綿矢りさ「勝手にふるえてろ」
イチ(一宮)という、『蹴りたい背中』の蜷川に似た男子が出てきて、
主題もあんまり変わらない。
ただ、主人公が社会人になることによる
ありきたりな人間関係の諸問題が搦められる。
粗筋は非常に簡単。
イチといういじられキャラに恋したまま大人になった内気な女の子が
ニという別の平凡な男と付き合うのをようやく納得するまでの話だ。
世の凡百な人物像をネット検索で見つけて
そのまま持ってきたような登場人物はまぁさておき、
独白体で書かれた小説における主人公の思考の凡庸さは致命的だ。
文章が綴る感情を読まなくとも、そう考えてるんだろうな、ってのが読めちゃう。
だから、真剣に吐露されても、ふーん、って感じだし、
クライマックスもあまりカタルシス的には働かない。
ここまで書いてて、ほんとに自分は
綿矢りさのような狭く完結した小説は嫌いなんだなと思う。
井の中の蛙のような題材が世界をどのようであれ表象していること、
それが小説ってもんだろう。
日常を描くにしても、例えば保坂和志みたいな切り取り方がある。
ちょっと雑感。
平野啓一郎『顔のない裸体たち』を読んで、
傍系がない、という感想を抱いたのと同じ理由だが、
短篇に一本のストーリーを盛られ、
想部がストーリーの大きな下支えとなっている場合、
登場人物がほんとにそれだけの経験しかしてない哀れな方々、になってしまい、
厚みがないというか、読み応えがあんましなくなるきらいがあるような気がする。
枚数ゆえにそう思わせないほど細部を描けない、というのはあるかもしれないが、
回想ってのは要は、意味付けされて編集された過去、であって、
過去そのものではないから、なのだろう。
松本人志『しんぼる』
「で?」って感じ。
印象批評はいろいろできそうだけどね。
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