遠出が、起承転結の転として機能しているのは、偶然だろうか。
ただ、それよりも重要に思われるのは、彼の作品の隠れテーマとして、
肉体と精神の主従関係みたいなものが、常につきまとっている。
『溺れる市民』でもそうだった記憶があるし、
今回読んだ『僕は模造人間』では、まさにそうである。
その二項対立の接点に性欲が置かれていて、
そして、特異なのだろうが、その性欲の処理としての自慰が、
そのまんまとしての自慰のほかに、一人で思考が連綿と続くところの理屈、
としても描かれているところが、この作品では面白かった。
最後、意識と肉体は完全に切り離される。
こうすると、結末で示されるように、もはや悲劇は存在しない。
そもそも、悲劇も喜劇も、まったく同一の題材に対して両立する。
悲劇か喜劇か分けるのは、視点が題材に対して主観的か客観的かだ。
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