表題作、「無精卵」、「隅田川の皺男」の三作を収める。講談社文芸文庫。
ストーリーはまぁ充分におもしろい。
高校時代に芥川賞受賞作「犬婿入り」を読んだときは、
民俗的な霊異記じみたストーリー仕立てが印象的だった。
『親指Pの修業時代』なんかも、物語設定で有名だろう。
だが本作ではむしろ、文体を楽しんだ。
概して、文章の流れが物語を率先してひっぱる小説はおもしろい。しかも、それが読ませるのだ。譬喩の捉えどころがとても心地よい。
その東京は、新宿の高層ビルの上から見たのとは全く違っていて、家やビルではなく、襞からできているのだった。こまかい襞がさざなみのようにどこまでも続き、その模様は海の方角に向かってだんだんに形をくずし、最後には東京湾に流れ込んでいた。それは皺のある顔の皮膚の表面を拡大してみた写真のようでもあった。東京は老人の顔のような町だったのか、[…](p.172-173)
こんなふうな優雅な展開がいたるところにある。
ベルクさんの解説が、口をきかない運転手たちの世界にわたしの心を結び付けそうになる。その結び付きは、嘘でもある。運転手たちの生活は、言葉ではできていないのだから。わたしの生活は、言葉でできている。わたしには運転手は絶対に理解できない。でも、運転手の生活は本当に言葉でできていないのかどうか。言葉でできていないものが、この世の中にあるのかどうか。(p.16-17)
それでも、内容そのものをみればありがちな普遍論争だ。
唯名論、言語化。
目の前のさまざまが言葉に覆われているのはわかるが、
同じくらい数字にも支配されている。
あまりに数字に寄った領分では、言葉はうっすらとしている。そう感じる。
言葉が精密でないのと同じように、
数字も完璧ではない(科学・技術万能時代だが)。
それは10進法という便宜をいまだ引きずっている算法にはじまり、
無理数の桁の遥かなさいはてへ続いている。
0 件のコメント:
コメントを投稿