28.4.09

コンパニョン「今日の写真小説」、マン『ヴェニスに死す』、サラマーゴ『見知らぬ島への扉』

・コンパニョン「今日の写真小説」

25日、東京大学・本郷キャンパスで聴講した講演。
フランス語の講演を無線イヤホンで日本語同時通訳。
最初はフランス語で聴いていたが、
結局日本語へと敗走した。
語る、という小説の根源的な目的の援用として、
写真という形式がどのように藝術史的に機能してきたか、
という流れがあって、特に、
バルトの「写真は一枚ごとに固有である」という考えから
ボルタンスキーの「写真は匿名で、情報改竄が本質的に可能」
という指摘へ、という逆転が面白かった。
写真をめぐる技術の向上が根底にあるのだろうが、
技術屋さんはそんなことは考えないからね。
写真というものの証拠性はおそらく将来
瓦解するだろうという、不確実性への恐怖と、
写真に意味を付与させる(語らせる)余地がある、という
藝術性への期待と、
両方を胸に、雨中の帰浜。


・マン『ヴェニスに死す』

観念的すぎてあまり面白くなかった、というのが本音。
ちょいちょい主人公が熟しすぎた果物を食べる下りも
狙いすぎてる感じがして冷めた。
当時は、斬新だったのか?


・サラマーゴ『見知らぬ島への扉』

こういう寓話って、なんかいいよね。

19.4.09

コンスタン「赤い手帖」、李纓『靖国 YASUKUNI』

・コンスタン「赤い手帖」

『アドルフ』のあの精緻な文体を求めて読んだが、
小説として書かれたわけではなく
どちらかというと日記なので、
期待ほどではなかったが、内容に次第に惹かれた。
特に、父がどういう存在であったかが興味深い。
絶対者のように精神の上に君臨し、
どれだけ好き放題に振る舞おうとも
決して父に直接背くことはしない、考えもできない。
『アドルフ』で、父がデウス・エクス・マキナのように
黒幕のような影を落としていることは、
こういうことだったのか、と思った。
というか、コンスタンって、こんな放蕩しときながら
大成するって、すごいな。


・李纓『靖国 YASUKUNI』

よく云われたような「偏り」を、自分はさほど感じなかった。
しゃちほこばって参拝してる軍服姿の老人たちの映像が長いし、
靖国刀鍛冶への取材態度もきちんとしている。
むしろ右翼は、これに対抗して溜飲の下るような映画でも
作れば良かったのに。
そして左翼も文句をつけようと思えばできたのでは。

出演の菅原龍憲さんが云っていたように、
靖国神社の合祀の考え方は
「戦死者は死後も国のものだから、合祀は取り消さない」
という非常に明確なもの。
だが、その一刀両断の態度というのは小回りが利かず、
だからこそ、合祀を望まない遺族や、
「日本人」として合祀されている台湾人遺族は
どうしようもないのだと。

そういう、際の部分の曖昧さが見えるのは、
星条旗を片手に小泉靖国参拝支持をするアメリカ人の場面。
初めは感激して友好的に握手したり
ビラ配布を手伝う日本人の周囲ばかりだった。
同盟国だからと握手したり、靖国がいいって話で同調したり。
だが、他の右翼が文句を付け始めて、
それに周囲は一斉になびいて、結局そのアメリカ人を追い出した。
こういう大衆心理的なものが、国粋というロマン主義の本髄だと思う。

同様の際の部分は、終盤にも出てきて、
それは国歌斉唱の場に殴り込みをかけた青年が駆逐される場面。
おじさんがどこまでもついてきて
「中国帰れ!」とひたすら怒号するのだが、
実際は青年は日本人だった。
靖国は日本人で靖国反対は中国・韓国、
という非常にわかりやすく短絡な思考。
それがまかり通るあの聖なる境内では
そもそも国際社会なんて堕落だ、と
本気で考えているかもしれない。

去年だったか、国会で問題となったのを端緒に
右翼が脅しをかけてあまり上演されなかった映画。
その旨は、確かフランスに住んでいた時分に
フランス誌でもちょっと記事になっていた。
日本の右翼が映画上演妨害、みたいな感じで。
右翼って「自国を誇れないような恥ずべき国は日本だけだ」
みたいに云うけど、
そんなに外の目が気になるなら、
そんな偏狭っぽさを外国に報道される方が
よっぽど恥だ、と感じたのを憶えている。

18.4.09

都電荒川線はべらんめぇを乗せて

友人に会うべく、荒川区に行った。
午后の半日を、旅行中のごとき徒歩量で歩き通した。

東京都区内であることをしばしば忘れてしまいそうな、
こぢんまりとした町らしい、ゆるやかな時の流れがあった。
路面電車のようなバスのような、時代を感じる電気軌道が、
その思いを荒川というトポスに縫いつける。

何があるわけでもない。
でも、一度足跡を縫いつけてしまえば
容易に記憶から剥がれないだろう、
そんな土地の雰囲気があった。

17.4.09

泉鏡花「高野聖」、石川淳「佳人」

泉鏡花「高野聖」
高僧が煩悩をお上品に丸出しにして出くわしたお伽話、というか。
耽美的だが、その耽美がけっしてお上品でなく、
籠る自然の草いきれなところがよかった。

石川淳「佳人」
読みにくいし、そう読んでいて面白くもなかった。
だが、思い返すと、一読では駄目だな、と思う、そんなブンガク。
単なる記録っぽいけど、実際はかなり、
文学や藝術というものに対してメタなものがあるように思った。
1930年代の文学ってのは、なんでこう、
グロいものをちょびっと裏に秘めてるんだろう。
それが時代閉塞ってやつなんだろうか。
…………じゃあ、現代って………?

明日は荒川区に、来月は福岡県に行く。

11.4.09

大阪には戻らない

 僕は18年間、そこで実に多くを学んだ。街は僕の心にしっかりと根を下ろし、想い出の殆んどはそこに結びついている。しかし大学に入った春にこの街を離れた時、僕は心の底からホッとした。
 (村上春樹『風の歌を聴け』)

ほんのときどきだけど、村上春樹の『風の歌を聴け』を読み返したくなる。
それは故郷の大阪を遠く離れた仙台の大学に入ってからのことで、
読んでいるときの気分は、ありもしない過去を
代筆で仕上げてもらった回想録に浸っているようだ。

風が心地よいので、窓を明けっ放しにして、
畳に寝転んで、がらんとした家にいる。

狭い1Kに二人で棲んでいたことも、そういえばあった。
近づいてくる出国日の別れを世界の終りのように思いながら、何度も涙した。
でも、もちろん世界は終わらずに、
いろいろなことを巻き込みながら、淡々と時間が過ぎた。
自分は帰国し、やがて独りぼっちになって仙台を離れた。

今は2DKに独りで棲んでいて、だらだらと終わらない本の整理をしている。
過去にあったさまざまなことも、ほとんど忘れてしまった。

6.4.09

岩井俊二『PiCNiC』


寓話ですね。すごく単純で配置が綺麗な。

岩井俊二って、乾いた日常を切り取って見せてくれる印象があったけど、
映像をもっぱら魅せる感じは、むしろ『式日』っぽかった(監督違うけど)。

映画というよりイメージビデオだった。
音楽と、Charaの声と、光と影と、黒と白(と血)との。
その境目を隔てる塀を歩き歩いて、紡がれていく。

5.4.09

桜に想うことごと

路沿いのそこここに、あるいはずらりと、桜が満開になっている。
はっきり云って見慣れてしまったので、綺麗と感じない。
夕陽に照らされて赫く輝きつつ、裏側に影を帯びた
鰯雲の群れのほうが、よっぽど綺麗だ。

汚らしく色彩の散らかった街に桜が咲いたところで
ごてごてしさが増すだけなので、
桜は人家のない山で観るべきだ。
夏前のまだ濃い緑の一面に混じって、桜が見えると、
それこそ、心からタナトスを感じるだろう。
坂口安吾のように、強盗や戦争の栄えを見出だすだろう。

私の場合は、馬鹿騒ぎを誘発する厄介なハレなどごめんだ、とばかり、
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし、と
在原業平の一歌が浮かんだ。
そして、坂の上から遠近に咲く花を見下ろして、
その毒々しさを厭わしく感じた。

3.4.09

島田雅彦『僕は模造人間』

島田雅彦の小説をこれまでに三作ほど読んだが、そのいずれでも、
遠出が、起承転結の転として機能しているのは、偶然だろうか。
ただ、それよりも重要に思われるのは、彼の作品の隠れテーマとして、
肉体と精神の主従関係みたいなものが、常につきまとっている。
『溺れる市民』でもそうだった記憶があるし、
今回読んだ『僕は模造人間』では、まさにそうである。

その二項対立の接点に性欲が置かれていて、
そして、特異なのだろうが、その性欲の処理としての自慰が、
そのまんまとしての自慰のほかに、一人で思考が連綿と続くところの理屈、
としても描かれているところが、この作品では面白かった。
最後、意識と肉体は完全に切り離される。
こうすると、結末で示されるように、もはや悲劇は存在しない。
そもそも、悲劇も喜劇も、まったく同一の題材に対して両立する。
悲劇か喜劇か分けるのは、視点が題材に対して主観的か客観的かだ。