註。以下は単なるメモであり、まだ定まった考えではない。
実際、私は西尾維新はおろかライトノベル自体を読んだ経験は皆無だし、
初めて現在読んでいるものも、ライトノベルと文学の相違を明らめようとして
友人から借りたうちの一冊にすぎない。この小説を、仮にAとする。
この小説の特徴としては、「行動」を補助線として用いることが有用である。
文学において言葉はすなわち行動である。
行動は言葉の推論によって導かれ、次の行動=言動へと連なる。
言葉が小説の直接の構造体だからだ。
Aでは行動は決定的に無意味とされ、独白あるいは会話が特権的な位置を占める。
行動は、対話相手を変えるときの場所の移動として用いられる一手法でしかない。
行動が欠如するのと同じくして、言葉が行動へと、あるいは行動が言葉へと移行する流れが中断される。
言葉は行動を指向しない。単に発せられ、しかし現状を説明するためだけのものとしてである。
よって、無意味な言葉はブランド化して、身を固めるファッションとしてしか機能できない。
すでに思考としての言葉は、役目を終えてしまったのだ。
言葉=思考がブランドとなって身にまとわれる、つまり固定化されると、
一般的な概念・観念が言葉=思考の上位に置かれ、物語全体を覆う一神教の神となる。
それをひたすら言い換えつつ垂れ流すだけの役割でしか言葉はなくなる。
消費社会に溢れる紋切り型の切り貼りとしての文体はこれに由来するし、
また、主人公=読者は他の登場人物に出会って話を聞いても、
それは、まだ主人公=読者の知らない情報を提供してくれるだけの存在でしかないのだ。
散見される暴力は行動ではないのか、という意見は、反論にあたらない。
凝り固まった概念の入れ物でしかなくなった言葉が、
論争を不可能にしてしまったからだ。
論争はすぐに暴力となってふるわれる。
登場人物が明晰とされながらも、愚かしいほどに暴力に頼るのは、
一方ではそれが物語のメリハリとして都合がいいからではあろうが、
論争の代替物として機能しているからである。
思考が一般概念に統合されているにも拘らず、論争が存在するということはどういうことか。
論争が思考の弁証法ではなく物語の粗筋でしかないから、というのが正解となろう。
論争しようがしまいが、一般思考がある限りどちらかの誤りは決まっているのであるのだから、
暴力も論争も、単なるストーリーとしての要素でしかないのだ。
思考が統一されている以上、他者性は存在し得ない。
登場人物として主人公=読者と同年代の高校生しか出てこないのは、
高校生一般の言語=思考体系のみが物語を語り、進めることができるためで、
そんな世界では、別の言語を持つ、例えば親や教師のような人物は、
存在は示唆されながらも、草木や建物と同じように沈黙を強要されるのである。
これらの理由により、私は西尾維新を評価しない。
しかしそれは、藝術的・文学的においてであって、
例えば広告的・商業的には、その限りではないということも附記しておく。
3 件のコメント:
けどまあ西尾維新は好きなんだよ儂は。
最後の結論が、ライトノベルの特徴を表している。つまり、ライトノベルにおいて芸術性や文学性は深く追求されていない。むしろ商業性、広告性に重点がおかれている。ライトノベルは、まずそう割り切って読む必要がある。
俺は、ライトノベルはストレートな表現をする場だと考えている。こう書くと古代好きな学者に怒られるかもしれないが、ある種ギリシア神話に似ている。確かにすごいけど、ある程度は予想できた裏切り(ペリペテイア)、最も根幹となる原因を探れば「神様」で片づけられる超展開(デウス・エクス・マーキナ)など、すごく素直に表現されていて、その意味では堅苦しい文学作品よりはよっぽどストレートだと思う。
ただし、やっぱり客にこびている点を見逃すことはできない。挿絵しかりわかりやすい文体しかり、読み物というよりは「見る物」に近い感じになっているのは、本としてはどうかと思う。我々は、読書を通じて想像力を鍛練するはずだが、ライトノベルでは、全力で想像力を働かすことが拒否されている。否、想像しやすいものに誘導されている。この点が少し残念な気がする。
まぁでも、「わかりやすさ」が病的なまでに追求されている昨今では、あって悪いものではないと思うよ。少なくともサブカルチャーとしては充分ありなんじゃないかな。でもこういうのよく読む人ほど、よくわかりもしない哲学のことを「所詮こんなもんだ!」とか「アホがやることだ。」とか言いそうな気がして、それが一番残念。難しい本を一読した感想ではなく、「難しい、わからん。」と言いながら読むことも大事なんだということを最後に言っておきたい。
>ゆうと
確かにファンは多いね。
>政行
実はこれを初めて読んだとき、庄司薫が福田章二としてデビューしたときの文壇の反応を思い起こしたんだけど、
それは、江藤淳が、単に文学をファッション的に引き継ごうとしているとして、拒絶したんだよね。
そのあとで彼は庄司薫として再登場して、一つの時代の終わりを上手かつ綺麗に作品に見せた。
だからこそ、彼の後を受け継ぐ村上春樹によって日本文学の流れは終わって、
田中康夫のようにJ文学やら何やらを通して文学が箱庭になってゆき、
そのムーブメントの先端にラノベがあったとも云える。
それでもまだ文学は社会的・現代的な問題意識を入れる形式を棄てていないけれど、
一方としてライトノベルは、先鋭化した他者性不在と箱庭世界をアイデンティティーにしているから、
どうしても藝術的にはわずかな価値すらも見いだせない。
しかも、諸文化を単にファッションとしてみるだけの衒学ぶりからして、
他の文学や藝術と共存できるとも思えないしね。
もっとも、何の活字も読まないサルと比すとはるかにマシなのかもしれないけれど(笑)
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