11.7.11

山川元『東京原発』、フィリップ・ロス『父の遺産』

○山川元『東京原発』

福島原発事故以前の2004年の作だが、
この今観るとそのブラックユーモアが揃いも揃って現実の問題を揶揄している。

東京に原発を誘致しようという天馬都知事が、本気で誘致しようとしたのか、
それとも原発問題を都市の人間に考えさせるために突きつけた剃刀だったのか、
それは結局よくわからなかった。
ストーリー的には後者が次第にほの見えてくる真意、ということになるが、
そちらが前者の衝撃に比して弱く、結局はうやむやに記者会見を迎える。
この肚の見えない摑みどころのなさが、わかりやすい展開の中で唯一残り、
原発の、見えない放射能や利権構造を思わせる不穏さを覚えさせられた。

場所が会議室から、核燃料を積んだトラックをジャックした少年との戦いへ、
舞台が机上から溢れ出て手に負えなくなってゆくストーリー展開が面白いと思った。
爆弾を解体した知事の捨て台詞「この世に絶対なんてあってたまるか」が、
そのまま原発の安全性への疑問へと繋がる。

天馬という都知事の名字は、鉄腕アトムの生みの親の天馬博士からか、と思った。


○フィリップ・ロス『父の遺産』

ロスの父に脳の腫瘍が見つかってからの父と子をめぐる、
回想を織り交ぜた苦闘を描いたノンフィクション。
しかし読者にとってこの作品は小説以外のなにものでもない形状をしている。

この作品がフィクションをどの程度含んでいるか、読後に興味を持った。
この澱みなくストーリーの展開する書き口が、フィクションの文体なのかどうか。
もちろん、構成はあるだろう。回想により時間軸を超えることで、
小説の構成力は格段に向上する。
あるいは、父という強烈なキャラクターをめぐる思い入れの深い出来事には
ありとあらゆる意味や隠喩が自然と込められていて、
想像力が何ごとも未解釈のまま抛ってはおかないのか。
おそらく、物語とはそういうことなのだろう。
フィクションであろうとなかろうと、
解釈と構成がはたらけばそれは小説の形を取る。
そして、その語り手が現代アメリカを代表するフィリップ・ロスの文体である、ということだろう。

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