気になる記事があったので、読んだ。
翻訳を下に載せておく。
なお、下の村上理解は相当にひどい代物だと思う。
村上にアメリカ文学の影響を認められるのは
おそらく最初期だけだ。
読む体験としての、村上の特異さは、むしろ、
「他者の不在」としてよく挙げられるような均一な世界観が
現代に非常に近しいからなのではないか。
小説の舞台で物語が繰り広げられるだけで
世界をすいすい泳いでいるような全能の感覚
(これを「セカイ系」として分析した評論が
『群像』の新人賞を獲って載ってた気がする)、
これこそが村上人気なのだと思う。
村上春樹が書こうとしてきた態度の変化、つまり
デガジュマンからアンガジュマンへの移行は、
『羊をめぐる冒険』で決定的となった。
このことも、加えて関係しているように私は思っている。
日本文学はいまだにエギゾチックな日本文化として
読まれている、ということなのだろうか。
悪いとは云わない。
フランス小説をおフランスに浸るために
読む人も少なくないはずだ。
しかし、フランス知識人を気負って
「書物帝国」というブログまで連載している身が
これでは、ちょっと案じてしまう。
-------------
原文(フランス語):« Murakami est trop “cool” »
http://passouline.blog.lemonde.fr/2009/12/24/murakami-est-trop-cool/
ムラカミはクールすぎる
「売れないベストセラーほど悲しいものはない」とは、編集者ロベール・ラフォンの常套句だ。矛盾したような一言で、問題の核心を突いている。考えすぎはよくない。『Books』誌が「ベストセラーの世界の旅」として出した別冊(97ページ、7.5ユーロ)を読めば、なるほどそうか、とわかるだろう。『Courrier international』誌で定評ある原則によればこの常套句は、ある世界的な現象の理由として、他にも至るところで見つかったのだ。この題材に(歴史的・社会学的に)調査や思索を加えるよりも例を一つずつ挙げた方が明らかに興味深いし、それは驚くようなことではないだろう。ハーラン・コーベンの機械もの、シャルロット・ロシュのポルノっぽいヒット作、カルロス・サフォンの大衆文学作品、アモス・オズのパルチザンもの、ファレド・アル・ハミッシの社会小説、余華(ユー・フア)の謎めいた作品、シコ・ブアルキの詩的なもの、フレッド・バルガスのいらいらする作品。アイン・ランドのご都合主義的なヒット作、あるいは、チャベス大統領が宣伝してくれたおかげで売れたエドゥアルド・ガレアーノの『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』も、最も不測だったとして忘れてはならないだろう。我々としては『文体の諸要素』(ストランク、ホワイトの共著)と同じく、アメリカのテレビ福音主義者の作品を、とびきりの地位に置いているのだ。『文体の諸要素』は著述マニュアルであり、莫大な売れ行きを示しているとはいえ、「アメリカ人作家の教科書」と表現する気は我々にはさらさらない(もしそうなら、アメリカ文学はなんと退屈になってしまっていることか)。世界中の出版物から極上の文筆を集めたこの豪華な別冊から村上のケースを抜萃して、長々と続けることとしよう。というのは、この日本人作家の世界的な成功をいつも私は懐疑的に見ているからだ。日本文学者だからというわけでは勿論ない。漱石、三島、川端、大江、そして谷崎(代表作『陰翳礼讃』のためだけかもしれないが)に再び浸り、彼らが現代文学にもたらしたものを思い返すだけで充分だ。しかし村上春樹は正直云って……『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『ノルウェイの森』(註:フランス語題はそれぞれ『時の終わり』『海辺のカフカ』『不可能のバラード』)が悪いというわけではなく、それどころではない。そうではなくて、彼の世界観が作品内の都市の同郷人のそれと際限なく共通なのだ。新作の度に、日本でも国外でも数百万部が売れる。最新作はこの前の5月に東京で出版された『1Q84』だが、これも同じ路を辿った。作家にして崇拝対象でもある、とみなされることはあまりない。まめにジョギングに定期的に参加するというよい趣味があるためだ。
『Books』誌には「Electoric book review」に載った三浦玲一の手になる記事が再掲されている。村上をより明瞭に見ることが本当に可能となる記事だ。東京大学の英米文学の教授(註:実際は一橋大学准教授)で、彼は記事内で、村上春樹の小説における作品のメカニズムを、光を当てるようにして分解している。80年代から日本で成功を収めたアメリカ文学と、村上人気の二つの現象があり、どちらが先行とも分からない、と彼は仮定する。アメリカ文学の古典作品を知らなくても、村上や他に引き合いに出された作家(スコット・フィッツジェラルド、ジョン・アーヴィング、ポール・オースター、トルーマン・カポーティ、レイモンド・カーヴァー、ティム・オブリエン、リチャード・パワーズなど。それらを「お楽しみで」翻訳してまで)を学生達は「クールだ」と判断したということから、彼はこの問題を理解している。三浦教授はこう語る。「日本ではパルコという流行の服のチェーン店がどれ構わず本も売り始めた。基本的にはアメリカ文学の翻訳や原書で、それは若い消費者がすでにアメリカ音楽に渇望していることを見越してだった。マーケティングが残りをやった」。つまり、三浦教授によると村上は「アメリカ小説を書く日本人作家」であり、「自国文化の大使」だった著名な先輩作家たちとは反対なのだ。作品全体にわたる分析には説得力がある。徹頭徹尾、生国を捨て、逆説的ながらよそ者の身体として捉えられるのは、そこでは明らかだ。質にも伍して重要な「洗練された感覚」を超えて、村上の価値ある商標は別のところにある。つまり、「国際化の文化的側面が現代文学の国家的・国民的枠組みを侵食している時代において、どんどん有効性を失ってゆく国家的・国民的な枠組みを忠実に描き出している。世界的な村上人気はこのことに基づくように思われる」(三浦教授)。村上の文化的な反国家・反国民主義は嫌われようとしてではなく、そのように云うための緩徐法でさえある。国民性なき作家にして、1945年の敗戦とそれが引き起こしたトラウマという悲劇的な感情を受けつけず、自国の批評家受けのほとんどしない作家なのだ。大江健三郎が1986年の今日にデューク大学で講演をしたときの最初の言葉は、まだその感情豊かに響いている。「日本文学のある崩壊の感情を抱いて働く日本人作家として、私はあなたたちに向かって来ているのです……」。
-------------
31.12.09
2009年総括
今年は、別れと別れと出会いと別れの年だった。
どの年もそうだろうけれど、
そうであることを強く感じたという意味で、
あえてこのように統括させてもらう。
今年読んだ本は、作品数で数えて60。
もっとも印象深かった文学作品は、……決めがたい。
文学体験は、場所の経験に近い。
住んだ街の喧騒、赴いた公園の意匠、過ぎた田園の風景は
一列に並べて較べるにはあまりに特異すぎる。
強いて一つ挙げるなら、塚本邦雄歌集だろうか。
観念を固定させる元凶のはずの言葉が
五七五七七の内枠とそこに表象される
固定観念を軽やかに打ち破る、
その鋭利さの余韻から未だ醒めやれずにいるから。
もっとも印象深かった評論・学術書は
山口昌男『道化の民俗学』。
中心と周縁の媒介項について考えを閉塞させていた矢先の、
軽やかな回答にして新たな学究への出発点となったから。
最近は「裁く」という一見暴力的な論理性について
興味が湧いている。
今年観た映画は42本。
その半分ほどはどれも面白かった。
もっとも印象に残っているのは
市川準『トニー滝谷』。
前者は、直線的で単色の寂しげなシーンを
スライドするカメラワークで淡々と処理してゆく、
そんな呆然とするような物悲しさに包まれて、
人生は喪失なんだなと改めて見せつけられる。
成瀬巳喜男『鰯雲』も好かった。
映画に限らず良い藝術作品は、
グロテスクな覚醒を日常へと
佳麗に滑り込ませるものでないといけない。
この当然の原則を些かでも突き進められたと
感ぜられる一年なら、その向かう先が何であれ、
自己満足できるのではないか。
どの年もそうだろうけれど、
そうであることを強く感じたという意味で、
あえてこのように統括させてもらう。
今年読んだ本は、作品数で数えて60。
もっとも印象深かった文学作品は、……決めがたい。
文学体験は、場所の経験に近い。
住んだ街の喧騒、赴いた公園の意匠、過ぎた田園の風景は
一列に並べて較べるにはあまりに特異すぎる。
強いて一つ挙げるなら、塚本邦雄歌集だろうか。
観念を固定させる元凶のはずの言葉が
五七五七七の内枠とそこに表象される
固定観念を軽やかに打ち破る、
その鋭利さの余韻から未だ醒めやれずにいるから。
もっとも印象深かった評論・学術書は
山口昌男『道化の民俗学』。
中心と周縁の媒介項について考えを閉塞させていた矢先の、
軽やかな回答にして新たな学究への出発点となったから。
最近は「裁く」という一見暴力的な論理性について
興味が湧いている。
今年観た映画は42本。
その半分ほどはどれも面白かった。
もっとも印象に残っているのは
市川準『トニー滝谷』。
前者は、直線的で単色の寂しげなシーンを
スライドするカメラワークで淡々と処理してゆく、
そんな呆然とするような物悲しさに包まれて、
人生は喪失なんだなと改めて見せつけられる。
成瀬巳喜男『鰯雲』も好かった。
映画に限らず良い藝術作品は、
グロテスクな覚醒を日常へと
佳麗に滑り込ませるものでないといけない。
この当然の原則を些かでも突き進められたと
感ぜられる一年なら、その向かう先が何であれ、
自己満足できるのではないか。
29.12.09
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』/芦屋まで
延々とマルコ・ポーロが語る都市像は細部だけがきらめいて、
しかしそれらが指し示す都市全体のありさまは、
幻想的なまでに抽象的で、細切れのまま有耶無耶に果てる。
マルコ・ポーロとフビライ・ハンの静謐な語りそのものも
幻想の霧に包まれて、やがて見えなくなってしまうかのよう。
さまざまな街が砂上に語られて浮かび上がり、消えるイメージは、
野又穣の画集を眺めては繰るような感触だった。
夢心地に語られるとはいえ、ウルからニューヨーク、さらに
我々も知らぬ未来の都市まで、すべてをひっくるめて、
(単数形定冠詞つきで)la città invisibiliなんだろうか。
シュミラークル都市(としてある意味で語りやすい)東京も勿論あったし、
これまで住んだ、訪れたいくつかの街も少しずつ散見された。
これは一つの小説なのか、都市を材に取った掌篇集なのか。
自分は詩集のように常にポケットに忍ばせたいと思った。
翻訳も美しい。
--------
国道171号線沿いに芦屋まで自転車で行った。
高級宅地の六麓荘は、大学まで有して巨大で有名だが、
逗子の披露山住宅のほうが塀がないぶん見目は勝ろう。
緑越しに海を見晴るかせるのもよい。
途中、昆陽池に立ち寄った。
池上の日本列島はそうと知っていても、
岸からは見えなかった。
機上から眺めるためだけのものだから、仕方ない。
しかしそれらが指し示す都市全体のありさまは、
幻想的なまでに抽象的で、細切れのまま有耶無耶に果てる。
マルコ・ポーロとフビライ・ハンの静謐な語りそのものも
幻想の霧に包まれて、やがて見えなくなってしまうかのよう。
さまざまな街が砂上に語られて浮かび上がり、消えるイメージは、
野又穣の画集を眺めては繰るような感触だった。
夢心地に語られるとはいえ、ウルからニューヨーク、さらに
我々も知らぬ未来の都市まで、すべてをひっくるめて、
(単数形定冠詞つきで)la città invisibiliなんだろうか。
シュミラークル都市(としてある意味で語りやすい)東京も勿論あったし、
これまで住んだ、訪れたいくつかの街も少しずつ散見された。
これは一つの小説なのか、都市を材に取った掌篇集なのか。
自分は詩集のように常にポケットに忍ばせたいと思った。
翻訳も美しい。
--------
国道171号線沿いに芦屋まで自転車で行った。
高級宅地の六麓荘は、大学まで有して巨大で有名だが、
逗子の披露山住宅のほうが塀がないぶん見目は勝ろう。
緑越しに海を見晴るかせるのもよい。
途中、昆陽池に立ち寄った。
池上の日本列島はそうと知っていても、
岸からは見えなかった。
機上から眺めるためだけのものだから、仕方ない。
28.12.09
柳田国男『木綿以前の事』、ルイジ・ピランデルロ「作者を探す六人の登場人物」
・柳田国男『木綿以前の事』
木綿が日本に入ったのは江戸時代の初期で、
新田開発がさかんに行われ始めるより数十年しか前ではない。
それ以前は主にあのごわごわしたズタ袋みたいな麻を着たり、
土地によっては藤や楮などを着ていたらしい。
土地ごとの様式の違いは一目瞭然だったことだろう。
様式が違えば言葉も違う。
後朝を「きぬぎぬ」と訓読するように、貴族は絹を着ていただろう。
木綿は北関東までを北限に栽培できた。
地域をまたがって流通すれば、瞬く間に商品となる。
これが契機となって農家は商品作物に寝覚めたろうし、
栽培の叶わなかった越国や陸奥は
相変わらず出稼ぎ(雇=「ユイ」)に多く出た。
また、むしろ雪国では吸収性のある木綿より麻のほうが都合よく
明治期になってからも製紙工場は麻の仕入れに
北日本からの麻布の古着をも充てたらしい。
精米方法が手杵から横杵へ移る過程、餅のいろいろ、
酒をめぐるハレのありようの推移、などなど、民俗学は本当に多様。
やはり日本は、一括りにはできない。
同じ歴史でも、学校で習う政治史のつまらなさとは雲泥の差だ。
蕉門の連歌を多く引くあたりや、あるいはただ文章が詩的。
もとは文学を志した生い立ちを存分に伺わせる。
・ルイジ・ピランデルロ「作者を探す六人の登場人物」
人間存在の孤独さ、なんて云ったら当世風すぎる解釈だろうけれど、
演劇批判なのは間違いない。
演じるということを批評家や演出家があれこれ論じるより先に
舞台と役者と小道具があって、という演劇の構造に沿って
演劇というものが本質的に孕む問題点を論っている
(だからなのか、ちょっとベケットっぽい)。
喜劇あるいは悲劇を志向しながらも
どっちつかずのひきつった笑いしか残さない、
材の取りようの巧みさにもすごい。
木綿が日本に入ったのは江戸時代の初期で、
新田開発がさかんに行われ始めるより数十年しか前ではない。
それ以前は主にあのごわごわしたズタ袋みたいな麻を着たり、
土地によっては藤や楮などを着ていたらしい。
土地ごとの様式の違いは一目瞭然だったことだろう。
様式が違えば言葉も違う。
後朝を「きぬぎぬ」と訓読するように、貴族は絹を着ていただろう。
木綿は北関東までを北限に栽培できた。
地域をまたがって流通すれば、瞬く間に商品となる。
これが契機となって農家は商品作物に寝覚めたろうし、
栽培の叶わなかった越国や陸奥は
相変わらず出稼ぎ(雇=「ユイ」)に多く出た。
また、むしろ雪国では吸収性のある木綿より麻のほうが都合よく
明治期になってからも製紙工場は麻の仕入れに
北日本からの麻布の古着をも充てたらしい。
精米方法が手杵から横杵へ移る過程、餅のいろいろ、
酒をめぐるハレのありようの推移、などなど、民俗学は本当に多様。
やはり日本は、一括りにはできない。
同じ歴史でも、学校で習う政治史のつまらなさとは雲泥の差だ。
蕉門の連歌を多く引くあたりや、あるいはただ文章が詩的。
もとは文学を志した生い立ちを存分に伺わせる。
・ルイジ・ピランデルロ「作者を探す六人の登場人物」
人間存在の孤独さ、なんて云ったら当世風すぎる解釈だろうけれど、
演劇批判なのは間違いない。
演じるということを批評家や演出家があれこれ論じるより先に
舞台と役者と小道具があって、という演劇の構造に沿って
演劇というものが本質的に孕む問題点を論っている
(だからなのか、ちょっとベケットっぽい)。
喜劇あるいは悲劇を志向しながらも
どっちつかずのひきつった笑いしか残さない、
材の取りようの巧みさにもすごい。
21.12.09
どの海が好きか
海の原風景はおそらく泉州の海水浴場で、まだ関西空港のない頃だった。
塩辛いとか底がどこまでも深くなる、といった印象を、
幼い頃はなぜか持っていたように思う。
常にプールと較べては怖がっていたのはなぜだろう。
波が小さな体には、相対的に大きかったからなのか、
あるいは、海イコール海水浴としか思わなかったからか。
自分にとって海とはながらく、瀬戸内海だった。
あるときは宮崎だったり伊勢だったりしたけれど、
それは旅行の晴れた凪の海だったので、あまり瀬戸内海と違わない。
日本海は鳥取砂丘から眺めて、水平線の先までべったりした薄汚い碧だった。
どこかしら期待はずれだった。
大阪を離れてから、海は飛行機から見下ろす無地となった。
雲がなくて陽が射すと、波が細かく海面に立っていた。
波とわかるまで、細かくどこまでも地にへばりつく街と思っていた。
この大阪を離れる景色に始まり、長い北の一人暮らしだったように思う。
帰阪の空路は、何度すぎたかわからない。
見下ろす景色が知多半島から紀伊の山の連なりへと変わるときの海は、
人懐っこい故郷大阪の近づきだった。
あるいは時に倦んで、どこまでも東へ行った先の防砂林の向こうに開けた、
仙台平野の果ての海岸に沿った荒波。
砂まみれの潮風とともに、全身で海を視た。
西ヨーロッパで始まった一年限りの生活で、
最初に見た海はストックホルムだった。
ガムラスタンの王宮から見下ろす、雨より静かな海と、
市庁舎の中庭から港への、歩けそうなくらい穏やかな入り江。
そしてバルセロナの(丁度二年ほど前になる)、
黒々として潮の匂わない地中海。
五月、ジブラルタル海峡を越えるフェリーから見下ろす海の色は
硝酸銅の結晶を砕いたような色だった。
今は、横浜にいる。
みなとみらいというträumereiのような音の賑々しい再開発地区より、
相模湾の惚けた海の沿岸に住みたい。
あるいは高知のような。
中上健次の長篇『奇蹟』は、湾をクエの顎に譬えるところから始まる。
穏やかで遠浅な、しかし浜の後背に奥深い山の聳える血の濃い土地。
相模湾も土佐湾も、思えば似た形だ。
山を削った新興住宅地に育った生き様からは遥かに遠い。
だから惹かれるのかもしれないけれど。
塩辛いとか底がどこまでも深くなる、といった印象を、
幼い頃はなぜか持っていたように思う。
常にプールと較べては怖がっていたのはなぜだろう。
波が小さな体には、相対的に大きかったからなのか、
あるいは、海イコール海水浴としか思わなかったからか。
自分にとって海とはながらく、瀬戸内海だった。
あるときは宮崎だったり伊勢だったりしたけれど、
それは旅行の晴れた凪の海だったので、あまり瀬戸内海と違わない。
日本海は鳥取砂丘から眺めて、水平線の先までべったりした薄汚い碧だった。
どこかしら期待はずれだった。
大阪を離れてから、海は飛行機から見下ろす無地となった。
雲がなくて陽が射すと、波が細かく海面に立っていた。
波とわかるまで、細かくどこまでも地にへばりつく街と思っていた。
この大阪を離れる景色に始まり、長い北の一人暮らしだったように思う。
帰阪の空路は、何度すぎたかわからない。
見下ろす景色が知多半島から紀伊の山の連なりへと変わるときの海は、
人懐っこい故郷大阪の近づきだった。
あるいは時に倦んで、どこまでも東へ行った先の防砂林の向こうに開けた、
仙台平野の果ての海岸に沿った荒波。
砂まみれの潮風とともに、全身で海を視た。
西ヨーロッパで始まった一年限りの生活で、
最初に見た海はストックホルムだった。
ガムラスタンの王宮から見下ろす、雨より静かな海と、
市庁舎の中庭から港への、歩けそうなくらい穏やかな入り江。
そしてバルセロナの(丁度二年ほど前になる)、
黒々として潮の匂わない地中海。
五月、ジブラルタル海峡を越えるフェリーから見下ろす海の色は
硝酸銅の結晶を砕いたような色だった。
今は、横浜にいる。
みなとみらいというträumereiのような音の賑々しい再開発地区より、
相模湾の惚けた海の沿岸に住みたい。
あるいは高知のような。
中上健次の長篇『奇蹟』は、湾をクエの顎に譬えるところから始まる。
穏やかで遠浅な、しかし浜の後背に奥深い山の聳える血の濃い土地。
相模湾も土佐湾も、思えば似た形だ。
山を削った新興住宅地に育った生き様からは遥かに遠い。
だから惹かれるのかもしれないけれど。
13.12.09
金子光晴『絶望の精神史』/Marché de Noëlとその他の近況
明治から高度成長までの日本を、斜から見つめながら生きた詩人の、
その自叙伝的なエッセイ。
近代以降の歴史が醒めた目で、しかし鋭くえぐられていて、面白かった。
戦前が日本の伝統だと思い込んでいる無知の右翼に
読ませて、反応を聞いてみたい。
さて、近況。
昨日、有楽町の東京国際フォーラムに行った。
4 strasbourgeois et 2 japonais で
Marché de Noël de Strasbourg à Tokyo の遊山。
市や地方圏も協賛しているようで、TF1の取材も来ていた。
あの木小屋の店はまばらに数えるほどしかなく、
タルト・フランベにはびっくりするほど行列ができていて、
ワインやコンフィチュールは異様な値で売られていたが、
それでもvin chaudの匂いは懐かしかった。
その後、みんなでラーメンを喰って焼き鳥で呑んだ。
今日は商店街でハタハタが安かったので、思わず買った。
秋田なんかでしょっつる鍋によく使われる食材だが
仙台にいた頃はなぜか食べなかった。
ひとまず煮付けにしたところ、非常に美味。
あっさりした白身魚で、これは間違いなく日本酒だと思った。
ウイスキーを三本買った。
カナディアン・クラブ、デュワーズ・ホワイト・ラベル、シーバス・リーガル。
デュワーズは知った味だが、他二本は初。
カナディアン・クラブをレーズンを小脇にちびちび舐めているが、
うん、まぁ、特に尖ったとこはない感じですかね。
その自叙伝的なエッセイ。
近代以降の歴史が醒めた目で、しかし鋭くえぐられていて、面白かった。
戦前が日本の伝統だと思い込んでいる無知の右翼に
読ませて、反応を聞いてみたい。
さて、近況。
昨日、有楽町の東京国際フォーラムに行った。
4 strasbourgeois et 2 japonais で
Marché de Noël de Strasbourg à Tokyo の遊山。
市や地方圏も協賛しているようで、TF1の取材も来ていた。
あの木小屋の店はまばらに数えるほどしかなく、
タルト・フランベにはびっくりするほど行列ができていて、
ワインやコンフィチュールは異様な値で売られていたが、
それでもvin chaudの匂いは懐かしかった。
その後、みんなでラーメンを喰って焼き鳥で呑んだ。
今日は商店街でハタハタが安かったので、思わず買った。
秋田なんかでしょっつる鍋によく使われる食材だが
仙台にいた頃はなぜか食べなかった。
ひとまず煮付けにしたところ、非常に美味。
あっさりした白身魚で、これは間違いなく日本酒だと思った。
ウイスキーを三本買った。
カナディアン・クラブ、デュワーズ・ホワイト・ラベル、シーバス・リーガル。
デュワーズは知った味だが、他二本は初。
カナディアン・クラブをレーズンを小脇にちびちび舐めているが、
うん、まぁ、特に尖ったとこはない感じですかね。
8.12.09
武田泰淳「ひかりごけ」
人肉を食べるということを題材にした文学作品としてあまりに有名。
しかし二部構成で、後半が戯曲とは知らなかった。
罪に問われた法廷で、船長は「我慢している」と心境を吐露する。
我慢とは何なんだろう。
船長は目の前に社会的に保障された「生」を断たれて
なおも生き延びたことで、生の残酷さを知った。
死の犇めく世界を、懸命に手を伸ばして摑んだ、野獣の生。
その「生」のなまなましい状況は、ひとたび社会へ戻ると隠蔽されていて、
それゆえ、船長は裁判にかけられる。
残酷な生の普遍性を、彼の特異な罪として訴追される。
一身に「生」の重みと残酷さを引き受けて、
しかしそれは事実である、という閉塞。
それをただただ「我慢している」という。
生へ費やされた無数の死を引き受け、
だから船長はキリストのように死んでゆく。
そしてなお、「私をみてください」と云う。
まぁ、解釈としてすぐに思いつくのはそんなところだろう。
戯曲部分の演出を指示するト書きが、この解釈を盛り上げてくれる。
あるいは、こうかもしれない。
作品の冒頭は本当に長閑だ。
当時は国交のないソ連の領土として国後島が見える知床。
そこで事件を知り、村史を繙く。
そこまでは、太平洋戦争から敗戦、あるいはアイヌの話も、
話の筋に関わるともなく挿入される。
おそらく鍵になるのは、柔和で若い小学校校長の話。
海でも山でも九死に一生を得て、
だがそんな雰囲気も持たせずに飄々と生きているのだが、
事件についておかしそうに語り、
筆者にひかりごけを見せてくれる人物でもある。
事件へと語りを繋げる人物なのだ。
戯曲内でひかりごけは、罪を犯した者の光背のように光る。
そして、校長と来た洞窟では、ひかりごけは
見る角度によって、どの場所も光るのだ。
しかし二部構成で、後半が戯曲とは知らなかった。
罪に問われた法廷で、船長は「我慢している」と心境を吐露する。
我慢とは何なんだろう。
船長は目の前に社会的に保障された「生」を断たれて
なおも生き延びたことで、生の残酷さを知った。
死の犇めく世界を、懸命に手を伸ばして摑んだ、野獣の生。
その「生」のなまなましい状況は、ひとたび社会へ戻ると隠蔽されていて、
それゆえ、船長は裁判にかけられる。
残酷な生の普遍性を、彼の特異な罪として訴追される。
一身に「生」の重みと残酷さを引き受けて、
しかしそれは事実である、という閉塞。
それをただただ「我慢している」という。
生へ費やされた無数の死を引き受け、
だから船長はキリストのように死んでゆく。
そしてなお、「私をみてください」と云う。
まぁ、解釈としてすぐに思いつくのはそんなところだろう。
戯曲部分の演出を指示するト書きが、この解釈を盛り上げてくれる。
あるいは、こうかもしれない。
作品の冒頭は本当に長閑だ。
当時は国交のないソ連の領土として国後島が見える知床。
そこで事件を知り、村史を繙く。
そこまでは、太平洋戦争から敗戦、あるいはアイヌの話も、
話の筋に関わるともなく挿入される。
おそらく鍵になるのは、柔和で若い小学校校長の話。
海でも山でも九死に一生を得て、
だがそんな雰囲気も持たせずに飄々と生きているのだが、
事件についておかしそうに語り、
筆者にひかりごけを見せてくれる人物でもある。
事件へと語りを繋げる人物なのだ。
戯曲内でひかりごけは、罪を犯した者の光背のように光る。
そして、校長と来た洞窟では、ひかりごけは
見る角度によって、どの場所も光るのだ。
7.12.09
川端康成「雪国」/文学フリマの感想と「ゼロ世代」
・川端康成「雪国」
遠い中学二年のときに読んだきり、通して読んだのは久しぶり。
『掌の小説』にもあるような、少ない言葉であまりに多くを言外に語る、
これこそ詩だ、と思う。
--------
昨日、大田区蒲田での文学フリマに行った。
そういう催しがあることは朧げに知っていて、
この直近の実施を知ったのがほんの二、三日前。
かつては秋葉原だったらしいが、郊外に移って今は蒲田らしい。
京急で二駅で行ける近さならと、腰を上げた。
元々の目的は、「ジュール・ヴェルヌ活用法」というタイトルの
奥泉光のトークイベント。
文学、いや藝術一般って、固よりすべて二次創作、
あるいは、引用の集合体、だから、
それをあえて意図的な手法ということをどう捉えているのか
聞ければ、と思った。
チケットが先着順で、のんびりと着いてもうないだろう、と
思っていたが、意外にも残っていて、ありがたかった。
ただ、開始の午后過ぎまでそこにいるのがしんどいような
そんな場違い感を、ずっと抱いた。
どっぷり浸かった文学部の雰囲気、とでもいおうか。
絵ではなく文章だから、ブースを廻っても意味はない。
しぜん、見本誌の部屋でひたすら立ち読みをすることになる。
大学名の入ったサークルでの作品は、たいていはひどい。
ちょっと刺激的な単語を即物的に転がすだけで満足していたりする。
一橋大学文芸部のだったか、冒頭の小説をぱらぱらと斜め読みしたとき、
実直に語っている真摯さは、素朴に良かった。
小説はほとんど見なくて、評論を中心に漁ったが、
東京学芸大学のものは群を抜いていた。
…って、ほとんどOBやないかーい。でも、いいものはいい。
アマチュアのもので思わず買ったものは、これだけ。
あと、NR系の「社会評論」は、大西巨人の対談など
資料としての重みがあったので、ひとまず買ってみた。
行ってみての感想。
文学の最先端。というか、文学の草の根運動の最先端を覗けたのは面白かった。
「ゼロ世代」という云い方、これを知ったのは一つの収穫だったと思う。
阿部和重や中原昌也など文芸誌を活動主体にしている
J-POP世代を90年世代として、
その次の文学として、舞城王太郎、西尾維新、など、
どっちかというと『ファウスト』系で活躍している作家たちの世代。
「90年世代までの文学は価値観の破壊、
ゼロ世代は崩壊した価値観から立つ新しい語り」
という、どっかで読んだ図式は、言い得て妙だと思った。
(石川淳の「焼跡のイエス」みたいだけど)
でも、そうなんだろうか。
確かに、ゼロ世代の文学って、
規制の価値観・倫理観にはほぼ立脚していない。
していたとしても、非常に狭く、として厚く閉ざされた世界だ。
だから、その小世界が妄想的に社会へと
拡張認識されて、その名もセカイ系だったり、
小世界がその価値観・倫理観・世界観を共有しないまま現代社会を揶揄する
「りすか」みたいなのだったりするわけです。
なんとなく上のようにまとめていて思ったのは、
舞城とか西尾とか佐藤友哉とか円城塔の文学って、
即物的でありかつイコン的で、
「ヨハネの黙示録」とか「ダニエル書」の黙示文学じみている。
供儀や打擲、セックスなどで物語を彩って、
即物のテクスチャー(織物)として社会を編み込む。
徹底的に二の次に置かれるけどゲマインシャフトが結局は暗示される。
この彩りの目眩、即物の生々しさがいわゆる「ゼロ世代」の
いまだ名のない一文芸運動なんじゃないか、と思う。
「内向の世代」との類似が、どこかで指摘されていたが、
そこまでちっちゃくはない。
世界を書いてるから、意外と大きい。
行き着く先は、じゃあ何なんだろう。
ピンチョンが『V.』『重力の虹』『ヴァインランド』の
一連の今世紀を書いたように
西尾維新がフォークナー的な野心に燃えたら、
かなり面白いことになりそうではあるけど。
まぁ、こういうことを考えた。
というのは嘘で、これはただ筆が進んで今書けただけ。
そのときはただ漠然と、同時代の存在を少し頼もしく思っていた。
だって、綿矢りさと羽田圭介だけでは
淋しすぎて死んでしまうだろうから。
遠い中学二年のときに読んだきり、通して読んだのは久しぶり。
『掌の小説』にもあるような、少ない言葉であまりに多くを言外に語る、
これこそ詩だ、と思う。
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昨日、大田区蒲田での文学フリマに行った。
そういう催しがあることは朧げに知っていて、
この直近の実施を知ったのがほんの二、三日前。
かつては秋葉原だったらしいが、郊外に移って今は蒲田らしい。
京急で二駅で行ける近さならと、腰を上げた。
元々の目的は、「ジュール・ヴェルヌ活用法」というタイトルの
奥泉光のトークイベント。
文学、いや藝術一般って、固よりすべて二次創作、
あるいは、引用の集合体、だから、
それをあえて意図的な手法ということをどう捉えているのか
聞ければ、と思った。
チケットが先着順で、のんびりと着いてもうないだろう、と
思っていたが、意外にも残っていて、ありがたかった。
ただ、開始の午后過ぎまでそこにいるのがしんどいような
そんな場違い感を、ずっと抱いた。
どっぷり浸かった文学部の雰囲気、とでもいおうか。
絵ではなく文章だから、ブースを廻っても意味はない。
しぜん、見本誌の部屋でひたすら立ち読みをすることになる。
大学名の入ったサークルでの作品は、たいていはひどい。
ちょっと刺激的な単語を即物的に転がすだけで満足していたりする。
一橋大学文芸部のだったか、冒頭の小説をぱらぱらと斜め読みしたとき、
実直に語っている真摯さは、素朴に良かった。
小説はほとんど見なくて、評論を中心に漁ったが、
東京学芸大学のものは群を抜いていた。
…って、ほとんどOBやないかーい。でも、いいものはいい。
アマチュアのもので思わず買ったものは、これだけ。
あと、NR系の「社会評論」は、大西巨人の対談など
資料としての重みがあったので、ひとまず買ってみた。
行ってみての感想。
文学の最先端。というか、文学の草の根運動の最先端を覗けたのは面白かった。
「ゼロ世代」という云い方、これを知ったのは一つの収穫だったと思う。
阿部和重や中原昌也など文芸誌を活動主体にしている
J-POP世代を90年世代として、
その次の文学として、舞城王太郎、西尾維新、など、
どっちかというと『ファウスト』系で活躍している作家たちの世代。
「90年世代までの文学は価値観の破壊、
ゼロ世代は崩壊した価値観から立つ新しい語り」
という、どっかで読んだ図式は、言い得て妙だと思った。
(石川淳の「焼跡のイエス」みたいだけど)
でも、そうなんだろうか。
確かに、ゼロ世代の文学って、
規制の価値観・倫理観にはほぼ立脚していない。
していたとしても、非常に狭く、として厚く閉ざされた世界だ。
だから、その小世界が妄想的に社会へと
拡張認識されて、その名もセカイ系だったり、
小世界がその価値観・倫理観・世界観を共有しないまま現代社会を揶揄する
「りすか」みたいなのだったりするわけです。
なんとなく上のようにまとめていて思ったのは、
舞城とか西尾とか佐藤友哉とか円城塔の文学って、
即物的でありかつイコン的で、
「ヨハネの黙示録」とか「ダニエル書」の黙示文学じみている。
供儀や打擲、セックスなどで物語を彩って、
即物のテクスチャー(織物)として社会を編み込む。
徹底的に二の次に置かれるけどゲマインシャフトが結局は暗示される。
この彩りの目眩、即物の生々しさがいわゆる「ゼロ世代」の
いまだ名のない一文芸運動なんじゃないか、と思う。
「内向の世代」との類似が、どこかで指摘されていたが、
そこまでちっちゃくはない。
世界を書いてるから、意外と大きい。
行き着く先は、じゃあ何なんだろう。
ピンチョンが『V.』『重力の虹』『ヴァインランド』の
一連の今世紀を書いたように
西尾維新がフォークナー的な野心に燃えたら、
かなり面白いことになりそうではあるけど。
まぁ、こういうことを考えた。
というのは嘘で、これはただ筆が進んで今書けただけ。
そのときはただ漠然と、同時代の存在を少し頼もしく思っていた。
だって、綿矢りさと羽田圭介だけでは
淋しすぎて死んでしまうだろうから。
5.12.09
ブレヒト『三文オペラ』、勝部健太郎・田中耕一郎「UNIQLOCK」
・ベルトルト・ブレヒト『三文オペラ』
舞台は産業革命後のロンドン。
少し前に読んだ『ドラキュラ』と同じ時代と舞台。
『ドラキュラ』がアッパーミドルを中心に展開されたのに対し、
ブレヒトは乞食たちを題材に採った。
現実を視るという意味では、明らかにブレヒトのほうが
嗅覚があるように思われる。
本作は叙事詩だ。これは一読すればすぐに知れる。
すぐに把握できるキャラクター同士が
内面の葛藤なくストーリーに翻弄される。
おかしいのは、それが「当世」の乞食たちである点。
ブレヒトといえば「異化効果」、
それはあまりよくわからなかったが、
妙ちくりんに神格化することで現実に新鮮味を与える
ということなら、そうなのだろう。
社会批判の鋭さに唸った。
「この世の持てる奴らは、貧困をつくり出すことはできるくせに、
貧困を見てはいられない」(p.160)とか、
「我が国の裁判は賄賂なんかで動かせません。
どんなに金を積んだって、あの裁判官たちが正しい判決をするように
買収することはできませんよ」(p.164)とか。
百年後の今もそうじゃないですか!
・UNIQLOCK
偶然見つけて惹かれたので、このブログにも載せてみた。
バレエじみた大振りな手の動きと廻転が多くを占めるが、
面白いのは、二人以上での踊りで腕の動きが連結するとき。
一人一人に、あるいは全体に置かれがちな焦点を、
一人一人の間へとずらす、この面白さに、素朴に驚かされた。
なおアーカイヴにはパリのバージョンがあり、これも魅入ってしまうが、
多くがエッフェル塔とノートルダムなのには、
ステレオタイプ差が見え隠れして、残念だった。
舞台は産業革命後のロンドン。
少し前に読んだ『ドラキュラ』と同じ時代と舞台。
『ドラキュラ』がアッパーミドルを中心に展開されたのに対し、
ブレヒトは乞食たちを題材に採った。
現実を視るという意味では、明らかにブレヒトのほうが
嗅覚があるように思われる。
本作は叙事詩だ。これは一読すればすぐに知れる。
すぐに把握できるキャラクター同士が
内面の葛藤なくストーリーに翻弄される。
おかしいのは、それが「当世」の乞食たちである点。
ブレヒトといえば「異化効果」、
それはあまりよくわからなかったが、
妙ちくりんに神格化することで現実に新鮮味を与える
ということなら、そうなのだろう。
社会批判の鋭さに唸った。
「この世の持てる奴らは、貧困をつくり出すことはできるくせに、
貧困を見てはいられない」(p.160)とか、
「我が国の裁判は賄賂なんかで動かせません。
どんなに金を積んだって、あの裁判官たちが正しい判決をするように
買収することはできませんよ」(p.164)とか。
百年後の今もそうじゃないですか!
・UNIQLOCK
偶然見つけて惹かれたので、このブログにも載せてみた。
バレエじみた大振りな手の動きと廻転が多くを占めるが、
面白いのは、二人以上での踊りで腕の動きが連結するとき。
一人一人に、あるいは全体に置かれがちな焦点を、
一人一人の間へとずらす、この面白さに、素朴に驚かされた。
なおアーカイヴにはパリのバージョンがあり、これも魅入ってしまうが、
多くがエッフェル塔とノートルダムなのには、
ステレオタイプ差が見え隠れして、残念だった。
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