31.5.09

petite amie

今日、彼女ができた。
これからどうなってゆくかは未知数。

27.5.09

ポー『黒猫・黄金虫』

新潮文庫版。
目当ては、暗号解読があまりに有名な「黄金虫」ではなく
その抑制ある格調高さで著名な「アッシャー家の崩壊」であり、
ボードレールが心酔した先進性を探るためだった。
気魄ある幻想文学とでもいえるような作品は、象徴主義のきらめく標柱と感じた。

24.5.09

ラフマニノフ『チェロ・ソナタ ト短調』『パガニーニの主題による狂詩曲』

ラフマニノフについてはもっぱら、『ピアノ協奏曲 第3番 作品30』の
第1、第3楽章ばかりを好んで聴いていたのだが、
最近、他のものも、ということで、
『チェロ・ソナタ ト短調 作品20』
『パガニーニの主題による狂詩曲』
を、ひとまず入手、ここ数日浸りきっている。

ラフマニノフの荒々しさって、全然ごつごつしていないので、
バルトークなんかはちょっと岩っぽい、と感じてしまう自分にとって、
ゆったりと身を浸すにはもってこいだ。

メロディーの激動はうち震わせるがごとく、
その音律の流れは水のごとく。
この両立が奇蹟的だと思う。

22.5.09

夢野久作『ドグラ・マグラ』

これは小説なのか、擬似科学物語なのか。
現代人はこの小説を読んでも気はおかしくならないだろうが、
執拗すぎるロジックさに思いを馳せると、確かに変になりそう…。

早稲田大学に行ったところ、古本の露店をやっていた。
・吉田満『戦艦大和ノ最後』
・小川国夫『アポロンの島』
以上の二冊を購入。

20.5.09

アジア的福岡・小倉への旅

法事のため小倉に行って、今日帰宅した。
帰路の飛行機からの景色がおもしろかった。
人口比から推して大した大きさではないという予想は裏切られ、
福岡空港から飛んで俯瞰する福岡市街は、
仙台の二倍以上は確かにあった。
それは街の賑わいを実際に歩いてもそうだった。
これまで訪れた国内でもっともアジア的な雰囲気がある街だと思う。
そして、そんな土地の記憶の残り香を嗅ぎながらぶらつくのが好きだ。

小倉は血の濃そうな雰囲気があった。
駅や小倉城の周辺はそんな過去と絶縁するような小綺麗さだったが。
そこには父方の墓があり、生き別れた故郷であり、
仮に1945年8月9日に曇天ではなかったら私はこの世にいない。

帰路の飛行機からは、伊豆諸島の伊豆大島、利島、新島が見えた。
しばらくして房総半島の上空に至り、
九十九里浜を見晴るかしながら次第に高度を下げ、
再び海上に出て、台場の脇をすり抜けて羽田に着いた。

17.5.09

Adieu, ma mémoire.

自分の死せる魂の救済は進まず、
しかるべき情熱は、倦怠している。

バックミラー越しに見る過去は、
本来の姿より光きらめく幻想の調べ。
浸るには小さすぎ、しかも離れすぎた。

アルコールでもランボーでもいい、
谷崎や若合の情痴の果てでも黒い水脈の深みでもいい、
俺の感覚の束を引きちぎって、彼方へ遣れ。
ここか黒井千次でなければ、どもでもかまわないから。

失望せずに安住できる物語がどこにも見当たらない。
共同体に走る右翼も、貨幣とヘーゲルに呑まれた左翼も、
夢物語はどこまでも馬車に乗って。

打ち身がまだ痛む。
肋骨が折れてしまえばいいのに、押せば軋むだけ。

人を生半可にしか信用できない。
信じれば裏切られた経験が累積して、この感情を産んだ。

6.5.09

岩井俊二『花とアリス』『四月物語』、成瀬巳喜男『秀子の車掌さん』

・岩井俊二『花とアリス』

ちょいちょい聞いていたので観てみた。
自分としては……私個人としての感想だよ、
そこんとこ取り違えないでほしいんだけど……かったるかった。
綿矢りさ崩れみたいなちょっとイイ話みたいなのは、
もう食傷も食傷。


・岩井俊二『四月物語』

と云いつつ、さらに観た岩井俊二。
『PiCNiC』みたいな映像作品は他にないの?


・成瀬巳喜男『秀子の車掌さん』

これまた牧歌的。
時代の風景画みたいな映画。
それを支える会社がハリボテってのがまたいい。

4.5.09

赤司道雄『聖書 これをいかに読むか』、アーサー・ミラー「セールスマンの死」、マルグリット・デュラス『破壊しに、と彼女は言う』

・赤司道雄『聖書 これをいかに読むか』

久しぶりの新書。
聖書に(神話学・民俗学的)興味を持ってからそう短くないのに
解説本に当たってこなかった怠慢さがあった。
最近では単なる箴言集のようになってしまった聖書を、
改めて統一的・有機的に時分の頭の中で組み立てたく思っていた。
そんなわけで、家の隅にあったこの新書。
もちろん入門書でしかないのだけれど、
導入としてよい本だったと思う。


・アーサー・ミラー「セールスマンの死」

戯曲でも、こういうふうにして幻想を織り交ぜられるのか、と
ちょっと驚きだった。
そして、この作品が書かれて60年たった今でも
この作品の提起する問いかけが現代の社会問題として取り扱われ、
解決のわずかな糸口すらつかめていないことに、
哀れさと滑稽さを感じる。
そんなわけで、戦後に拓けた郊外の住宅地というのは
無数のセールスマンの墓場なわけ。
仙台市泉区とか、八王子市とか、横浜市田園都市線沿線とかね。
痛々しいね、でもこれが経済だから。資本主義だから。


・マルグリット・デュラス『破壊しに、と彼女は言う』

« DÉTRUIRE DIT-ELLE » が原題。
破壊「しに」、なのかなぁ? それはええとして。
読めばわかるけど、dit-elle. がいたるところに。
そして、会話。舞台はホテルの一階だけど、非常に抽象的。
登場人物は男二人の会話。あと数人出てくるけど、
実在しないように思われる。
そして、物語は、題名どおり破壊されていて、
脈絡を作り出そうという意図がところどころで現れても
それは沈黙その他によって切断されてしまう。
さらに云えば、この作品は小説というよりは
戯曲だし、でも根底では小説だし、
何なんだろう。
現代の「饗宴」? でも、誰も何も食べない。
眠りが眠られているだけ。

3.5.09

メトロ浅草巡礼

浅草に行ったところ、人が多くてやれんよ。

仲見世の、小さな仏像とかを売っている店で、
商品に魅入る子供への、おばあちゃんの声。
「そんなにいろいろ買ってたらお小遣いなくなっちゃうでしょ。
前に阿修羅像を買ったばかりじゃないの」。
どんな将来が待っているのか、一同、期待を膨らませたり。

女性が猿を廻していた。

隅田公園で、明治天皇の秘技「花ぐわし」を発見。

吾妻橋を渡って、アサヒビール本社のflamme d'orを見て、
水上バスの対岸でぼーっと空と川とを眺めていた。

乗った地下鉄は、副都心線・有楽町線・都営新宿線・都営浅草線・銀座線。
さながらメトロ巡礼の旅だった。

東京メトロはたいてい、ホームの両脇を電車が走るという、
大阪市営地下鉄と同じ構図だが、
都営は逆にホームが両岸に分かれていて
線路を挟み込むという、パリのメトロに近い配置。
マルセイユではどうだったか忘れたが、
マドリッドやバルセロナはパリメトロ型、
北京は東京メトロ型だった。
海外ではだいたい、「白線の内側」が電車側、というのは
そういうことなのか、と、今日にして腑に落ちた。

1.5.09

高尾山、南町田、ルイ・マル『さようなら子供たち』、コーエン兄弟『バーン・アフター・リーディング』

高尾山は平日なのに人が多く、
だから逆に、人のことなど何も考えないでよい。
景色はというと、八王子の自然が広がり、
それはそれで綺麗なのだが、
ところどころに置かれた地図にあるようには
東京の区部なんてちっとも見えない。
人は六等星まで見える、という単なる理論値を
万人に該当するかのように語る教科書のようだ。
そも、遊山に来たのに、どうしてあえて
都会の雑踏を見やらないといかんのだ。

南町田は、綻びたメルヘンのような、物悲しい街だった。
昼はまだそうでもなかったが、
夜はあまりに光が統制されていて、
人の存在が邪魔でしかないミニチュアセットのよう。

夜の蠢く人間は、横浜駅のような汚いカオスが丁度よい。
お好み焼きを食べてビールを飲んで、人の流れを眺めて、帰宅。
つまるところ、自分も人の流れだ。