宮沢賢治、柳田國男、柄谷行人、北大路魯山人を切り口に、
倫理、理論、言葉、殺生、をそれぞれ問う。
ジャンルとしては批評の形を取っているけれど、
あまりに立ち位置を切り詰めるが如き内省の鋭さが光る。
私がその批評眼に強く傾倒していた柄谷行人のような。
たとえば、次のような。
私たちは柳田のこの転倒を再度回転させなければならない。それらが悪だからではない。そのような定式に押し込めて叩くことが批評ではないからだ。(p.133)
考えるフリをして定石を追い、自分の言葉を喋っているように思いながら
実は他人の言葉の相似形を喋らされているにすぎない
無数の"批評家"(コメンテーター、ブロガー、ツイッター)との華麗な訣別。
だから我が身の立ち位置と日常の退屈を危うくさせる言葉がある。
心してページを開くべし。
著者自身、柄谷行人にハマっていたころがあったのだろうと思い、
実際そのように告白される部分があった。
例えば『マルクスその可能性の中心』の雑誌版との相違は初めて知った。
「柄谷行人論」は、身を捩って断つような、すさまじい理論の戦いがある。
その中で、意識や他者性があまりに際の論理として立ち現れ、
私のような素人には晦渋だった。
柳田國男論である「私小説的労働と協働──柳田國男と神の言語」を、
私はもっとも興味深く読んだ。特に前半を。
後半はルソーや仮名序、言霊思想的なウタ論に収束した。
小林秀雄を援用しながら、他者と自己との関連を述べた箇所は圧巻。
この認識は決定的である。私たちは孤立しているどころか、無意識に「固く手を握り合ってい」る。何の力によって。共同体を分解した資本の力によって。これは考えてみれば当然のことだ。私たちの生活は顔も知らない誰かによって支えられている。おそらく私たちは、地球の歴史上、かつてないほど濃密な共働作業をしている生き物なのだ。(p.136)
私小説批判のため私の絶対性を相対化させるべきとばかり考えていた私にとって、
そもそも私をしがらみだらけの存在へと転換させた柳田の、
この思考を私小説批判にまで拡張した著者の、
そして、こうした驚くべき批評から見えた結論が
じつは当たり前であるとわかったときの浄化作用的な驚き。
「批評と殺生──北大路魯山人」の冒頭では、
生きるために殺すという人間のやるせなさが絞るように語られたかと、
いきなり鴨南蛮そばを喰うエピソードへと飛ぶ。
そのときちょうど台場にいたので、
四谷に戻りがてら一茶庵系のそば屋を探しまくった。
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