アイヒマンおよびその責任・世論についての論説が主。
他には、リトルロック高校事件やニクソン政権についての論説。
ほぼすべての個人が組織の歯車に収斂される現代において
どのように責任というものを追及できるのか、
そして、世論というものが如何に流動的であるかを、事例的に語る。
多分に示唆的であり、付箋を附しつつ読んだ。
下はメモ。
「道徳哲学のいくつかの問題」:
・個人が組織の歯車であろうと、
裁判は常に個人としての振る舞いを要求し、
組織内という「状況」は情状酌量として、後置される。
個人はツァイトガイストの一部、というような弁解は通用しない。
・(世論の誤解について)
ある事件が告発される際、悪いのは罪を犯した者ではなく
それを告発した者である、と世論は考えがち
(「身からでたさび」にも同様の指摘あり)。
【私見】
多くのバッシングはこのように矛先を誤ってなされる。
安寧だった意識に不純物を置かれ、煩わされたため、という
眠りを妨げられた龍のような反感がそうさせるのか。
ならば人は、村社会的意識から出られないのか。
・ソクラテスの「社会全体に背くより、自分に背くほうがまし」
という道徳観から、道徳の主観性(主観性ながら人類共通と思しい)
について。
・「世界は滅ぶとも、正義はなされるべきか」(ラテン語の格言)に続いて、
ナチスの犯罪性の根源を「合法的に法を道徳から引き剥がした:点に求める。
ヒトラーが思考の中枢であり他は官僚から一平卒まですべて歯車であった、
この服従の官僚機構。
・意志することとできることが同一であるとき、人は快楽を感じる(ニーチェ)。
(この箇所では、ニーチェ『力への意志』を要約しているだけという印象を受ける)
「思考と道徳の問題」:
・ニーチェ「神は死んだ」について。
統一的道徳観とその強制力の合一として理解されていた神を
瓦解させた、と考えると、
ニーチェの謂いは、神が死んだということではなく
「神は力を失った」のだ、という。
【私見】
デカルトやスピノザのような演繹的手法の哲学で
神がその初めに置かれるのは、
当時は絶対的だった道徳観の根源に神がある、ということだろう。
・哲学、形而上学、倫理学について。
前期ウィトゲンシュタインの結論(「語りえぬものは…」)についての解釈。
思考する媒体としての言語と、生きる媒体としての環境も
不一致を説明するための道具が、哲学であり形而上学である。
【私見】
ウィトゲンシュタインは哲学を解決させたと考えた。
このうち、道徳哲学はどうなったの?
「裁かれるアウシュヴィッツ」:
・アイヒマンの裁判で法廷は「自分の手で殺人の道具を使う人々から離れるほど、
責任の大きさは強まる」と宣言した。
法(あるいは道徳)と、組織内での法との間での、鬩ぎあい。
【私見】
上記の法廷の謂いは、官僚主義のピラミッド型を
責任という面から捉え直しただけで、
だからこそ疑問の余地のない指摘なのではないだろうか。
「身から出たさび」:
マーケティングや広告が、消費者の求めるもの(需要)ではなく
生産者の売ろうとするもの(供給)に立脚しているという消費社会の現状。
この、「飽食」状態は、消費=休暇が生産=労働を上回るという漸進的な推移により、
向かう先はオートメーション化である(消費=休暇が、生産=労働を絶対的に圧倒する)。
この変化を上昇志向の物語として捉えれば、
資本主義も共産主義も実は同一である
(労働者の生活がずいぶんと改善された今日を
「資本主義的なルートで共産主義が達成されている」
と見ることも、不可能ではないだろう)。
そして、共産主義にとって転向が脅威だったように(物語から醒めた、という意味で)、
アメリカにとって脅威なのは、アメリカが「富める自由の国」であるという
虚構=物語から醒めることなのだ。
アメリカを、富める強国というイメージ統一に成功した「マーケティング国家」と捉え、
ウォーターゲート事件、ベトナム戦争といった世論操作という犯罪は
法ではなくイメージの綻び修正を優先させた結果であると、アレントは捉えている。
【私見】
変化を好まない政治が、変化を好む経済を抱え込むのは、
政治が統一性を宣伝するためであるが、
変化による経済活動を保護し、寄生する(税収を得る)ため
であるように思う(制度学派的な見方かもしれないが)。
やはり、政治=国家の核心は官僚(の安泰さ)なのか。
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