原武史『可視化された帝国──近代日本の行幸啓 [増補版]』
日本の天皇制ナショナリズムがどのように確立されていったかが、
明治・大正・昭和の行幸・行啓の詳細な実録とともに記述されている。
あとがきでは、東日本大震災での現天皇の被災地行幸が
さらに考察されている。
明治天皇は行幸を好まなかった。
大正天皇は、遅れた学習を取り戻す現地学習と健康のため、
皇太子時代から積極的に巡啓を行ったものの、
即位後は多忙に閉じこもらざるを得ずに体調を崩していった。
大正天皇は脳病というイメージの植え付けが行われるとともに、
昭和天皇が「現人神」の天皇イメージを確立させた。
──このような流れが論述されている。
明治期、天皇に匹敵するカリスマ性を持った本願寺法主や出雲国造の存在は、
天皇像が明らかに近代日本以降の官製品であることを物語る。
しかし、鉄道や市制など「文明開化」を行幸と結びつけることで、
天皇が新時代の君主であるとイメージづけた。
人前に出すぎた人間的な大正天皇の反省を受けて、
昭和天皇は姿を見せるがめったに言葉を話さないという崇高さを演出した。
面前での君が代斉唱と万歳三唱が一体感・昂揚感を生む。
この非言語的な手法は、満州国での非日本語話者の同化政策に
積極的に用いられた、と著者は指摘する。
鉄道とラジオによる時間的な支配も、推察されている。
いずれも分刻みという近代的な統一感の演出だ。
ただ、こちらは天皇制がそのように行ったというよりは、
時代の変遷が天皇制についてもそうさせたのではないか、と感じた。
つまり、日本的な天皇制ナショナリズムの本質は祭祀的昂揚感にあった。
(私は小泉元首相に関して同じ体験がある。
人気絶頂にある2001年だったか、ニュータウンの駅前に来た彼を迎えたのは
大量のミーハー連中と、それらがひた振る日の丸だった。
演説の内容はまるで覚えていない。誰も覚えていないだろう。
重要だったのは熱狂だった)
浅田彰が昭和天皇死去時「土人の国」と評した日本の一面は、
それとはまた違うと言えるのではないか。
昭和の終盤のあの異様な箝口令の雰囲気は
(私はまだ物心ついておらず見聞にすぎないが)、
それに従う建前と、ビデオ屋の空前の好況に現れた本音という
あからさまな日本人像ともいえる。
だが、その排他性はいったい何なのだろうか。
戦前・戦中には天皇が何ともわからないまま受け容れ、
戦後、天皇について不問に附したがために、
結局は天皇が何ともわからない奇怪な貴人になってしまったがための
臭いものに蓋をした口のつぐみではないだろうか。
トマス・ヴィンターベア『光のほうへ』
母親から半ば養育を抛棄されて育った兄弟の物語。
どちらも人を愛する仕方があまりに不器用なために、
ストーリーが変になるが、それがまた寂しい。
光とは子供だ。
子供が大好きで、そこに自身の生きがいを求めるが、
暴力も麻薬も止められないで破滅してゆく、
この親と子の連鎖でもがき苦しむ様が、
けっこう救いのない蒼白なタッチで描かれる。
ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』
カフェで、コーヒーをすすり煙草を喫う、
その合間の奇妙な時間を描いた連作。
しかも、そのうち2つほどは、コーヒーではなく紅茶を飲むという逸脱つき。
コーヒーと煙草で落ち着きたいんだけれども、
結局は話さずにはいられない、というような
孤独と繋がりの合間を揺れるような間(ま)が、面白い。
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