邪気なハンターが、最後に母親のジェーンに正面からそっと近づいて
腰に抱きつく姿は、柔らかい。
柔らかで暖かい場面が印象的なのは、トラヴィスの放浪する沙漠や
自動車でひた走るテキサスの荒野の隙間でのひとときだからなのかもしれない。
風をかき鳴らすようなライ・クーダーの音楽の挿入も素晴らしい。
松岡政則『草の人』
何年か前に読んだ『金田君の宝物』がずっと胸の中にあったので、手に取った同著者の詩集。
題名にあるとおり草が主題だが、正直、さほど青臭く煙るような詩は多くなかった。
反=自然として対比させられた「記号」や「都市」「街」が、
あまり実感としてではなく概念のままごろんと転がされていて、
それほど言葉から沁み出して感じられなかった。
(こんな云い方は僭越とはわかっているけど)
すごく言葉を興すのに苦労して、出た思いを削って磨いて
やっと縦に字を連ねている、そんな気がした。
つるつるに研磨されて、一読にはするっと柔らかく、毒を残さない気がした。
もちろん謂いは毒だけれど、言葉そのものは毛羽立っていない。
8.11.10
エリック・アマディオ『After Sex アフターセックス』
同じ事後でも、後朝(きぬぎぬ)っていうような趣のあるもんじゃなくて、
価値観のぶつかり合いにしろ、打ち解けて喋るにしろ、現代的やわな。
同性間が珍しくないのもそうだし。
いきなり母親が帰ってくるパターンは受けた。
実家暮らしも楽じゃないよ。
価値観のぶつかり合いにしろ、打ち解けて喋るにしろ、現代的やわな。
同性間が珍しくないのもそうだし。
いきなり母親が帰ってくるパターンは受けた。
実家暮らしも楽じゃないよ。
4.11.10
ロバート・ログバル『神の子どもたちはみな踊る』
原作の舞台は東京だが、映画ではロサンゼルス。
父親が"神"でコリアンタウンに住む中国系アメリカ人、名は日本的でケンゴ。
本当の父親と思しき、耳のちぎれた医者を追ってとうとう捕まえ損ねる、
星条旗やアメリカ本土図のシルエットが
その中で二度ほど映り込んだのが印象的だった。
すると即座に、アイデンティティーと国籍、という解釈軸が出てきてしまう。
ならば地震は父権の崩壊?
…あぁ、印象批評の虚しさよ。
この映画で面白かったのはむしろ、
ストーリーの進む背景で絡みあった糸が
あちこちから一気に引っぱられて解けようとしている、
その緊張感の瞬間なのに、淡々としているカメラワークと色遣いだった。
勿論、意味を持たせるために回想シーンが入り込むけれど、
それはそれで平凡な風景ではある。
だから、最も劇的な場面は、何のことのないセックスシーンだったりして。
六本木シネマートにて鑑賞。
その後、六本木ヒルズの入り組んだ構造を彷徨し、
赤坂の東京ミッドタウンへ遊んだ後、
旧名・麻布六本木町の酒場とバーで飲んだ。
探る言葉と追う影。
父親が"神"でコリアンタウンに住む中国系アメリカ人、名は日本的でケンゴ。
本当の父親と思しき、耳のちぎれた医者を追ってとうとう捕まえ損ねる、
星条旗やアメリカ本土図のシルエットが
その中で二度ほど映り込んだのが印象的だった。
すると即座に、アイデンティティーと国籍、という解釈軸が出てきてしまう。
ならば地震は父権の崩壊?
…あぁ、印象批評の虚しさよ。
この映画で面白かったのはむしろ、
ストーリーの進む背景で絡みあった糸が
あちこちから一気に引っぱられて解けようとしている、
その緊張感の瞬間なのに、淡々としているカメラワークと色遣いだった。
勿論、意味を持たせるために回想シーンが入り込むけれど、
それはそれで平凡な風景ではある。
だから、最も劇的な場面は、何のことのないセックスシーンだったりして。
六本木シネマートにて鑑賞。
その後、六本木ヒルズの入り組んだ構造を彷徨し、
赤坂の東京ミッドタウンへ遊んだ後、
旧名・麻布六本木町の酒場とバーで飲んだ。
探る言葉と追う影。
2.11.10
トマス・ド・クインシー『阿片常用者の告白』
終盤、夜な夜なうなされる夢の記述は鬼気迫っていた。
文体を念頭に読んだ。
硬質な文体が、小説頭にはこれほどまでに読みにくいものか。
勿論、随筆調の散文だからこれでよいのかもしれないけれど、
小説の文体はミクロには詩とリズムと間でないと、と思った。
文体を念頭に読んだ。
硬質な文体が、小説頭にはこれほどまでに読みにくいものか。
勿論、随筆調の散文だからこれでよいのかもしれないけれど、
小説の文体はミクロには詩とリズムと間でないと、と思った。
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