29.7.11

イタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』

『われわれの祖先』三部作の一。
トルコとの戦争でまっぷたつになって帰還した子爵が悪の権化となり、
善のもう半分と戦い、そして一緒になるまでが、寓話的に語られる。

寓話的な物語論理が支配しているから、ストーリー展開は読める。
しかし、そういう物語はクライマックスの運びが、結末への着地が難しい。
この作品のさわりは、二つの半分ずつによる決闘だろう。
剣が相手へ届くが、もう半分のあったところばかりを切り裂く。
それは、刺している身のあったところだ。

また、善と悪の奇妙な一致も面白い。
完全だったころにはわからないものが見える、そう二つの半身は呟く。
そこで、この小説で描かれる善悪とは、関係性においてなのだとわかる。
憎しみや妬みが悪、慈しみや哀れみが善。

26.7.11

穂村弘『短歌ください』、フィリップ・ロス『さようなら コロンバス』

・ 穂村弘『短歌ください』

同名で『ダ・ヴィンチ』に連載の記事をまとめたもので、
読者からの投稿から優れた短歌を載せ、著者がコメントを附している。
選者が穂村弘だからか、はっとさせるような口語の短歌、
穂村弘っぽいものがほとんど。
気に入った歌をいくつかメモしておく。


 カーナビが「目的地です」というたびに僕らは笑った涙が出るほど
 君は君の匂いをさせて眠ってる同じシャンプー使った夜も
 たくさんの遺影で出来ている青い青い青い空を見上げる
 「ねえ起きて」ほっぺを軽くはたかれて思えばあれが最初のビンタ
 この空を覚えていようと誓った日そのことだけをただ覚えている
 ほんとうのこと(今日世界で死に果てた羽虫の総数など)を知りたい


共感できる一瞬や一主観を捉えた静画のような歌が多く、面白かった。
それにしても、素人とプロとの違いが透けるようだ。
両者の相違が曖昧だとしても、こうして比較が膨らむと一般性が見えてくる。

素人はやはり自分の体験に立脚していて、
そこから一般性が取り出されて共感や感動に至る。
プロはもう体験は薄い。
主題がすでに虚構の域にあって、アンチテーゼの位置から現実を貫通する。
そんなように、読んで感じた。
読みやすさという点では、むしろ素人の歌で秀逸なもののほうが勝ろう。


・ フィリップ・ロス『さようなら コロンバス』

ロスのデビュー作。描写が軽やかで爽やかだった。
ユダヤ人家庭の貧富、街の貧富と、
それを乗り越えようとする若い人々の意識されざる苦労が、
主題とは別のところで鮮やかだったように思う。

11.7.11

北條民雄『いのちの初夜』

彼の本名はわからない。
癩病患者が隔離されて社会的に生きられなかった時代で、
小説家=ジャーナリストとして隔離施設の内情を描こうにも、
本名を使うことは肉親のためにできなかった。

ハンセン病の患者がすでに人として死んでいて、
そこには単に生だけが生々しくある、という主題。
現代であれば差別的、当時の風潮は、云々の書評は不要。
例えば戦争文学だと思って読む、そうすれば別の見え方になろう。
そうやって透ける骨組みが、この小説の純粋に文学的な価値だ。

第三回芥川賞候補作に挙げられ、受賞は逃したが川端康成などから評価された。
室生犀星が「斯る作品はこの「いのちの初夜」一篇によつて
その文学使命を完了してゐる」と選評で云ったように、
小説というよりジャーナリストの取材のような傾向も多分に読める。
なお、その回の受賞は石川淳の『普賢』。

私も同じ理由で、この作品を知っていながらも長らく読まなかった。
しかし、今回ふと手に取って、面白く読んだ。
現状に屈しながらただ一つ屈せずに小説を書いている病の軽い佐柄木という青年が、
そのいやに光溢れる義眼が、この短篇で光っている。

山川元『東京原発』、フィリップ・ロス『父の遺産』

○山川元『東京原発』

福島原発事故以前の2004年の作だが、
この今観るとそのブラックユーモアが揃いも揃って現実の問題を揶揄している。

東京に原発を誘致しようという天馬都知事が、本気で誘致しようとしたのか、
それとも原発問題を都市の人間に考えさせるために突きつけた剃刀だったのか、
それは結局よくわからなかった。
ストーリー的には後者が次第にほの見えてくる真意、ということになるが、
そちらが前者の衝撃に比して弱く、結局はうやむやに記者会見を迎える。
この肚の見えない摑みどころのなさが、わかりやすい展開の中で唯一残り、
原発の、見えない放射能や利権構造を思わせる不穏さを覚えさせられた。

場所が会議室から、核燃料を積んだトラックをジャックした少年との戦いへ、
舞台が机上から溢れ出て手に負えなくなってゆくストーリー展開が面白いと思った。
爆弾を解体した知事の捨て台詞「この世に絶対なんてあってたまるか」が、
そのまま原発の安全性への疑問へと繋がる。

天馬という都知事の名字は、鉄腕アトムの生みの親の天馬博士からか、と思った。


○フィリップ・ロス『父の遺産』

ロスの父に脳の腫瘍が見つかってからの父と子をめぐる、
回想を織り交ぜた苦闘を描いたノンフィクション。
しかし読者にとってこの作品は小説以外のなにものでもない形状をしている。

この作品がフィクションをどの程度含んでいるか、読後に興味を持った。
この澱みなくストーリーの展開する書き口が、フィクションの文体なのかどうか。
もちろん、構成はあるだろう。回想により時間軸を超えることで、
小説の構成力は格段に向上する。
あるいは、父という強烈なキャラクターをめぐる思い入れの深い出来事には
ありとあらゆる意味や隠喩が自然と込められていて、
想像力が何ごとも未解釈のまま抛ってはおかないのか。
おそらく、物語とはそういうことなのだろう。
フィクションであろうとなかろうと、
解釈と構成がはたらけばそれは小説の形を取る。
そして、その語り手が現代アメリカを代表するフィリップ・ロスの文体である、ということだろう。

1.7.11

ミッシェル・ゴンドリー、レオス・カラックス、ボン・ジュノ『TOKYO!』

2008年公開、外国人監督による日本映画三作のオムニバス。
同年だったかに同じく東京を舞台にした黒沢清『トウキョウソナタ』が
あまりに現代日本的なステレオタイプな私小説的な文法で失望した反面、
外国人監督の手になる三作が(特に後半二作が)それぞれに新しさを帯びている。
いや、新しさというよりも、東京を、現代日本を描くにあたって、
"東京"という日本人にとって良くも悪くもかけがえのない都市の特有さを
一度括弧に入れるという行為ができるのは、国外からの視点だけだろう、
そう強く感じさせられた。

オープニングでは、東京のビジネス街、繁華街、住宅地といった
雑多に密集した高密度都市の影絵と雑音が響く。
我々の聞き慣れた都会の音だ。
なのに、このオープニングから強く感じるこのアジア的な東京の印象。
日本人の考える"東京"を括弧に入れるとは、
この80年代以降で急速に飾られたうわべの取り繕いを外すことで、
雑多な現実と洗練されたイメージの奇妙な同居と特異性、
それゆえ続くビジョンの欠如という原題の閉塞から抜け出すことだ。

三作の新軸とは、別段新しいわけではない。
我々にとって複雑で、捉えるにも手に負えなくなっている"東京"を
アジアのメガロポリスとしていとも単純に捉え、
むしろ50年代から60年代にかけてのような一見荒唐無稽なストーリーの
一舞台に仕立て上げてしまう試み、これがむしろ新しさだ。
いや、こんなことさえ新しく感じられるほどの
冒険やストーリーの欠如が問題なのだが。


ミッシェル・ゴンドリー「インテリア・デザイン」は、
東京の住宅事情と目まぐるしさに負けて自分が家具になってしまう話。

レオス・カラックス「メルド」は寓意的で、大島渚が撮りそうだと思った。
メルド(M. Merde=糞)は菊の花と紙幣を食べ、
旧日本軍の兵器の残留する地下道に住み、
日本人を罵倒して絞首刑に処せられる。

ボン・ジュノ「シェイキング東京」は、
誰もがひきこもるという単純な世界観と、地震が取り持つ関係性が、
わかりやすくスピーディーな展開で、楽しめた。

ジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』

筆生のバートルビーが"I would prefer not to."という有名な科白とともに
仕事をしなくなる、という、メルヴィルの短篇の主題の不思議さに対する評論。
こういったタイプ型のカフカ的世界の小説は、
○○の寓意とする乱暴な読解はなんでもできる。タイプ型で何でも入るから。
そしてその際限のなさに、そういった読解の無意味さを見出だす。

アガンベンはバートルビーの主題をそのまま丁寧に解きほぐす。
書かない者が、書くことを職業とする筆生であり続けるという、
自己矛盾的な状態を、アリストテレスの潜勢力という考えから拡げてゆく。
ライプニッツのいう様相の諸形象は、次の通りだが、


 可能的なものとは存在することができる何かである。
 不可能なものとは存在することができない何かである。
 必然的なものとは存在しないことができない何かである。
 偶然的なものとは存在しないことができる何かである。


バートルビーは第四の形象でありながら、「むしろ」という決まり文句によって
偶然を必然に変えながら同時に筆生としての存在を抛棄する。
前期ウィトゲンシュタイン的にいえば、
言語による可能世界と現実世界の合間を生きるような、そんなありさまだ。
論理学への挑戦とでもいうべき「バートルビー」の主題を、丁寧に分析している。

文法的に非文とも思えるような決まり文句の分析も面白い。
どこを向いているかもわからないtoが、他の登場人物や読書を混乱させる。
非文が文学の可能性を拓く。近代以降、詩はそういった試みだ。
ランポーの«Je est un autre.»に代表されるように。
先月、オーギュスタン・ベルクも立教大学での講演会で、同じことを言っていた。
主語の曖昧さ、揺れ動くような主体という文法が、
ヨーロッパ中心主義を相対化している、と。