29.4.08

アメリカの51番目の州としての日本

日本はアメリカの51番目の州だから、などとうそぶく声がちらほら。
しかし、それは本当に悲嘆なのか?
だが私の異見では……もしそうなれば天国じゃないか!

理由は簡単、アメリカの人口が約三億、日本の人口が一億三千万。
下院の代議士の40%以上が日本で選出されることになり、
日本州の影響力の大きさはえらいことになる。
一州にかくも大きな権力が集中してはたまらんと、
いくつかの州に分割されたとしても、
されればされるだけ、今度は上院の影響力が増すことに。
こうして、立法権は日本列島がいただく。

司法は、アメリカ人には理解不能なほどに慣習が違うということで、
勧告を受けて法律を書き換えさせられるか、
自治が拡大されるかだが、
日本の官僚は本質的に八方美人なので、
慣習と成文化の間で堂々巡りになるだろう。
そうして、アメリカ中央と日本官僚の我慢較べのようになる。
でも最高裁はアメリカ中央のものなので、
結局は日本も訴訟天国の様相を呈することになるだろう。
司法権はアメリカの勝ちだ。
ただし、アメリカは無口ないいなりの日本を求めていて、
なんでもかんでも訴えるような日本になることを避けようと、
司法権は完全に自治として認めるかもしれない。
いや、そのほうが確率は高いかもしれない。

行政はもっていかれるだろう。
小泉圧勝からわかるとおり、
長いものに巻かれやすく、宣伝にころっと騙される日本民衆など、
アメリカの大統領選ではちょろいもんである。
しかし、人口の40%強を占める日本州がほぼ勝敗を決するため、
次第にわがままになって他の50州を操る位置に上るかもしれない。

最後に、軍事。
せっかくの憲法に反して再軍備論の根強い意見と、
アジアを押さえる絶好の地理を生かそうとする米軍の意図が一致し、
日本は列島全体が沖縄状態になることは間違いない。
もちろん、中国と北朝鮮の動向を慮って、ゆっくりやるだろうが。
高い技術力に後付けされた永久軍需のような状態になって、
経済的にはウハウハになるだろう。
ボーイングやらが拗ねて少しシェアをピンハネされるだろうが、
新興需要なのだから間違いなく潤う。

以上の考察(笑)により、
もし日本がアメリカの州になれば、
香港の資本主義が大陸中国の社会主義を換骨奪胎したように、
喰われた日本がアメリカを操れる。
ただし、そうなると大陸アメリカ側に不利なので、
併合はないものと思われる。
経済的に依存状態にある中国との関係悪化を避けるため、
したくてもできないし、
すでに財政を圧迫している軍事予算がもっと悪化するなら、
独自予算で北朝鮮などアジア諸国を見張っている日本軍は
そのまま保持しておきたい。

結論:
日本はアメリカの保護領か、よくて準州。

28.4.08

フランスで再流行の予感


なぜかえろっちいゲッツ!

……冗談はさておき、日本では黄金週間ということで、
大聖堂前でも日本語を話す人々が散見される。
次の第一日曜日には絶対に大聖堂に登ろう。

25.4.08

宇宙は何でできているんだっけ?

前、ノルマンディーに旅行に行く前日、というか当日深夜、
ふと駆り立てられるように書いて中断した内容を、
もう忘れてしまった。

なので、今、いい加減に接ぎ木して書く。
というか、私が書くようなことなど何もなくて、
用はアンダーソンとかルーマンとか読めばいいだけ。
なので、やっぱりやめた。

ノルマンディーで心に残ったことのうちの一つ。
カルヴァドス県カン市郊外のノルマンディー上陸作戦記念館に行った。
総力戦、というものの凄まじさを初めて目の当たりにした。
学校での学習は、それは単なる歴史全図の中での解釈だから、
資料の羅列から自分の頭の中で再構築するのとは訳が違う。
第二次世界大戦とは、窮鼠猫を噛むような尊王攘夷の狂気が
連合国に負けた、という一転換点およびその悲劇群と考えていた。
だが、どうやらそうではないらしい。
尊王攘夷であれハイル・ヒットラーであれ、
それは第二次大戦の中枢を占めない、
単に民衆を巻き込むための宣伝材料だ。

言い換えれば、
ファシズム国が暴走しはじめたから連合国が打ち負かしたのではなく、
連合国にも尊王攘夷と同様の狂気があった。
アンチ・ファシズムとアンチ・ボルシェヴィキの恐怖である。
後付けの論理に筋が通っていようがいまいが、
その当時の受容がスローガンであり恐怖心であれば、
それは狂気として、自ら死へと駆り立てる原動力となる。
二つの対立する狂気がぶつかった戦争こそが、総力戦だ。
総力戦とはつまり、産業と生活すべてを費やされた戦争ではない。
むしろ、相手方への嫌悪と排除の願いが
生命を越えて第一義の目的になっている状態にこそ本質がある。

どうしてそう思うに至ったかというと、
記念館には、気運昂揚のためのおびただしい資料があったからだ。
枢軸国がそうだとは、学校で習ったが、
連合国までもそうだと気づかされたのは初めてだった。

ただし、記念館には重大な欠陥が二つあった。
一つは、アメリカを英雄視していること。
Jour J(英語名:D Day)がアメリカの支援なくして立たず、
それを記念する博物館なのだから、当然ではあるが。
二つ目は、イギリスやフランス内でもファシストの動きがあった事実に
言及されていなかったこと。
二項対立の図式から対戦の流れを容易にするためかもしれないが、
これはフェアではない。

第二次大戦は、通貨ブロック間の戦いであって、
ファシズムか反ファシズムかは、それを二チームに括り上げるための
最終決定機能でしかない。
ファシズムは通貨ブロックの拡大を意図して起こった。
反ファシズムだから立派な国というのではなくて、
既に広大なブロックを得ていた国だからこそ
ファシズムへ傾倒する前に考える余裕があった、というだけだ。

こんな議論もさることながら、
記念館でもっとも衝撃だったのは、30分ほどのドキュメンタリー映画だ。
前半は画面を二分して攻撃側と防御側の両方からみたJour Jの映像。
後半は、上陸からノルマンディー解放にいたるまでの
アメリカ軍礼讃だ。
後半は、映像と画像のほかはどうでもよかった。
前半は10分ほどだったが、涙が出た。

両軍、淡々と攻撃に備え、そして爆撃と銃声の下、人が死んでゆく。
すべて終わり、野原に所狭しと並んだ、無数の白い十字架。
その一つずつに、抱えきれないくらい家族も思い出も未来もあったのに、
みなひとまとめにされて同時に絶たれた。

24.4.08

最近観た映画

・ペンエグ・ラッタナルアーン『地球で最後のふたり』
理由はわからないけれど好きになった。
理由を探すためにもう一度以上観なければならない。
嬉しい義務だ。

・大島渚『御法度』
新解釈の新撰組だが、新撰組は単なるフレームワーク。
みんなみんな大まじめに変態で、大爆笑した。
それでいて色づかいの綺麗なところはさすが巨匠だ。

・庵野秀明『ラブ&ポップ』
日常の彷徨からその果てにある小さな出会いと変化という
『ライ麦畑でつかまえて』『赤頭巾ちゃん気をつけて』の類型だが、
カメラワークが斬新で、
無造作に切り取られた都会の景色を楽しんだ。

この最近の三本で、浅野忠信のファンになったかもしれない。
『アカルイミライ』『座頭市』『地雷を踏んだらサヨウナラ』
でも、観ている俳優だと知った。
こういうとき、Wikipédiaは便利だ。
データベースとして。

今日

一年経った。

わー。

19.4.08

ニュース雑感

・Jパワー株買い増し中止勧告

日本の資本主義がまだまだ見かけ倒しであることの露見とみる。
バブル後から、企業同士の株の持ち合いなどはだいぶ減ったが、
会社が株主を選ぶのが厭ということが平気で云える国は、
善し悪しは別にして、資本主義ではない。
というか、日本は社会主義なのではないかとすら思う。
事実、誰が云ったか忘れたが、高度経済成長は非常に社会主義的だし、
社会主義と云えばの代表格中国の資本主義化の凄まじさを見ていると、
民営化のやり方がうまいのは明らかに中国だ。
ここで反感を覚えるなら、自分で調べてみなされ。
で、それでもやはり国策企業なのだから勧告は正しいというのなら、
株式を公開しなければ良かっただけの話。


・食糧難とジャガイモ

小麦やトウモロコシなど食糧の価格高騰はインフレといってよい。
例えばフランスのストラスブールでは、
去年九月に最安で0.60ユーロだったスパゲッティー1kgが
今は1ユーロに届こうとしていて、
同じく、食パン500gは0.40ユーロ→0.65ユーロ、
牛乳も1.5倍以上に騰がっている。
そんな日々、ロイターで見つけた記事によると、
世界的食糧難の現代、ジャガイモが救世主になるかもしれない。
ただしジャガイモには世界的な市場がなく、
一定の価格がないということらしい。
私見だが、ここで調子に乗ってジャガイモを国際市場で取引し始めると、
地球環境変動と人口爆発から推して投機チャンスとされ、
先物のような信用取引あたりからぐいぐい価格が上昇するのではないか。
救世主と思っていたが一気に値段が騰がってしまう、
ミイラ取りがミイラになってしまうというわけだ。


・世界のソブリン・ウェルズ・ファンドの運用額が急増

SWFで有名どころは、古株テマチクや最近目立つオイルマネーだが、
それはよいとして、中国に次いで二位になったものの
まだまだ巨額な外貨準備をどうにかしないと、
そのほとんどをドルで持っている限り、
せっかく汗水垂らして国民が納めた血税を
どんどんドル安に比例して失ってゆく、という事実が気になる。
代議士の一部に、日本もSWFを、という声があるようだが。
今や外貨準備高一位を誇る中国は、
市中の元が増えてインフレ管理できなくなっちゃうということで
SWFのなんとか投資公司を急ごしらえしたが、
ノウハウのなさのせいでうまくいっていないようだ。
そうでなくとも年金の運用もへたでどんどん目減りさせている日本が、
SWFなんて器用なことできるとは到底思えない。
なお、SWFの運用額増加はというと、
ドル安が他の金融資産の相対的上昇として現れただけに思われる。
原油額上昇も、ドルの信用低下にほかならず、
この際、基軸通貨をドルなんていう紙切れではなく、
石油なりトウモロコシなりにしてしまえばと思う。
縦軸のドルとグラフ状の曲線の石油価格を逆にして、
計算上で石油を基軸としてドル価格の変動を見たら、
ドル安がいかに凄まじいかわかろうというもの。
そういえば、マイナスの価値を持つ二酸化炭素排出権を
基軸通貨にしてみたら、という、思考のヒントのような記事を、
日経ビジネスオンラインで読んだことがあった。
あれは、なかなかおもしろかった。

17.4.08

宇宙は何でできているか

以下は完全に雑記である……
だから、journal en miettesってタイトルの下に書いたのだけれど。

宇宙は何でできているか。
物質でもなければ反物質でもない。
事実、宇宙ができてほんのわずかな間に物質と反物質はぶつかり合い、
ほんの偶然によって優越した物質が勝った、というだけ。
にもかかわらず、宇宙に物質が満ちていようなど前提するとは!

宇宙は物語でできている。
詩的でかっこいいでしょ。
学問的に云うならば、宇宙は情報によって構成される、かな。

歴史とは何か、という問題に突き当たる。
歴史とは、時間の不可逆性によって
可能世界から峻別された、一本の現実世界である。
重要なのは不可逆性だ。
一度定められてしまえば勝ちという単純な二項対立を生む。
ある一時点はその一つ前に依るので、
一つのものが急変せずに形をとどめやすい。
個人も組織も国も社会も、そうやってアイデンティティーを保つのだ。
前から存在していたから、という、詐欺みたいな存在理由、
それをもっともらしく肉付けしているのが歴史、ということになる。

……話はここから、社会の自己生成的性質へと続き、
エントロピーを糞味噌に援用しながらメディアの社会的意義に至る。
だが、明日の朝はなんと5時40分に起床しなければならないというのに、
今は深夜の1時半。
てなわけで、寝ます。

補注。
宇宙は少なくとも7以上の奇数次元だ、と聞いたことがあるから、
時間の不可逆性に拠るのは間違っているよ、という御仁には、
棲んでいるこの世界をそんなどえらい多次元そのままの姿で
感知しているのかと問いたい。
人間が自由なのはどうしても三次元までで、
理論的に多次元であっても仕方がないじゃないか。
そのギャップを埋めるのが哲学、認知科学なのでしょうが。
どんなに素晴らしい本だけが机に置かれていたからといって、
読まれて解されなければ無意味なのですよ。

14.4.08

ある作家の死

偶然訪れた文藝評論家の富岡幸一郎のブログで知ったのだが、
小川国夫が四月八日に亡くなったらしい。

追悼。

初めて読んだのは高校一年のときだったか、二年のときだったかで、
静かで陰翳のある地中海の風景を憶えているから、
おそらく『アポロンの島』だろう。
『或る聖書』も手に取ってみたが、どちらも難しかった、
というか、独特のキリスト教的な世界観がアホの高校生には理解できなかった。
それでも、譬喩の臨場感には圧倒された。

文芸誌では追悼特集が組まれるんだろうか。
これを期に、ちょっと手に取ってみようか。
問題は、小川国夫って新刊本屋にはほとんどないこと。
講談社の文芸文庫にはあるかもしれないけれど、あれは高すぎる。

話戻って、富岡幸一郎のブログ、おもしろい。
RSSリーダーに登録しておこう。

12.4.08

ジュラで考えたこと 2

和辻哲郎の『風土』を読みつつ、
ヨーロッパをWiese(牧場)とみる洞察には、
そのヨーロッパにいながらにして驚かされる。

牧場としてのヨーロッパは低湿に起因すると和辻は云う。
実感としては妥当に思われる。
私がストラスブールおよびパリで驚いたうちの一つに、
雨が降っても、あまりまじめに濡れまいとしないことだ。
着ているものにフードがあればそれをかぶり、
なければないで濡れるにまかせる。
半分冗談と思うが、濡れると頭髪に良いと思っている人も少なくないとか。
彼らにとって、小雨程度でもすかさず傘をさす日本の風景は、
さながら過敏症のような印象を与えるに違いない。

ただし、一度傘のないときに雨に降られてみるとわかるが、
ここの雨は「湿気ていない」。
矛盾した表現だが、云い得て妙だと思っている。
四月のような雨がちで霧も出るような時期で
ない限り、
降雨はあまり持続せず、粒が小さく、湿度上昇を伴わない。
ヨーロッパの雨はこういうものである、
これがフランス生活のなかで発見した帰結だった。
だから和辻が云うように、野は牧草で覆われ、雑草も苔もない。

しかし、ジュラはそうではなく、
例えば森を散策すれば木の幹は苔に覆われ、
日本ほどではないがススキのようなぼうぼうの草が散見される。
そして重要なのは、湿気ているということだった。
四月だからかと思ったが、一時的だけなら苔はこうは生さない。
写真はRevignyの村からすぐに歩いてゆける山道の脇で、
森の奥深くはないために木々は細いが、
BoissiaからClairvauxの湖に抜ける森は、
さながら箕面の山にいるような感覚を受けた。


ジュラの実家に招いてくれた友人に訊くと、
やはりこのあたりは湿気ているのだという。
もちろん、モンスーン型というわけではないだろうから、
少し湿気ていようとも気候が日本のようになるはずはないけれど、
フランスでかくも苔の生えた土地があると知っただけで、
自分にとっては発見だった。

10.4.08

ジュラで考えたこと


ポーランド系フランス人の友人の実家に、留学生四人で遊びに行った。
ストラスブール駅からコライユで三時間半揺られ、
ジュラ県の中心都市ロンス=ル=ソニエ(Lons-le-Saunier)の駅で下車。
友人の母と義父の運転する車にそれぞれ乗り込み、
人口300人ほどの村ルヴィニ(Revigny)にある彼の実家へ。
15時過ぎの昼食にラクレットを頂く。



日本の地形を「列島に太い山脈が一本」と乱暴に概観するなら、
フランスは「東から西へとなだらかに傾斜する六角形」といったところ。
その頂上のあたるジュラ山脈が、いうまでもなく県名の由来。

寝泊まりしたのはルヴィニではなく、
そこから車で10分弱のボワシア(Boissia)。
友人一家は避暑地として使用するため、
まだ寒い春の四日間、我々のものになった。
他に訪れた村は、ボーム=レ=メッシゥー(Baume-les-Messieurs)、
シャトー=シャロン(Château-Chalon)、
クレルヴォー=レ=ラック(Clairvaux-les-Lacs)。

それぞれ三者三様の景色と地形に位置するが、
重要なのは、どれも日本語の市町村の「村」ではない。
「集落」である。
フランスにはおそらく日本の行政区分の「村」は存在しなかろう。
それぞれの集落が村である。もちろん村ごとに村役場がある。
建物は一般の住居と見分けがつかず、
Mairieと書かれていないと役場とはわからないが。

たとえば平成の大合併なんてものはフランスでは想像できなかろう。
規模がどうであれ家の集まりの一つが市町村である。
見たままの原理が行政区分に敷衍されている。
ただし、大きすぎるものはいくつかに分割する。
自治が弊害されないようにするためだ。
日本の市町村は、そうではない。
ある程度の面積で括り、市なり町なりとして「まとめあげる」。
フランスの村は、日本で云うなら字(あざ)に当たろうか。
ただし、それぞれの字には役所はない。
何か手続きがあれば、車を飛ばして役場に行かねばならない。
どちらが地方分権的だろうか。
地方住民への配慮をしているのはどちらだろうか。