31.7.10

森鷗外『渋江抽斎』

「歴史そのまま」を標榜して晩年に書かれ、
評価の分かれる作品であることは云うに及ばず。
歴史とは、有象無象の事象の羅列が一本の物語として編集された形である以上、
それが「そのまま」として無為自然の顔をしているのは矛盾している。
ならば「歴史そのまま」ってのはどういうことなんだろう、
という疑問から、この作品を手に取ることにした。

語りは、鷗外が古書の蒐集の過程で
渋江の蔵書印の多いことに気づくところから始まり、
その末裔との接触など、渋江抽斎の生きた痕跡を調べる過程が綴られる。
続いて、抽斎とその周辺の人々の氏、名、号、職業、石高などと来歴が語られ、
そしてようやく、人と人が動いて繋がってゆく。
紀伝のような記述だと思った。
それは、遺された書物や日記から過去を再現するからなのだろう。
実際、抽斎の死後に時が下って、存命の人々の描写となると、
人物像や言動はかなり息づいてくる。
ただ、それがおもしろいかどうかは、本当に素材次第になるんじゃないか…。
実際、抽斎の生き様は小官僚みたいでそんなに惹かれなかったが、
その妻の五百の話は面白かった。
でもそれは題材に面白いが「偶然」もぐり込んだだけだ。
小説にこの偶然性が許されるのか? それはないだろう。
小説のみならず、「話」には起伏のなさは許されない。
それでよいのか、ということだ。

29.7.10

中上健次『地の果て 至上の時』

すべてをお見通しの存在として君臨していた浜村龍造が弱まり、
他の登場人物が輝き出すという、多極化してばらばらになりそうな設定、
これを一本にまとめあげる力を、神話というのだろう。

秋幸と浜村龍造の立場の違いと同一性が浮き彫りにされながら、
終わり=円環の始まり に向かって進んでゆく一本の筋だけでは、
この厚みにはならない。
路地の消失と再現、開発の波、新興宗教、そして他の若い勢力の擡頭、
これらがどれ一つとっても濃い謂いを有していることが、
この厚みと、『枯木灘』に較べて一見遅い進行だ。

『百年の孤独』にまで神話的文学を求めなくとも、
本作が現代に神話を、あまりに現実が生々しい神話を、現出させている。
ヒントがささくれのようにあちこちに飛び出していて
どう分析してもおもしろい、だから当然ながら再読したくなる。

25.7.10

綿矢りさ「勝手にふるえてろ」、松本人志『しんぼる』

綿矢りさ「勝手にふるえてろ」

イチ(一宮)という、『蹴りたい背中』の蜷川に似た男子が出てきて、
主題もあんまり変わらない。
ただ、主人公が社会人になることによる
ありきたりな人間関係の諸問題が搦められる。
粗筋は非常に簡単。
イチといういじられキャラに恋したまま大人になった内気な女の子が
ニという別の平凡な男と付き合うのをようやく納得するまでの話だ。
世の凡百な人物像をネット検索で見つけて
そのまま持ってきたような登場人物はまぁさておき、
独白体で書かれた小説における主人公の思考の凡庸さは致命的だ。
文章が綴る感情を読まなくとも、そう考えてるんだろうな、ってのが読めちゃう。
だから、真剣に吐露されても、ふーん、って感じだし、
クライマックスもあまりカタルシス的には働かない。

ここまで書いてて、ほんとに自分は
綿矢りさのような狭く完結した小説は嫌いなんだなと思う。
井の中の蛙のような題材が世界をどのようであれ表象していること、
それが小説ってもんだろう。
日常を描くにしても、例えば保坂和志みたいな切り取り方がある。

ちょっと雑感。
平野啓一郎『顔のない裸体たち』を読んで、
傍系がない、という感想を抱いたのと同じ理由だが、
短篇に一本のストーリーを盛られ、
想部がストーリーの大きな下支えとなっている場合、
登場人物がほんとにそれだけの経験しかしてない哀れな方々、になってしまい、
厚みがないというか、読み応えがあんましなくなるきらいがあるような気がする。
枚数ゆえにそう思わせないほど細部を描けない、というのはあるかもしれないが、
回想ってのは要は、意味付けされて編集された過去、であって、
過去そのものではないから、なのだろう。


松本人志『しんぼる』

「で?」って感じ。
印象批評はいろいろできそうだけどね。

8.7.10

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』、平野啓一郎『顔のない裸体たち』

・ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』

移動の軸線に気を配って書いたという作者自身のあとがきからもわかるが、
とにかく放浪彷徨、移動が多い。
主人公H・Hが旧世界からの移民だし、
二度の結婚を経てロリータとのボヘミアン生活もそう。
旧世界では移動はその土地々々の意味を帯び過ぎてしまう。
新世界の未開の荒野だからこそ、
移動はノスタルジックな単なる空虚さに荒ぶのだ。
ニンフェット崇拝がいつの間にかロリータ固執に変じるのは
やはりH・Hが過去のみを向いた人間だからだろう。
それが物語、云い換えればアイデンティティとなる。
だから、物語はいつの間にかわずか三日という綻びを来して
現実と虚構の区別が曖昧になっても、なお終局を求めて走る。


・平野啓一郎『顔のない裸体たち』

読み物としては面白いけれど、題材といい人物のつくりといい、
当世もっともらしくて当たり障りがないと思った。
観念で物語を執拗に引っぱった感じ。
それゆえ描写は澱まず蛇行せずに粗筋をなぞってゆくし、
あまり印象に残る場面がない。

5.7.10

アラン・レネ『去年マリエンバートで』、マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』

アラン・レネ『去年マリエンバートで』

ちょっとわからない。
ストーリーもわからなかったし、
どこがどう折れ曲がり、過去と現在が切れているのか、
わからなかった。
何年か前に観た『ミュリエル』にしても、レネはちょっと苦手。


マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』

やり場のない焦燥と怒りの気だるい雰囲気が、
タクシーのフロントガラスにゆるゆると過ぎ去る歓楽街の夜景、
サックスのゆるいBGMと、よく溶けあっている。
けだるい中、別に何も起きない。
ふられた女の子が選挙事務所だから次期大統領候補を暗殺しようとし、
たまたま売春する少女を見つけたから救い出そうとヒーローめく。
しかし筋書き通りにはいかず、物語は始まらない。
意味を見出だすための映画ではなく、
空っぽになった主人公に自分の姿を見出だすための映画。
矛先を一点に定めると大島渚みたいになりそうだけど、
おそらく主人公にはそんな気概はかけらも残っていない。

3.7.10

石川啄木『時代閉塞の現状・食うべき詩』

岩波文庫版。啄木の論評が時代順に編まれ、
彼の思想の変遷がよくわかる。
啄木がいかに愚直かつ鋭く、文学について、
そして時代について考えていたか、
非常に心打たれた。

まず、閉塞感に啄木自身が取り憑かれている。
浪漫主義は「弱い心の所産である」と知っていながら、
少年雑誌から懐かしさを覚えて自らを慰撫したり、
自然主義の虚無感に対抗しようとしつつ、
何を以て対抗できるか見出だせない。

しかし、「時代閉塞の現状」において、
啄木は自然主義=時代閉塞の原因を、制度の成熟と欠陥に見出だした。
制度が精密に閉じたときにこそ、欠陥は多く浮き彫りになる。
そこから目を逸らすために幸徳事件が喧伝されると云う国家の手続きから、
啄木は時代閉塞に立ち向かう糸口を発見した。

制度の成熟と時代閉塞は、世界史的にも歩みを同じくしている。
古くは、第二次産業革命が全土に及んだ後、ヴィクトリア朝の後期のイギリス。
日本では、明治維新の一段落した啄木の明治末のほか、
大正デモクラシー後の二次大戦前、そしてバブル後の現在。
近代以降に集中するのは、制度というものが
ネーションに敷衍されての時代閉塞だからだろう。

1.7.10

フィリップ・ロス『いつわり』

徹頭徹尾が男女の対話になっていて、
行間を読むという小説の愉しみが出歯亀的面白さと渾然一体。
結末の、物語全体の結論の持ってゆき方は、
小説論のようになっていながらも、
男女の奥ゆかしい駆け引きでもある。
会話そのものが実際になされたのか、
それともいつわりだったのか、といった塩梅。
その両極端のどの中間点をとっても解釈できそうな
巧妙な物語、なのかもしれないし、
出来事ではなくそれを解釈で濾過したものとしての話し言葉の堆積だから
そのように宙ぶらりんに事実から乖離できる、のかもしれない。
不思議な、しかし心地よい、見知らぬ表現型式だった。