気になる記事があったので、読んだ。
翻訳を下に載せておく。
なお、下の村上理解は相当にひどい代物だと思う。
村上にアメリカ文学の影響を認められるのは
おそらく最初期だけだ。
読む体験としての、村上の特異さは、むしろ、
「他者の不在」としてよく挙げられるような均一な世界観が
現代に非常に近しいからなのではないか。
小説の舞台で物語が繰り広げられるだけで
世界をすいすい泳いでいるような全能の感覚
(これを「セカイ系」として分析した評論が
『群像』の新人賞を獲って載ってた気がする)、
これこそが村上人気なのだと思う。
村上春樹が書こうとしてきた態度の変化、つまり
デガジュマンからアンガジュマンへの移行は、
『羊をめぐる冒険』で決定的となった。
このことも、加えて関係しているように私は思っている。
日本文学はいまだにエギゾチックな日本文化として
読まれている、ということなのだろうか。
悪いとは云わない。
フランス小説をおフランスに浸るために
読む人も少なくないはずだ。
しかし、フランス知識人を気負って
「書物帝国」というブログまで連載している身が
これでは、ちょっと案じてしまう。
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原文(フランス語):« Murakami est trop “cool” »
http://passouline.blog.lemonde.fr/2009/12/24/murakami-est-trop-cool/
ムラカミはクールすぎる
「売れないベストセラーほど悲しいものはない」とは、編集者ロベール・ラフォンの常套句だ。矛盾したような一言で、問題の核心を突いている。考えすぎはよくない。『Books』誌が「ベストセラーの世界の旅」として出した別冊(97ページ、7.5ユーロ)を読めば、なるほどそうか、とわかるだろう。『Courrier international』誌で定評ある原則によればこの常套句は、ある世界的な現象の理由として、他にも至るところで見つかったのだ。この題材に(歴史的・社会学的に)調査や思索を加えるよりも例を一つずつ挙げた方が明らかに興味深いし、それは驚くようなことではないだろう。ハーラン・コーベンの機械もの、シャルロット・ロシュのポルノっぽいヒット作、カルロス・サフォンの大衆文学作品、アモス・オズのパルチザンもの、ファレド・アル・ハミッシの社会小説、余華(ユー・フア)の謎めいた作品、シコ・ブアルキの詩的なもの、フレッド・バルガスのいらいらする作品。アイン・ランドのご都合主義的なヒット作、あるいは、チャベス大統領が宣伝してくれたおかげで売れたエドゥアルド・ガレアーノの『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』も、最も不測だったとして忘れてはならないだろう。我々としては『文体の諸要素』(ストランク、ホワイトの共著)と同じく、アメリカのテレビ福音主義者の作品を、とびきりの地位に置いているのだ。『文体の諸要素』は著述マニュアルであり、莫大な売れ行きを示しているとはいえ、「アメリカ人作家の教科書」と表現する気は我々にはさらさらない(もしそうなら、アメリカ文学はなんと退屈になってしまっていることか)。世界中の出版物から極上の文筆を集めたこの豪華な別冊から村上のケースを抜萃して、長々と続けることとしよう。というのは、この日本人作家の世界的な成功をいつも私は懐疑的に見ているからだ。日本文学者だからというわけでは勿論ない。漱石、三島、川端、大江、そして谷崎(代表作『陰翳礼讃』のためだけかもしれないが)に再び浸り、彼らが現代文学にもたらしたものを思い返すだけで充分だ。しかし村上春樹は正直云って……『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『ノルウェイの森』(註:フランス語題はそれぞれ『時の終わり』『海辺のカフカ』『不可能のバラード』)が悪いというわけではなく、それどころではない。そうではなくて、彼の世界観が作品内の都市の同郷人のそれと際限なく共通なのだ。新作の度に、日本でも国外でも数百万部が売れる。最新作はこの前の5月に東京で出版された『1Q84』だが、これも同じ路を辿った。作家にして崇拝対象でもある、とみなされることはあまりない。まめにジョギングに定期的に参加するというよい趣味があるためだ。
『Books』誌には「Electoric book review」に載った三浦玲一の手になる記事が再掲されている。村上をより明瞭に見ることが本当に可能となる記事だ。東京大学の英米文学の教授(註:実際は一橋大学准教授)で、彼は記事内で、村上春樹の小説における作品のメカニズムを、光を当てるようにして分解している。80年代から日本で成功を収めたアメリカ文学と、村上人気の二つの現象があり、どちらが先行とも分からない、と彼は仮定する。アメリカ文学の古典作品を知らなくても、村上や他に引き合いに出された作家(スコット・フィッツジェラルド、ジョン・アーヴィング、ポール・オースター、トルーマン・カポーティ、レイモンド・カーヴァー、ティム・オブリエン、リチャード・パワーズなど。それらを「お楽しみで」翻訳してまで)を学生達は「クールだ」と判断したということから、彼はこの問題を理解している。三浦教授はこう語る。「日本ではパルコという流行の服のチェーン店がどれ構わず本も売り始めた。基本的にはアメリカ文学の翻訳や原書で、それは若い消費者がすでにアメリカ音楽に渇望していることを見越してだった。マーケティングが残りをやった」。つまり、三浦教授によると村上は「アメリカ小説を書く日本人作家」であり、「自国文化の大使」だった著名な先輩作家たちとは反対なのだ。作品全体にわたる分析には説得力がある。徹頭徹尾、生国を捨て、逆説的ながらよそ者の身体として捉えられるのは、そこでは明らかだ。質にも伍して重要な「洗練された感覚」を超えて、村上の価値ある商標は別のところにある。つまり、「国際化の文化的側面が現代文学の国家的・国民的枠組みを侵食している時代において、どんどん有効性を失ってゆく国家的・国民的な枠組みを忠実に描き出している。世界的な村上人気はこのことに基づくように思われる」(三浦教授)。村上の文化的な反国家・反国民主義は嫌われようとしてではなく、そのように云うための緩徐法でさえある。国民性なき作家にして、1945年の敗戦とそれが引き起こしたトラウマという悲劇的な感情を受けつけず、自国の批評家受けのほとんどしない作家なのだ。大江健三郎が1986年の今日にデューク大学で講演をしたときの最初の言葉は、まだその感情豊かに響いている。「日本文学のある崩壊の感情を抱いて働く日本人作家として、私はあなたたちに向かって来ているのです……」。
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