8.12.09

武田泰淳「ひかりごけ」

人肉を食べるということを題材にした文学作品としてあまりに有名。
しかし二部構成で、後半が戯曲とは知らなかった。
罪に問われた法廷で、船長は「我慢している」と心境を吐露する。
我慢とは何なんだろう。

船長は目の前に社会的に保障された「生」を断たれて
なおも生き延びたことで、生の残酷さを知った。
死の犇めく世界を、懸命に手を伸ばして摑んだ、野獣の生。
その「生」のなまなましい状況は、ひとたび社会へ戻ると隠蔽されていて、
それゆえ、船長は裁判にかけられる。
残酷な生の普遍性を、彼の特異な罪として訴追される。
一身に「生」の重みと残酷さを引き受けて、
しかしそれは事実である、という閉塞。
それをただただ「我慢している」という。
生へ費やされた無数の死を引き受け、
だから船長はキリストのように死んでゆく。
そしてなお、「私をみてください」と云う。

まぁ、解釈としてすぐに思いつくのはそんなところだろう。
戯曲部分の演出を指示するト書きが、この解釈を盛り上げてくれる。

あるいは、こうかもしれない。

作品の冒頭は本当に長閑だ。
当時は国交のないソ連の領土として国後島が見える知床。
そこで事件を知り、村史を繙く。
そこまでは、太平洋戦争から敗戦、あるいはアイヌの話も、
話の筋に関わるともなく挿入される。
おそらく鍵になるのは、柔和で若い小学校校長の話。
海でも山でも九死に一生を得て、
だがそんな雰囲気も持たせずに飄々と生きているのだが、
事件についておかしそうに語り、
筆者にひかりごけを見せてくれる人物でもある。
事件へと語りを繋げる人物なのだ。
戯曲内でひかりごけは、罪を犯した者の光背のように光る。
そして、校長と来た洞窟では、ひかりごけは
見る角度によって、どの場所も光るのだ。

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