ゲオルグ・ビューヒナー「レンツ」読了。
すべてが退屈。自分の存在が重荷。
19世紀前半、サルトル『嘔吐』よりも前の実存主義者の短篇、
二年前ほどから知ってはいたが、
読んだのは、そして、驚かされたのは、初めて。
人間を演じることがもうできなくなったのだろうか。
この世に喜びはありはしない。
いとしい人はあんなに遠くだ。
この歌詞が彼に衝撃を与えた。この節回しを聞いてまるで破局が訪れたようだった。
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高校の同窓会があった。
見てくれが変わっていても中身が変わっていない者、
見てくれも中身も変わっていない者、がほとんどだった。
それが高校の同窓会の特性かもしれない。
文学や藝術を話し合う相手の不在が、
高校時の自分にとって最大の不遇だった。
それは変わらないようだったが、H大のN学専修の子と、
演劇について少し話した。
芽は育ちかけているのかもしれないと思ったが、
あまりにも遅すぎる。
S田さん、Oポンさんに、丸くなったと云われた。
もっと刺々しかった、と。
興味のない他人とあえて波風の立った関係を築くのが億劫で
なあなあに接して終えることを私がおぼえたために、
そのように外見が見えるのだとしたら、それはありうることだ。
そして、実際は、彼女たちの指摘とは正反対に、
もっと冷たく刺々しくなった、と云えるのかもしれない。
四月より同県の住人となる生物学の未来の研究者と
薄かった関わりをつくり直すことができた。
あまり他の収穫のなかった会合だったので、
参加の意義はこの一点あるだけで重畳といえよう。
中立進化説が思考停止的であるという異見、
文化発達に結びつけられそうなランアウェイの概念など、
専門的な話を聞くことができておもしろかった。
生物も文学も、物語を繋げる使命でできている。
レンツのように解脱して、それを抛擲する可能性もある。
今日は中学の一友人と再会した。
彼は、見てくれは変わっていなくても中身が変わっていた。
実存の問題が、彼の中では後退していた。
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