4.5.12

アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』、黒澤明『静かなる決闘』


 アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』

真作と贋作の間についてが主題。
小林秀雄の「真贋」を読んだばかりだったので、
自分としてもタイムリーだった。

作品は、講義が全編、後半が演習、とでもいうべきか。
カフェで女主人に夫婦と間違われてからが演習編。

「贋作」という言葉が歪めているけれど、
真意としては、理想と現実の溝と飛躍がそこにはあるのではないか。
女は惹かれた夫(役)との倦怠感のある後ろ向きな幸福に浸り切り、
男との会話に使っていた英語ではなく
前夫との言葉だったであろう母語のフランス語で話す。
男はそれにフランス語で付き合いながら、
付き合い切れないというように英語も垣間見せつつ、
それでもいたわるようにでっち上げに付き合い続ける。
女はでっちあげの過去を懐かしく覚えていて、男は忘れている。
15年の長きを経た夫婦の間の愛の形が、これは本当らしい姿をして、
哀しく横たわっているように思われた。
二人で手を取り合って辿った過去よりも、
今のいたわりあいこそが愛だ、とでも言いたげに。

オールビーの『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』を連想した。
これは本物の夫婦が口喧嘩の上で想像上の息子を殺す話だ。
本物の夫婦だからこそ付き合わざるを得ない過去に嘘を塗り、
相手を出し抜こうとする、これは夫婦のほだしをあぶり出した物語だった。
さらには、人間存在の本質が部分的に嘘で語られているという悲哀も。
『トスカーナの贋作』はその逆で、そこに救いと始まりを見出だす。


 黒澤明『静かなる決闘』

最後のクライマックスで中田が乗り込んできて果てるシーンは、
映画としての見どころとしても、物語の絶頂としても、本当に面白かった。
身ごもった元ダンサーからシングルマザーの看護婦として前を向いて生きる峰岸が、
もう一人の主人公として輝いていて(教養小説的だが)、これもよかった。
だが、何よりも良いのは、若先生・藤崎の人間的葛藤が感情的にぶちまけられるところ。

黒澤明はその作品数からしてストーリーメーカーで、
しかもその多くが、一つの悪や一つの取り返しのつかない過去をめぐる浄化だ。
(『悪い奴ほどよく眠る』はもっともえげつない社会の一面、
 『生きものの記録』はもっとも救いがたい人間の尊厳の危機で、
 ともに浄化されないまま観客の中にしこりとして残るが。)
場面を作るというより、テーマを立て、配役を周りに置きながらストーリーを考えて、
その上で場面が作られて、という生成を、この作品からは強く感じた。
『生きる』はあまりそんな感じはしなかった。
この作品のような群像劇ではなかったからだろう。

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