25.4.08

宇宙は何でできているんだっけ?

前、ノルマンディーに旅行に行く前日、というか当日深夜、
ふと駆り立てられるように書いて中断した内容を、
もう忘れてしまった。

なので、今、いい加減に接ぎ木して書く。
というか、私が書くようなことなど何もなくて、
用はアンダーソンとかルーマンとか読めばいいだけ。
なので、やっぱりやめた。

ノルマンディーで心に残ったことのうちの一つ。
カルヴァドス県カン市郊外のノルマンディー上陸作戦記念館に行った。
総力戦、というものの凄まじさを初めて目の当たりにした。
学校での学習は、それは単なる歴史全図の中での解釈だから、
資料の羅列から自分の頭の中で再構築するのとは訳が違う。
第二次世界大戦とは、窮鼠猫を噛むような尊王攘夷の狂気が
連合国に負けた、という一転換点およびその悲劇群と考えていた。
だが、どうやらそうではないらしい。
尊王攘夷であれハイル・ヒットラーであれ、
それは第二次大戦の中枢を占めない、
単に民衆を巻き込むための宣伝材料だ。

言い換えれば、
ファシズム国が暴走しはじめたから連合国が打ち負かしたのではなく、
連合国にも尊王攘夷と同様の狂気があった。
アンチ・ファシズムとアンチ・ボルシェヴィキの恐怖である。
後付けの論理に筋が通っていようがいまいが、
その当時の受容がスローガンであり恐怖心であれば、
それは狂気として、自ら死へと駆り立てる原動力となる。
二つの対立する狂気がぶつかった戦争こそが、総力戦だ。
総力戦とはつまり、産業と生活すべてを費やされた戦争ではない。
むしろ、相手方への嫌悪と排除の願いが
生命を越えて第一義の目的になっている状態にこそ本質がある。

どうしてそう思うに至ったかというと、
記念館には、気運昂揚のためのおびただしい資料があったからだ。
枢軸国がそうだとは、学校で習ったが、
連合国までもそうだと気づかされたのは初めてだった。

ただし、記念館には重大な欠陥が二つあった。
一つは、アメリカを英雄視していること。
Jour J(英語名:D Day)がアメリカの支援なくして立たず、
それを記念する博物館なのだから、当然ではあるが。
二つ目は、イギリスやフランス内でもファシストの動きがあった事実に
言及されていなかったこと。
二項対立の図式から対戦の流れを容易にするためかもしれないが、
これはフェアではない。

第二次大戦は、通貨ブロック間の戦いであって、
ファシズムか反ファシズムかは、それを二チームに括り上げるための
最終決定機能でしかない。
ファシズムは通貨ブロックの拡大を意図して起こった。
反ファシズムだから立派な国というのではなくて、
既に広大なブロックを得ていた国だからこそ
ファシズムへ傾倒する前に考える余裕があった、というだけだ。

こんな議論もさることながら、
記念館でもっとも衝撃だったのは、30分ほどのドキュメンタリー映画だ。
前半は画面を二分して攻撃側と防御側の両方からみたJour Jの映像。
後半は、上陸からノルマンディー解放にいたるまでの
アメリカ軍礼讃だ。
後半は、映像と画像のほかはどうでもよかった。
前半は10分ほどだったが、涙が出た。

両軍、淡々と攻撃に備え、そして爆撃と銃声の下、人が死んでゆく。
すべて終わり、野原に所狭しと並んだ、無数の白い十字架。
その一つずつに、抱えきれないくらい家族も思い出も未来もあったのに、
みなひとまとめにされて同時に絶たれた。

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