・柳田国男『木綿以前の事』
木綿が日本に入ったのは江戸時代の初期で、
新田開発がさかんに行われ始めるより数十年しか前ではない。
それ以前は主にあのごわごわしたズタ袋みたいな麻を着たり、
土地によっては藤や楮などを着ていたらしい。
土地ごとの様式の違いは一目瞭然だったことだろう。
様式が違えば言葉も違う。
後朝を「きぬぎぬ」と訓読するように、貴族は絹を着ていただろう。
木綿は北関東までを北限に栽培できた。
地域をまたがって流通すれば、瞬く間に商品となる。
これが契機となって農家は商品作物に寝覚めたろうし、
栽培の叶わなかった越国や陸奥は
相変わらず出稼ぎ(雇=「ユイ」)に多く出た。
また、むしろ雪国では吸収性のある木綿より麻のほうが都合よく
明治期になってからも製紙工場は麻の仕入れに
北日本からの麻布の古着をも充てたらしい。
精米方法が手杵から横杵へ移る過程、餅のいろいろ、
酒をめぐるハレのありようの推移、などなど、民俗学は本当に多様。
やはり日本は、一括りにはできない。
同じ歴史でも、学校で習う政治史のつまらなさとは雲泥の差だ。
蕉門の連歌を多く引くあたりや、あるいはただ文章が詩的。
もとは文学を志した生い立ちを存分に伺わせる。
・ルイジ・ピランデルロ「作者を探す六人の登場人物」
人間存在の孤独さ、なんて云ったら当世風すぎる解釈だろうけれど、
演劇批判なのは間違いない。
演じるということを批評家や演出家があれこれ論じるより先に
舞台と役者と小道具があって、という演劇の構造に沿って
演劇というものが本質的に孕む問題点を論っている
(だからなのか、ちょっとベケットっぽい)。
喜劇あるいは悲劇を志向しながらも
どっちつかずのひきつった笑いしか残さない、
材の取りようの巧みさにもすごい。
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