短篇二篇。
どちらも文章はとても口語的で、するすると読めるし、
やはり口語じゃないと伝わらなそうな
微妙なニュアンスを汲み取った表現が面白い。
特徴的だな、と思ったのは、話者がときどき巧妙にすり替わること。
登場人物のみなさんの声が聞ける、とでもいおうか。
しかし、やはり日常のサブに徹しているなぁ。
現代の(ゼロ世代の)語りってのは、こうなってしまうのだろうか。
24.1.10
アルベルト・モラーヴィア『無関心な人々』、ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』、川上美映子『ヘヴン』
○アルベルト・モラーヴィア『無関心な人々』
この完成度で処女作、ってのがちょっと信じ難い。
主人公の苦悩の元凶であり、主題である「無関心」ってのは、
実存の不安、と云ってしまえばしまいなんだろう。
でも、主題も意識も情景も、細部まで豊かに描かれていて、
本当に面白かった。
特に、母親マリーアグラツィアの妄想狂的な人物像。
また、鏡のイメージがときどき出てきて、
それが象徴的だった。
○ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』
和光にて一緒に観ていた先輩たちとともに、思わず拍手。面白い!
滑り出しからして惹き込まれるし、
プロットも、カシッ、カシッ、と嵌ってゆく。
何より、題材が大きい。観ていて、手に汗。詰まる息。
私小説崩れでしかない、せせこましい莫迦話にまみれた邦画群が
霧のように霞んで、見えなくなってしまう。
過去の映像の反復と、現在を重ねる手法。
現在が過去をたえず参照する形。
これは、いいね。
○川上美映子『ヘヴン』
ストーリーが澱みなく、するすると流れる。
だが文体が(村上春樹×2+川上弘美×0.5)÷3て感じ。2.5ではなく3で割る。
群像だったかの対談で作者は、
標準語で書いたんですね、てなことを訊かれてたが、
これは大阪弁で書かれては困るタイプの小説だと思った。
出てくる西暦からして、題材の世代は我々の一回り上だ。
とすると、中野富士見中あたりの一連のいじめの社会問題化が題材だろうか。
思ったこと。
長篇って、あらすじではなく細部のイメージだな、と思った。
そのイメージが、大衆受けするマニアックさなのか、
あるいは、やっぱりマニアックなマニアックさなのか、
このどっちなのかって、大きいと思う。
そして、この長篇は、自分にとってはさほど……だった。
森絵都のカラフルとかのほうが、自分には強烈だった
(読んだ時の年代の多感さは、間違いなく拘ると思うけどね)。
この完成度で処女作、ってのがちょっと信じ難い。
主人公の苦悩の元凶であり、主題である「無関心」ってのは、
実存の不安、と云ってしまえばしまいなんだろう。
でも、主題も意識も情景も、細部まで豊かに描かれていて、
本当に面白かった。
特に、母親マリーアグラツィアの妄想狂的な人物像。
また、鏡のイメージがときどき出てきて、
それが象徴的だった。
○ダニー・ボイル『スラムドッグ$ミリオネア』
和光にて一緒に観ていた先輩たちとともに、思わず拍手。面白い!
滑り出しからして惹き込まれるし、
プロットも、カシッ、カシッ、と嵌ってゆく。
何より、題材が大きい。観ていて、手に汗。詰まる息。
私小説崩れでしかない、せせこましい莫迦話にまみれた邦画群が
霧のように霞んで、見えなくなってしまう。
過去の映像の反復と、現在を重ねる手法。
現在が過去をたえず参照する形。
これは、いいね。
○川上美映子『ヘヴン』
ストーリーが澱みなく、するすると流れる。
だが文体が(村上春樹×2+川上弘美×0.5)÷3て感じ。2.5ではなく3で割る。
群像だったかの対談で作者は、
標準語で書いたんですね、てなことを訊かれてたが、
これは大阪弁で書かれては困るタイプの小説だと思った。
出てくる西暦からして、題材の世代は我々の一回り上だ。
とすると、中野富士見中あたりの一連のいじめの社会問題化が題材だろうか。
思ったこと。
長篇って、あらすじではなく細部のイメージだな、と思った。
そのイメージが、大衆受けするマニアックさなのか、
あるいは、やっぱりマニアックなマニアックさなのか、
このどっちなのかって、大きいと思う。
そして、この長篇は、自分にとってはさほど……だった。
森絵都のカラフルとかのほうが、自分には強烈だった
(読んだ時の年代の多感さは、間違いなく拘ると思うけどね)。
16.1.10
ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』、黒沢清『ニンゲン合格』
・ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』
科学は技術とは別物、という態度は
ヨーロッパ型教養人、って感じ。
科学すなわち応用技術、常に進歩あるのみ、
という科学の態度と、資本主義の類似性の指摘。
映画、テレビ、インターネットによる
地理感の喪失、加えてニュートン的絶対時間感の喪失
(テレビ的なカットや編集の多用によって
均一に時間が流れる平衡感覚を失うことを、
単なるパラダイム移行と片づけられるのだろうか)。
そして世界は均一化へ向かう。
差異を価値とし、それを埋め合わせながら
新たな差異を開拓し、商品化することが
資本主義の本質である以上、
これは避けられない事態だ。
しかし、脳や思考といった最後の「未開」が
そのターゲットとされ、クローンや洗脳技術として
埋められてゆく。
生命は均一な状態からエントロピーを摂取することで
環境変化に対応し、生き延びてきた。
それをテクノロジーが均一化すればどうなるのか…。
実際、単一市場という資本主義の最終目的にして
非常に暴力的な非人間的な場は、
アジア通貨危機、株価の世界的暴落として
すでに現出している。
とまぁ、こんな内容。
トポスの喪失はよくわかるが、
速度的なパラダイムは、新しい見方だった。
現代藝術や民主主義政治のパフォーマンス化は、
加速度的な時間観(「もっと早く、もっと効率よく」)
を導入すれば、とてもわかりやすい。
・黒沢清『ニンゲン合格』
思ってたより淡々としてて、味わい深かった。
静かで冷たそうに時間は流れるけど、
人間(じんかん)に生きてこその人間(にんげん)だからね。
科学は技術とは別物、という態度は
ヨーロッパ型教養人、って感じ。
科学すなわち応用技術、常に進歩あるのみ、
という科学の態度と、資本主義の類似性の指摘。
映画、テレビ、インターネットによる
地理感の喪失、加えてニュートン的絶対時間感の喪失
(テレビ的なカットや編集の多用によって
均一に時間が流れる平衡感覚を失うことを、
単なるパラダイム移行と片づけられるのだろうか)。
そして世界は均一化へ向かう。
差異を価値とし、それを埋め合わせながら
新たな差異を開拓し、商品化することが
資本主義の本質である以上、
これは避けられない事態だ。
しかし、脳や思考といった最後の「未開」が
そのターゲットとされ、クローンや洗脳技術として
埋められてゆく。
生命は均一な状態からエントロピーを摂取することで
環境変化に対応し、生き延びてきた。
それをテクノロジーが均一化すればどうなるのか…。
実際、単一市場という資本主義の最終目的にして
非常に暴力的な非人間的な場は、
アジア通貨危機、株価の世界的暴落として
すでに現出している。
とまぁ、こんな内容。
トポスの喪失はよくわかるが、
速度的なパラダイムは、新しい見方だった。
現代藝術や民主主義政治のパフォーマンス化は、
加速度的な時間観(「もっと早く、もっと効率よく」)
を導入すれば、とてもわかりやすい。
・黒沢清『ニンゲン合格』
思ってたより淡々としてて、味わい深かった。
静かで冷たそうに時間は流れるけど、
人間(じんかん)に生きてこその人間(にんげん)だからね。
11.1.10
秋葉原の雑感
欲望の街、秋葉原に初めて行った。
なぜ欲望なのかは、現在ポール・ヴィリリオを読んでいるので、
のちのち詳しく書くだろう。
ここでは雑感を。
・音ゲー
友人が華麗に披露してくれた音ゲーを見ながら、漠然と、
カイヨワの遊びの四分類
(アゴン=競争、アレア=偶然、ミミクリ=模倣、イリンクス=目眩)
の、どれに当たるか考えた。
提示される形式にできるかぎり似せてインプットを操作する。
よって、ミミクリだろう。
第一義的にはアゴンではない。
点数化という乱暴な一元化システムを実装すれば、
ほぼあらゆる遊びに競争を導入できる。
逆にいえば、現代はあらゆる事象がアゴン的だ。
受験も人事考課もゲームも、多様であるはずの容姿や性格も
偏差値、点数、ランキング、等の下で
競争にさらされ、一本化されてしまう。
リズムを第五として提唱する人もいる
(ナムコ株式会社・岩谷徹)
が、そこまでカイヨワの分類が脆弱と思えないし、
この四分類は五感とは何の関係もないのに
聴覚だけ取り出すのはおかしい。
・オタク文化の形式と受容
オタク文化が「サブ」カルチャーなのは、
現実の下位にオタク文化があるという意味で、正しい。
(ハイ・カルチャーが正統、というのは違う。
オタク文化はハイ・カルチャーの下位にはない)
オタク文化は現実に対する巨大なミミクリであるから、
現実を意識せずにはオタク文化は存在し得ない
(オタク文化は「リア充」を意識せずにはいられない)。
しかし、現実とヴァーチャルのこの上下関係は
必ずしも固定的ではなく、クーロン力のように、
どちらがどちらを引いているとも云い難い状況である。
西洋文化はかつて、東洋をオリエンタリズムとして
初めは瞠目され、受容した。
これと同じような同化が近く行われるだろう。
オタク文化は、現実での生き方の一手法として認められ、
気にも留められない一文化と化すだろう。
常に新たな差異が作られ、同化される。これは一般論だ。
なぜ欲望なのかは、現在ポール・ヴィリリオを読んでいるので、
のちのち詳しく書くだろう。
ここでは雑感を。
・音ゲー
友人が華麗に披露してくれた音ゲーを見ながら、漠然と、
カイヨワの遊びの四分類
(アゴン=競争、アレア=偶然、ミミクリ=模倣、イリンクス=目眩)
の、どれに当たるか考えた。
提示される形式にできるかぎり似せてインプットを操作する。
よって、ミミクリだろう。
第一義的にはアゴンではない。
点数化という乱暴な一元化システムを実装すれば、
ほぼあらゆる遊びに競争を導入できる。
逆にいえば、現代はあらゆる事象がアゴン的だ。
受験も人事考課もゲームも、多様であるはずの容姿や性格も
偏差値、点数、ランキング、等の下で
競争にさらされ、一本化されてしまう。
リズムを第五として提唱する人もいる
(ナムコ株式会社・岩谷徹)
が、そこまでカイヨワの分類が脆弱と思えないし、
この四分類は五感とは何の関係もないのに
聴覚だけ取り出すのはおかしい。
・オタク文化の形式と受容
オタク文化が「サブ」カルチャーなのは、
現実の下位にオタク文化があるという意味で、正しい。
(ハイ・カルチャーが正統、というのは違う。
オタク文化はハイ・カルチャーの下位にはない)
オタク文化は現実に対する巨大なミミクリであるから、
現実を意識せずにはオタク文化は存在し得ない
(オタク文化は「リア充」を意識せずにはいられない)。
しかし、現実とヴァーチャルのこの上下関係は
必ずしも固定的ではなく、クーロン力のように、
どちらがどちらを引いているとも云い難い状況である。
西洋文化はかつて、東洋をオリエンタリズムとして
初めは瞠目され、受容した。
これと同じような同化が近く行われるだろう。
オタク文化は、現実での生き方の一手法として認められ、
気にも留められない一文化と化すだろう。
常に新たな差異が作られ、同化される。これは一般論だ。
10.1.10
今村昌平『にっぽん昆虫記』
新と旧、男と女、売春婦と元締、都と鄙、
入れ替わり立ち替わりしながら身を立て、滅ぼしてゆく。
しかも、立場を変えて同じ科白が繰り返されるほど、組み立ては繊細。
ここまで濃密なのは、そして、性へのしがみつきは、
今村昌平ならではなのか。素晴らしかった。
信子との最中に唐沢が入れ歯を落とすシーンは
思わず眼を背けるほどの異彩を放った。
これまで見た映画のシーンの中で、
最もグロテスクだったかもしれない。
入れ替わり立ち替わりしながら身を立て、滅ぼしてゆく。
しかも、立場を変えて同じ科白が繰り返されるほど、組み立ては繊細。
ここまで濃密なのは、そして、性へのしがみつきは、
今村昌平ならではなのか。素晴らしかった。
信子との最中に唐沢が入れ歯を落とすシーンは
思わず眼を背けるほどの異彩を放った。
これまで見た映画のシーンの中で、
最もグロテスクだったかもしれない。
9.1.10
西の感性、東の論理
『犬丸正寛の相場格言』を漫然と読んでいたら、
「風が吹けば桶屋が儲かる」じみた因果律が並び、
けっこう面白かった。
「関西の空買い、関東の空売り」
空売りに勝者なしと云われることを突き合わせると、
北浜と兜町の仕手戦で勝つのはまず関西だったようだ。
株は相場であり同時にファンダメンタルだが、
力関係はこうなっている、という証左なのかもしれない
(規制が整うにつれて栄枯衰退はあろうが)。
「西の感性、東の論理」というのは、
実際に感じるところだ。
西はまず場とノリありきで、
この一体感は東では大きく薄まるし、西のそれとは若干に異質だ。
「風が吹けば桶屋が儲かる」じみた因果律が並び、
けっこう面白かった。
「関西の空買い、関東の空売り」
空売りに勝者なしと云われることを突き合わせると、
北浜と兜町の仕手戦で勝つのはまず関西だったようだ。
株は相場であり同時にファンダメンタルだが、
力関係はこうなっている、という証左なのかもしれない
(規制が整うにつれて栄枯衰退はあろうが)。
「西の感性、東の論理」というのは、
実際に感じるところだ。
西はまず場とノリありきで、
この一体感は東では大きく薄まるし、西のそれとは若干に異質だ。
8.1.10
ハンナ・アレント『責任と判断』
アイヒマンおよびその責任・世論についての論説が主。
他には、リトルロック高校事件やニクソン政権についての論説。
ほぼすべての個人が組織の歯車に収斂される現代において
どのように責任というものを追及できるのか、
そして、世論というものが如何に流動的であるかを、事例的に語る。
多分に示唆的であり、付箋を附しつつ読んだ。
下はメモ。
「道徳哲学のいくつかの問題」:
・個人が組織の歯車であろうと、
裁判は常に個人としての振る舞いを要求し、
組織内という「状況」は情状酌量として、後置される。
個人はツァイトガイストの一部、というような弁解は通用しない。
・(世論の誤解について)
ある事件が告発される際、悪いのは罪を犯した者ではなく
それを告発した者である、と世論は考えがち
(「身からでたさび」にも同様の指摘あり)。
【私見】
多くのバッシングはこのように矛先を誤ってなされる。
安寧だった意識に不純物を置かれ、煩わされたため、という
眠りを妨げられた龍のような反感がそうさせるのか。
ならば人は、村社会的意識から出られないのか。
・ソクラテスの「社会全体に背くより、自分に背くほうがまし」
という道徳観から、道徳の主観性(主観性ながら人類共通と思しい)
について。
・「世界は滅ぶとも、正義はなされるべきか」(ラテン語の格言)に続いて、
ナチスの犯罪性の根源を「合法的に法を道徳から引き剥がした:点に求める。
ヒトラーが思考の中枢であり他は官僚から一平卒まですべて歯車であった、
この服従の官僚機構。
・意志することとできることが同一であるとき、人は快楽を感じる(ニーチェ)。
(この箇所では、ニーチェ『力への意志』を要約しているだけという印象を受ける)
「思考と道徳の問題」:
・ニーチェ「神は死んだ」について。
統一的道徳観とその強制力の合一として理解されていた神を
瓦解させた、と考えると、
ニーチェの謂いは、神が死んだということではなく
「神は力を失った」のだ、という。
【私見】
デカルトやスピノザのような演繹的手法の哲学で
神がその初めに置かれるのは、
当時は絶対的だった道徳観の根源に神がある、ということだろう。
・哲学、形而上学、倫理学について。
前期ウィトゲンシュタインの結論(「語りえぬものは…」)についての解釈。
思考する媒体としての言語と、生きる媒体としての環境も
不一致を説明するための道具が、哲学であり形而上学である。
【私見】
ウィトゲンシュタインは哲学を解決させたと考えた。
このうち、道徳哲学はどうなったの?
「裁かれるアウシュヴィッツ」:
・アイヒマンの裁判で法廷は「自分の手で殺人の道具を使う人々から離れるほど、
責任の大きさは強まる」と宣言した。
法(あるいは道徳)と、組織内での法との間での、鬩ぎあい。
【私見】
上記の法廷の謂いは、官僚主義のピラミッド型を
責任という面から捉え直しただけで、
だからこそ疑問の余地のない指摘なのではないだろうか。
「身から出たさび」:
マーケティングや広告が、消費者の求めるもの(需要)ではなく
生産者の売ろうとするもの(供給)に立脚しているという消費社会の現状。
この、「飽食」状態は、消費=休暇が生産=労働を上回るという漸進的な推移により、
向かう先はオートメーション化である(消費=休暇が、生産=労働を絶対的に圧倒する)。
この変化を上昇志向の物語として捉えれば、
資本主義も共産主義も実は同一である
(労働者の生活がずいぶんと改善された今日を
「資本主義的なルートで共産主義が達成されている」
と見ることも、不可能ではないだろう)。
そして、共産主義にとって転向が脅威だったように(物語から醒めた、という意味で)、
アメリカにとって脅威なのは、アメリカが「富める自由の国」であるという
虚構=物語から醒めることなのだ。
アメリカを、富める強国というイメージ統一に成功した「マーケティング国家」と捉え、
ウォーターゲート事件、ベトナム戦争といった世論操作という犯罪は
法ではなくイメージの綻び修正を優先させた結果であると、アレントは捉えている。
【私見】
変化を好まない政治が、変化を好む経済を抱え込むのは、
政治が統一性を宣伝するためであるが、
変化による経済活動を保護し、寄生する(税収を得る)ため
であるように思う(制度学派的な見方かもしれないが)。
やはり、政治=国家の核心は官僚(の安泰さ)なのか。
他には、リトルロック高校事件やニクソン政権についての論説。
ほぼすべての個人が組織の歯車に収斂される現代において
どのように責任というものを追及できるのか、
そして、世論というものが如何に流動的であるかを、事例的に語る。
多分に示唆的であり、付箋を附しつつ読んだ。
下はメモ。
「道徳哲学のいくつかの問題」:
・個人が組織の歯車であろうと、
裁判は常に個人としての振る舞いを要求し、
組織内という「状況」は情状酌量として、後置される。
個人はツァイトガイストの一部、というような弁解は通用しない。
・(世論の誤解について)
ある事件が告発される際、悪いのは罪を犯した者ではなく
それを告発した者である、と世論は考えがち
(「身からでたさび」にも同様の指摘あり)。
【私見】
多くのバッシングはこのように矛先を誤ってなされる。
安寧だった意識に不純物を置かれ、煩わされたため、という
眠りを妨げられた龍のような反感がそうさせるのか。
ならば人は、村社会的意識から出られないのか。
・ソクラテスの「社会全体に背くより、自分に背くほうがまし」
という道徳観から、道徳の主観性(主観性ながら人類共通と思しい)
について。
・「世界は滅ぶとも、正義はなされるべきか」(ラテン語の格言)に続いて、
ナチスの犯罪性の根源を「合法的に法を道徳から引き剥がした:点に求める。
ヒトラーが思考の中枢であり他は官僚から一平卒まですべて歯車であった、
この服従の官僚機構。
・意志することとできることが同一であるとき、人は快楽を感じる(ニーチェ)。
(この箇所では、ニーチェ『力への意志』を要約しているだけという印象を受ける)
「思考と道徳の問題」:
・ニーチェ「神は死んだ」について。
統一的道徳観とその強制力の合一として理解されていた神を
瓦解させた、と考えると、
ニーチェの謂いは、神が死んだということではなく
「神は力を失った」のだ、という。
【私見】
デカルトやスピノザのような演繹的手法の哲学で
神がその初めに置かれるのは、
当時は絶対的だった道徳観の根源に神がある、ということだろう。
・哲学、形而上学、倫理学について。
前期ウィトゲンシュタインの結論(「語りえぬものは…」)についての解釈。
思考する媒体としての言語と、生きる媒体としての環境も
不一致を説明するための道具が、哲学であり形而上学である。
【私見】
ウィトゲンシュタインは哲学を解決させたと考えた。
このうち、道徳哲学はどうなったの?
「裁かれるアウシュヴィッツ」:
・アイヒマンの裁判で法廷は「自分の手で殺人の道具を使う人々から離れるほど、
責任の大きさは強まる」と宣言した。
法(あるいは道徳)と、組織内での法との間での、鬩ぎあい。
【私見】
上記の法廷の謂いは、官僚主義のピラミッド型を
責任という面から捉え直しただけで、
だからこそ疑問の余地のない指摘なのではないだろうか。
「身から出たさび」:
マーケティングや広告が、消費者の求めるもの(需要)ではなく
生産者の売ろうとするもの(供給)に立脚しているという消費社会の現状。
この、「飽食」状態は、消費=休暇が生産=労働を上回るという漸進的な推移により、
向かう先はオートメーション化である(消費=休暇が、生産=労働を絶対的に圧倒する)。
この変化を上昇志向の物語として捉えれば、
資本主義も共産主義も実は同一である
(労働者の生活がずいぶんと改善された今日を
「資本主義的なルートで共産主義が達成されている」
と見ることも、不可能ではないだろう)。
そして、共産主義にとって転向が脅威だったように(物語から醒めた、という意味で)、
アメリカにとって脅威なのは、アメリカが「富める自由の国」であるという
虚構=物語から醒めることなのだ。
アメリカを、富める強国というイメージ統一に成功した「マーケティング国家」と捉え、
ウォーターゲート事件、ベトナム戦争といった世論操作という犯罪は
法ではなくイメージの綻び修正を優先させた結果であると、アレントは捉えている。
【私見】
変化を好まない政治が、変化を好む経済を抱え込むのは、
政治が統一性を宣伝するためであるが、
変化による経済活動を保護し、寄生する(税収を得る)ため
であるように思う(制度学派的な見方かもしれないが)。
やはり、政治=国家の核心は官僚(の安泰さ)なのか。
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