27.5.12

古井由吉『杳子・妻隠』、森敦『月山・鳥海山』、アントニオ・タブッキ『遠い水平線』


 古井由吉『杳子・妻隠』

杳子の言うこと、行いが、ふざけているようなのに深刻で、
それに振り回されていると次第に呑まれ、異化がだんだんと効いてくる。
杳子という不思議が、レンズを歪める現実の閉塞への風穴が、
読後にさっと開かれている。
不思議系というような括りを強いるラノベのカテゴライズではない。
街の喧騒が、薄暗い曖昧宿が、住宅が、日常が、
ありのままであることを信じられなくなってくるような、そんな強迫感がある。

「妻隠」は、主題といい、
その周辺をオムニバス調に配置するエピソード群としての構成といい、
「円陣を組む女たち」に似ていた。


 森敦『月山・鳥海山』

ボロ寺の冬の吹雪、その厳しい気候に生きる老人の愉しみ。酒、出会い。
雪を踏んで道を作る苦行、大根ばかりの味噌汁の日々、見え隠れする朝日連峰。
ようやくの春の花ざかり。生の息吹き。…
この前近代的な生活に美を見出だす視点が、
死の山・月山が吹雪の間から見え隠れしながら、
寒中の生活を肯定し、理解しようとして神々しく棚上げにする。
小説という近代の文学形式が反近代に材を取り、その本質に近い精神分析を一切棄て、
散文とも似た形で、小説になっている。
深沢七郎が『楢山節考』でやった仕事だ。
だが、「『楢山節考』の物語は『月山』ではただの断片なのだ」と、小島信夫の解説が言う。
そのとおりだ。
中上健次とはちょっと違う。あれは神々しい人間が一人ずつぶつかりあう。
月山では、すべてを見下ろすご神体のような山があり、
その麓で人間が天国にあるように生きている。

生の営みの、瞬間ごとの美しさよ、とでもまとめてしまえば、
この作品の広さと深さは消えてしまう。
なんというのだろう、連歌から俳諧を切り離し、
十七文字の一度限りのレンズから森羅万象を視ようとした芭蕉と同じスタンスがあるように感じた。
「行く河の流れは絶へずして」の方丈記の視点とも通じている。


 アントニオ・タブッキ『遠い水平線』

意味に憑かれて意味を見出だすような、
『競売ナンバー49の叫び』の彷徨に似たプロットを感じた。
たぶん、この作品は彷徨そのものの愉しみにあるのだと思う。
後藤明生『挟み撃ち』のような、
導かれるものがあってそこに近づいているはずなのに…という境地。
だが読み進める私は残念ながら、最初の屍体の影から逃れられず、水平線の先は見通せなかった。

15.5.12

原武史『可視化された帝国』、トマス・ヴィンターベア『光のほうへ』、ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』

原武史『可視化された帝国──近代日本の行幸啓 [増補版]』

日本の天皇制ナショナリズムがどのように確立されていったかが、
明治・大正・昭和の行幸・行啓の詳細な実録とともに記述されている。
あとがきでは、東日本大震災での現天皇の被災地行幸が
さらに考察されている。

明治天皇は行幸を好まなかった。
大正天皇は、遅れた学習を取り戻す現地学習と健康のため、
皇太子時代から積極的に巡啓を行ったものの、
即位後は多忙に閉じこもらざるを得ずに体調を崩していった。
大正天皇は脳病というイメージの植え付けが行われるとともに、
昭和天皇が「現人神」の天皇イメージを確立させた。
──このような流れが論述されている。

明治期、天皇に匹敵するカリスマ性を持った本願寺法主や出雲国造の存在は、
天皇像が明らかに近代日本以降の官製品であることを物語る。
しかし、鉄道や市制など「文明開化」を行幸と結びつけることで、
天皇が新時代の君主であるとイメージづけた。
人前に出すぎた人間的な大正天皇の反省を受けて、
昭和天皇は姿を見せるがめったに言葉を話さないという崇高さを演出した。
面前での君が代斉唱と万歳三唱が一体感・昂揚感を生む。
この非言語的な手法は、満州国での非日本語話者の同化政策に
積極的に用いられた、と著者は指摘する。

鉄道とラジオによる時間的な支配も、推察されている。
いずれも分刻みという近代的な統一感の演出だ。
ただ、こちらは天皇制がそのように行ったというよりは、
時代の変遷が天皇制についてもそうさせたのではないか、と感じた。

つまり、日本的な天皇制ナショナリズムの本質は祭祀的昂揚感にあった。
(私は小泉元首相に関して同じ体験がある。
 人気絶頂にある2001年だったか、ニュータウンの駅前に来た彼を迎えたのは
 大量のミーハー連中と、それらがひた振る日の丸だった。
 演説の内容はまるで覚えていない。誰も覚えていないだろう。
 重要だったのは熱狂だった)

浅田彰が昭和天皇死去時「土人の国」と評した日本の一面は、
それとはまた違うと言えるのではないか。
昭和の終盤のあの異様な箝口令の雰囲気は
(私はまだ物心ついておらず見聞にすぎないが)、
それに従う建前と、ビデオ屋の空前の好況に現れた本音という
あからさまな日本人像ともいえる。
だが、その排他性はいったい何なのだろうか。
戦前・戦中には天皇が何ともわからないまま受け容れ、
戦後、天皇について不問に附したがために、
結局は天皇が何ともわからない奇怪な貴人になってしまったがための
臭いものに蓋をした口のつぐみではないだろうか。


 トマス・ヴィンターベア『光のほうへ』

母親から半ば養育を抛棄されて育った兄弟の物語。
どちらも人を愛する仕方があまりに不器用なために、
ストーリーが変になるが、それがまた寂しい。
光とは子供だ。
子供が大好きで、そこに自身の生きがいを求めるが、
暴力も麻薬も止められないで破滅してゆく、
この親と子の連鎖でもがき苦しむ様が、
けっこう救いのない蒼白なタッチで描かれる。


 ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』

カフェで、コーヒーをすすり煙草を喫う、
その合間の奇妙な時間を描いた連作。
しかも、そのうち2つほどは、コーヒーではなく紅茶を飲むという逸脱つき。
コーヒーと煙草で落ち着きたいんだけれども、
結局は話さずにはいられない、というような
孤独と繋がりの合間を揺れるような間(ま)が、面白い。

5.5.12

黒澤明『八月の狂詩曲』『まあだだよ』『乱』


黒澤明を立て続けに3本観た。
一本目は戦後45年の現在を舞台に戦争を描き、
二本目は昭和の、戦争どこ吹く風の師弟の心の交流、
そして三本目は戦国時代の血で血を洗う人間の愚かさをあぶり出す。
どれも黒澤映画のレイトワークに当たるカラー作品だが、
まったく毛並みが違って面白かった。


『八月の狂詩曲』

村田喜代子の芥川賞受賞作『鍋の中』が原作。しかし未読。

カラーだからか、田舎の広い日本家屋の奥行きも幅もある遠近感が黒澤映画とは、
どうにも信じられない序盤だった。
だが、主人公のおばあさんからすれば甥にあたるクラークが
ハワイから来日してからは、
心情のさざ波が景色と行動を伴って大いに流れてゆき、やはり黒澤映画だった。

長崎原爆への怒りと悲しみを知った子供たちと、
ハワイの親族に妙に気遣って長崎原爆を過去に流そうとする親たちと、
その間を埋めるように、来日後のクラークの
「あなたたちなぜ、おじさんのこと言わなかったですか?
 おじさんのこと聞いて、みんな、泣きました」という科白が、
社交辞令にまみれて本音を出せない日本人の醜態を
もっとも純粋な水で洗い流して露出させるようだった。

夜の雷雨を原爆と取って子供たちを守ろうとする姿、
その後の風雨の中で長崎市街へ一身に向かう姿が、
戦争と原爆はまだ終わっていないと気づかせる。


『まあだだよ』

内田百閒とその教え子たちの交流の物語。
ホームドラマの旧制高等学校版というか、今はなき師弟の絆といった内容。
回顧的なのは否めないが、それでも楽しめた。

結果的に、黒澤明の遺作となった。
それがどこかしら小津っぽいというのは、老境か。
カラーだが『八月の狂詩曲』のような舞台の広がりはなく、
やはり映画セット感があって、そこに収まってすべて動いている。
政治の時代を経て昭和が次第に果てて西暦になるよりもずっと前の、
昭和のまだあった時代の話だ。


『乱』

合戦の描写と動員人数がすごい。
鉄砲玉や矢を受けて落馬するシーン、死屍累々たる城のざまが、
人の業をとくと視よとばかりにカットカットで入ってくる。
一文字秀虎の老人っぷりがすごい。序盤のいきり立ちと、後半の呆けっぷりと。
あと、ロケ地の風情。日本とは思えず、モンゴルかどこかかと思っていたが。

黒澤明の時代物は、『七人の侍』も『蜘蛛巣城』も『隠し砦の三悪人』も、
どれも本当の時代劇ではない。
外部がなく、舞台が閉じていて、登場人物も家柄も架空だ。
この『乱』に至っては、一郎と二郎と三郎の兄弟争いという、
譬え話並みに安直な最初の設定だ。
そうして世界を囲った時代物と、時代の素性が舞台に入り込んでくる現代のものと、
黒澤は前者で名をなした(特に海外で)ものの、
後者のほうが撮りたかったのではないか。
もっとも、黒澤映画では後者をより好む私の希望なのかもしれないが。

4.5.12

アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』、黒澤明『静かなる決闘』


 アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』

真作と贋作の間についてが主題。
小林秀雄の「真贋」を読んだばかりだったので、
自分としてもタイムリーだった。

作品は、講義が全編、後半が演習、とでもいうべきか。
カフェで女主人に夫婦と間違われてからが演習編。

「贋作」という言葉が歪めているけれど、
真意としては、理想と現実の溝と飛躍がそこにはあるのではないか。
女は惹かれた夫(役)との倦怠感のある後ろ向きな幸福に浸り切り、
男との会話に使っていた英語ではなく
前夫との言葉だったであろう母語のフランス語で話す。
男はそれにフランス語で付き合いながら、
付き合い切れないというように英語も垣間見せつつ、
それでもいたわるようにでっち上げに付き合い続ける。
女はでっちあげの過去を懐かしく覚えていて、男は忘れている。
15年の長きを経た夫婦の間の愛の形が、これは本当らしい姿をして、
哀しく横たわっているように思われた。
二人で手を取り合って辿った過去よりも、
今のいたわりあいこそが愛だ、とでも言いたげに。

オールビーの『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』を連想した。
これは本物の夫婦が口喧嘩の上で想像上の息子を殺す話だ。
本物の夫婦だからこそ付き合わざるを得ない過去に嘘を塗り、
相手を出し抜こうとする、これは夫婦のほだしをあぶり出した物語だった。
さらには、人間存在の本質が部分的に嘘で語られているという悲哀も。
『トスカーナの贋作』はその逆で、そこに救いと始まりを見出だす。


 黒澤明『静かなる決闘』

最後のクライマックスで中田が乗り込んできて果てるシーンは、
映画としての見どころとしても、物語の絶頂としても、本当に面白かった。
身ごもった元ダンサーからシングルマザーの看護婦として前を向いて生きる峰岸が、
もう一人の主人公として輝いていて(教養小説的だが)、これもよかった。
だが、何よりも良いのは、若先生・藤崎の人間的葛藤が感情的にぶちまけられるところ。

黒澤明はその作品数からしてストーリーメーカーで、
しかもその多くが、一つの悪や一つの取り返しのつかない過去をめぐる浄化だ。
(『悪い奴ほどよく眠る』はもっともえげつない社会の一面、
 『生きものの記録』はもっとも救いがたい人間の尊厳の危機で、
 ともに浄化されないまま観客の中にしこりとして残るが。)
場面を作るというより、テーマを立て、配役を周りに置きながらストーリーを考えて、
その上で場面が作られて、という生成を、この作品からは強く感じた。
『生きる』はあまりそんな感じはしなかった。
この作品のような群像劇ではなかったからだろう。

3.5.12

木村祐一『ニセ札』、黒澤明『羅生門』


 木村祐一『ニセ札』

戦後間もなくの実際の事件を材に取った映画。
貧困からの偽札造りということだったが、その貧困さの描かれ方が
切羽詰まった内容ではなく、むしろささやかな欲求にすぎないというところが、
結局は戦後60年以上隔たった現在の戦後状況への想像力の限界なのか。
むしろ、村ぐるみの偽札偽造事件が戦後数年で起きていたことのほうが驚き。
終盤、小学校教師のかげ子が、札は本物でも偽物でも所詮紙切れ、と言ってから
息子が裁判所に参入して本物と偽物の紙吹雪で幕を閉じるというところは
シリアスさとコミカルさの絶頂で、面白かった。

全体としては、ストーリーがリニア(直線的)に思われた。
写真屋がいて、印刷工がいて、村をまとめる信頼ある小学校教師がいて、
資産家と言い出しっぺがいて、そして偽札偽造への物語。


 黒澤明『羅生門』

人の姿をありのままに曝け出すようなこういう映画こそ、観たかった。
キャラクターとかストーリーが走るのではなく、人が透ける機構こそ文学だと思う。

赤ん坊が現れてから、追い剥ぎ、泥棒、そして不信が祟り目のように続いた上で、
ようやく雨が上がって人が人を信じる和解が生まれたときの一筋の救いが、
まだ無垢の赤ん坊を抱きながらまっすぐ前を向いて歩く志村喬の姿が印象的。
序盤で藪の中を歩く姿に、つまり振り出しに戻っただけなのかもしれないが、
それでも、嘘の多重を踏み越えた一つの無垢の信念を
抱きかかえているという決定的な相違がある。

小林秀雄『モオツァルト・無常という事』、ガス・ヴァン・サント『永遠の僕たち』

小林秀雄『モオツァルト・無常という事』

五感を研ぎ澄ませて感じた、というままのよう。
自分が読んできた読書遍歴は、惰性だったんではないか、という気負けすら感じた。
「実朝」では、源実朝の万葉調といわれるほのぼのとした景色に嘆じ、
しかし「光悦と宗達」では、古今・新古今の形式美をも抱きかかえる。
作者の生い立ちや時代、心情を大いに含んで論じながらも、
感受することをただただ希求して、評論は語られる。
この愚直さ。よって、読後に実物に触れたい気分に駆られる。

それにしても、自分はそこまで純朴になれない。
萬葉集の普遍性はわかるが新古今調のほうに嘆じられるし、
モーツァルトよりプロコフィエフやバルトークのほうが好きだ。


 ガス・ヴァン・サント『永遠の僕たち』

骨格から細部まで、至るところに「死」のテーマが散りばめられている。
余命数ヶ月の準主役の存在は、ストーリーの躍動には欠かせないけれど、
生と死のテーマの客体がそれだけにとどまらないのが良い。
特攻隊として死んだ日本兵の幽霊、両親を交通事故でなくした主人公と、
死を抱え込んだ三者が搦みあう。

死をどう受容するかについて、この映画はあまり多くは語らない。
だから、死にゆく者との生の瞬間々々をカラフルに描き出すシーンは、
フラッシュバックのように断片的なカットでのみ流される。
その意味では、ストーリーらしさはないといえるかもしれない。
だが、死をストーリーでやすやすと受け容れて処理してしまってよいものか。
そういった、死への尊厳からの問いがあるように思われた。