18.6.08

『これはパイプではない』/バレーボールの試合のテレビ放送

ルネ・マグリットの絵画『これはパイプではない』について書かれた
ミッシェル・フーコーの評論『これはパイプではない』を読んでの、私見。

明らかにパイプであるデッサンと、
その下に書かれた一文 « Ceci n'est pas une pipe. » と。
ルネ・マグリットによって、この二つがいかにして提示され、
矛盾しているのかを考えたとき、
フーコーは、言説と断定の合間を縫ったのだ、というような説明をしていた。
なるほど。

そもそも、なぜ、絵と文字が同時に提示されねばならないのか。
絵が文字を、文字が絵を説明することで互いに補完しあっている、とする考え方が一つ。
これをフーコーは、カリグラムを援用して説明していた。
一方、自分は、絵画『これはパイプではない』を観て、
パイプの絵と« Ceci n'est pas une pipe. »の文面との不自然な結合が
画家の積極的意志によるものと考えなかった。

カンバスを六つに仕切る枠のそれぞれの中で、卵の絵とその下に「アカシア」の字が、
靴に「月」が、帽子に「雪」、蝋燭に「天井」、コップに「雷雨」、金槌に「沙漠」
というように、敢えて絵と字が違っている、というものがあるし
また、« Ceci continue de ne pas être une pipe. » という、
(パリ市の通り名の標示に似た)標識がパイプの絵の下にある、というものもある
これらから、パイプに対して下の文面が後付けに思えた、
いや、むしろ、お互いに独立していたのに
外部からの圧力が、マグリットをして互いに矛盾する両者を併置させた、と自分は考えた。
言語の濫用・乱用が。

垂れ流される広告に乗って惜しげもなく使われる最上級の文句の数々、
選挙活動で次々と飛び出す、嘘か本当か分からない煽動と公約、
そして、壮麗に着飾った氾濫する言葉を存在しないが如く往来する無数の人々。
商業的にか政策的にかわからないが、すでに言霊なんて現代では死に瀕している。
だから、パイプに「パイプではない」という正反対の文句をくっつけたって
言葉も絵も逃げ出さずに、結局一つのカンバスに悠々と収まっているわけだ。
『これはパイプではない』は自分にとって、言霊の死に思えたのだ。


話しは変わって、バレーボールの試合のテレビ放送について思ったこと。
実況、カメラワーク、選手紹介などをすべて取り払って、
ネットを中心にした俯瞰図でカメラを固定し、
試合会場の映像と音声を延々と垂れ流し続ける、という放送にしてくれればいいのに。
そうすれば、上から見た選手の頭があちこちせわしなく動き回って、
ボールが行き来するだけの、単純な電子運動めいた試合風景になるだろう。
できれば、観客もいなければいい。
観客のほとんど誰もが、選手との個人的つながりなんてないのだから、
国籍が同じというだけで声を張って応援するのは不条理だ。
選手と審判と監督がいれば、試合は成り立つし、
試合は選手のためのものだ。だからスポンサーも要らない。

小中高と、クラス分けというものがあった。
四月に40人ほどの集団を、構成員の意思を無視して併存させる。
常に同じ集団で行動させ、スポーツ大会やらで集団間の競争を煽るだけで、
あ〜ら不思議、構成員はみずから集団への帰属意識を持ってくれるのだ。

クラスっていうのは、国籍のようなものだ。

17.6.08

ボルヘスとわたし、のそれぞれのこと

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇集『不死の人』を読了した。
『アレフ』という原題を採っていないこの白水社版の短篇集は、
定価400円という、およそ40年前に刊行されたものだから、
今では題名は「訂正」されているのかもしれない。

文学マニアにはもってこいの引用と書き口で、
例に漏れず自分も虜になって引き込まれてしまい、
読了してからすぐに図書館に行き
「バベルの図書館」で名高い『伝奇集』を借りて来た。

モロッコ入りしてから急に書くことが増えてしまっているために、
旅行記は書こうという気が起こらない。
備忘録としての価値、つまりこのブログの存在理由の大部分をのみ尊重し、
以降の旅行記はプログラミングのフローチャートのようになるかもしれない。

13.6.08

不思議の国日本、その他の雑記

帰国した。
Je suis rentré au Japon.
その上で、カルチャーショックがいくつかあったので、
少し考察してみようと思う。
Je vais maintenant vous introduire quelques chocs culturels que je sens.
なお、今回は特別編ということで、稚拙なフランス語訳も附して、
フランス語話者にも読んでもらいたい。
J'ajoute les sens pas bien en français à cet article-ci
pour que les gens qui ne comprennent pas le japonais mais le français puissent lire.

看板、アナウンスが多い Trop d'annonce
明らかに出口の場所などが分かるのに、
[出口→]という貼り紙が同じような場所に三つぐらいあるのはどうかと思う。
Il est nul qu'il y ait trois affichage d'annonce qui signifient la direction au même endroit
alors que l'on arrive à le savoir sans rien penser.
「駅構内での禁煙にご協力ください」
「お得な××カードが…」
「難波行きの急行が…」とか、云われなくても見れば分かるし。
On n'a pas besoin d'être dit : « Veuillez ne pas fumer dans la station. »
« Maintenant il y a une campagne de la carte bon marché ... »
« L'express en direction de Namba va ... »
Ça suffit de voir ce qu'il faut.
それどころか、アナウンス同時に二つかかると、聞こえなくなるでしょうが。
En plus, personne ne peut écouter deux annonce à la fois !
電車の中でも、
「次は、天下茶屋、天下茶屋です」
「堺筋線、阪急千里線、なんとか線、ほにゃらか線は乗り換えです」
「左側の扉が開きます」
「足下にご注意ください」
とか、こんなに要らない。
Dans un train aussi, c'est trop comme ça :
« Prochaine station : Tenga-chaya. Tenga-chaya. »
« Correspondance à la ligne de Sakaïsuji, de Hankyu Senri, de brabra, de brabra. »
« Les portes à gauche ouvrent. »
« Attention à la marche. »
ストラスブールのトラムだと、
「次は、鉄男、鉄男」
「この電車は、イルキルシュ・リクサンビュル行きです」
だけだけど、これで充分。
Quant au tram strasbourgeois, 
« Prochaine station : Homme de Fer. »
« Destination : Illkirch Lixembuhl. »,
ces deux sont toutes, mais ça suffit.
大阪市営地下鉄の場合は、やっぱり日本式に多い上に、各駅に
「大学受験の名門、駿台大阪校へは、次が便利です」
とかいう広告が入るし。
Dans le cas du métro de la ville d'Ôsaka, ce l'est toujours à la japonaise,
sans compter que chaque station y ajoute une ou deux pubs comme
« La prochaine est accessible à l'école Sundaï à Ôsaka,
 réputée pour les examens d'entrées universitaires. »

道路が細い les routes étroites
トラックですら左右のゆとりが大いにあった道路が、もうなつかしい。
Il n'existe plus autours de moi les chaussées où passe facilement le camion.
一車線一車線の通常の道路ですら、
バルセロナの一方通行の2/3ほどの細さでしかない。
La route normale japonaise à chaque sens n'a que
environ deux tiers de l'étroitesse de celle de Barcelone au sens unique.
歩道から車道に出て信号を待つなんていう芸当は、ここではできない。
Ce n'est pas possible ici qu'on attende le feu en sortant un peu du trottoir à la chaussée.
オートマばかりが普及する理由は、信号が多いからだ、と聞くが、
これも大きな要因に相違ない。
On dit que les japonais n'utilisent généralement que la voiture automatique
parce qu'il y a beaucoup de feu, 
mais l'étroitesse de la route doit être une autre raison.

信号を守る respecter le feu
ヨーロッパに慣れてしまえば、
信号を守ることにおいては大阪人は子犬のようにおとなしい。
Une fois s'accoutumé à la vie européenne, 
les habitants d'Ôsaka respectent sérieusement le feu.
信号が長かったり車が来なかったりすると赤信号を渡ろうと画策するのが日本だが、
フランスでは横断歩道に着いた瞬間から渡るチャンスをうかがうのが普通だ。
C'est au Japon que l'on commence de traverser la route avec le feu rouge
quand le feu rouge dure longtemps ou la voiture ne vient pas,
alors qu'en France tout le monde essaie de traverser dès qu'il arrive au passage clouté.
そんなバカ正直さを感じつつ、今日、明らかに車の来ない道路を自分は渡り、
近くに警官を見つけてひやりとした。
Aujourd'hui j'ai traversé la route où aucune voiture ne dépasse
en sentant cette politesse excessive,
et j'ai trouvé près de là des policiers qui gardaient la route.

いらっしゃいませ Bienvenue!
平日の空いているときに大型電気屋に入ると、悲惨だった。
C'était terrible quand je suis entré à un magasin où on vend les appareils électriques.
フランスで店員に挨拶されると返事をする習慣になっていたので、
すべての、いらっしゃいませ、に、あ、どうも、と返してゆくのはしんどかった。
J'ai avec peine rendu beaucoup de « Bonjour ... » à tous les « Bienvenue ! » à haut voix des vendeurs
parce que je me suis accoutumé à rendre comme ça dans les magasin en France.
ああいう無駄を削減すれば、二酸化炭素排出量は減ると思う。
A mon avis, l'émission du dyoxide de carbone va diminuer si on supprime ce gaspillage de « Bienvenue ! »


ところで、帰国後最初の読書としてずっと考えていたのが
カール・シュミット『政治神学』だったのだが、
市立図書館にないという異常事態が発生したので、
家にあった、ホルヘ・ルイス・ボルヘス『不死の人』を読んでいる。
これはかなり面白い。
A propos, je supposais « La théologie politique » de Carl Schumitt
comme le promier lecture de mon retour au Japon.
Mais je lis maintenant « El Aleph » de Jorge Luis Borges
parce que il n'y avait pas ça dans les bibliothèques municipales.
Celle-là est très intéressante.

5.6.08

五月の旅行記6 グラナダ、アルヘシラス、タンジェ、フェズ

22日

着いてみると、前夜祭の正体は、単なる移動遊園地だった。
過剰な冷たい光とはしゃぐ熱気に満ちて、
会場はアトラクションの発する音と人の騒ぎあう声でかしましかった。
もっと伝統的な祭りを無意識に期待していた我々は、
期待はずれの無口のまま、そううろうろもせずに会場を出た。
午前1時。あと2時間をやりすごさねばならず、
当初の計画通りバーでタパスをということにした。
しかし場所は住宅街で夜、来た道にあったバーに落ち着いた。
だが店員はスペイン語しかできず、
メニューをと友人が指でカードの形を作ると
「トーストは朝だけだ」と莫迦にするように説明され、
後ろで飲んでいた女の子二人が下品に笑いを漏らしている。
気分の悪い店なので勝手に出てゆき、
もう一軒あったバーでサンドイッチだけ買おうと
友人は入っていったが、もう閉店という。
しまいには、マクドでだらだらしようと試みても、
酔っぱらいの学生のような集団に英語で
「閉まったよ〜ん」と云われ、
バスターミナルで深夜の2時間の過ぎるのを待つほかなくなった。

バスターミナルでは、深夜便の出発を待ってか、
何人かが座ったまま目をつぶっていた。
トイレで顔を洗い、もう一度タオルを濡らして体を拭く。
眠気はすぐにでも背後から襲ってきそうだったが、
本を読んだり友人と話したりしていると眠くはならなかった。
3時10分前、電光掲示板に表示された番号の停留所に向かったが、
なぜかバスも客もいない。
アルヘシラス行きのバスが出そうだったので運転手にチケットを見せると、
バス出口から出たところだ、という。
奇妙な話だがあと5分もないので、荷物を持って指差された方角に走った。
と、ターミナルから出て、歩道に何人かの若者がいた。
バスの影も形も見えなかったが、一人で座っている女の子に、
モロッコ行きのバスはここでいいのか訊くと、そうだ、という。
スペインとモロッコの二重国籍だと云うし、
まだ時間になっても来ないことにそわそわする様子もないから、
乗り慣れているのだろうと思い、ひとまず安心した。
別の連中はフランス語で話していて、
ほどなくして、一人を残してみな引き揚げていった。
80年代のパンクといった髪型にピアスの男で、
マラケシュへと向かう途中のボルドレだった。
たった4人でバス1台とは贅沢に乗れるのではないかと思ったが、
だいぶ待ってようやく来たバスの中は、
暗く、みな眠っているかうつむいているかで、時たま赤ん坊が泣き出す、
旅路そのものが悲嘆にくれているような雰囲気だった。
座席はみな荷物を自分の横においているせいで、
我々だけ横並びの2シートに座らねばならず、
なんだか損をしたような気分になった。
しかも友人は、寝るためにシートを倒すと後ろから理不尽な文句を云われ、
倒すことがままならなかった。

途中に寄ったトイレ休憩以外は、午前5時に下ろされるまでずっと眠っていた。
ジブラルタル海峡の港町アルヘシラスに着き、下りるよう云われたとき、
寝起きの脳はフェリーに乗り換えるとは知らずトイレ休憩と思った。
Nous sommes à Algeciras ?(アルヘシラスにいるの?)と訊きたかったのに
Nous sommes ici ? (俺らはここにいるの?)という
わけのわからない文章を口から発せさせた寝起きの脳に、
バスの運転手は優しくスペイン語で、Si. と云ってくれた。
荷物はバスの中に置いたままでよいというので、
肩掛け鞄のみ持ってバスから出た。
全然問題はなかったのだが、置きっぱなしはやはり不安ではあった。
フェリー乗り場の待合室で、起きているとも寝ているともなく待ち、
やがて運転手の配ったフェリーのチケットを手に、
税関でパスポートにスタンプを押された。

空腹を覚えたので、昨日の夕食前に買っておいたドーナツを食べる。
フェリーなんて何年ぶりのことかわからなかったが、
こうして揺られながらジブラルタル海峡を越えられるのは嬉しかった。
ユーラシアとアフリカの二つの大陸を隔てる
国境線としての海を実感したいがために、
モロッコだけだった今回の旅行での行き先に
スペインを加え、さらにそこからバスとフェリーで移動するという
金も時間もかかり面倒な手段を択んだのだ。
フェリーの中はすでに半ばモロッコだった。
一軒だけある免税店の看板も、携帯電話の広告も、
アラビア語とフランス語の併記だった。
さらに、船の奥には簡易モスクがあり、
乗客の女性の多くはスカーフで髪を隠していた。

椅子に座り、パスポートチェックの始まるのを待っていたが、
一向にその気配がないので、いくつかある待合室をうろつき、
さらには友人と甲板に出てみた。
階段を上りドアを開けると、風の吹きつける艫(とも)に出た。
ユーラシア大陸はまだそう遠くなく、逆にアフリカ大陸はまだ見えなかった。
正確にはアルヘシラスは、大西洋から地中海を閉ざすジブラルタル海峡ではなく、
そこから少し東にいった地中海に面している。
そのためだろう、二大陸間の距離はそれほど近くないし、
風は潮の香りをほとんど含まない。
海は青に濃い緑色をこっそり溶かし込んだような色をしていて、
フェリーのつくる衝撃波も白に淡い青と緑の泡となって海面に刻まれる。
アルヘシラス、タンジェ間の行き来は多いらしく、
何隻もの船が我々のフェリーと同じ向きに走っていた。
一面が海の景色を風に吹かれながら眺め、
甲板の上をあちこちうろついてから、
パスポートチェックがまだか見るために下に戻る。
しばらく始まる気配はまだなかったが、
ようやく、モロッコ側の警備らしき人の前に列ができた。
パスポートに押されたモロッコ入国のスタンプは、
「タンジェ警察」「入国」そして日付がフランス語で記され、
それとは別の3行のアラビア語のどれかが国名を示しているのだとしても、
これでは一目見てどこの国なのかわからなさそうだった。

再び甲板に出ると、向かう先に陸が見え、俄に昂揚した。
それは見る間に大きくなり、建物だらけの街が拡がっていた。
一本高く見える塔は、教会ではなくモスクのミナレットに違いなかった。
下に戻り、舳先にある営業しているのかわからないバーに行き、
入港のため碇を下ろす作業と近づいてくる街を眺めた。
やがて船が到着した。アフリカ大陸初めての一歩を踏みしめ、
ぞろぞろ列になって歩いていった。
待っているとバスが出てきて、しかしナンバープレートは
EU仕様からモロッコ仕様に替えられていた。
それに乗り、荷物の無事に安堵して席に落ち着いた。
しかし、すぐに降りるよう云われた。今度は荷物も背負ってだった。
行く先に従ってバスを乗り換えるらしかった。
フェズへはと訊くと指差したバスでは、
荷物を下のトランクに入れようと、その前に人が群がっていた。
あまりにだらだらやる上にまだ乗車できそうになかったので、
そばで小さな屋台に目一杯の商品を並べている売り子に、
袋入りのパンがいくらなのか訊いてみた。
いくつか入って30DHでスペイン水準の倍ほどは安かったが、
ディルハムをユーロで払う場合は、
だいたい11DH=1€のところを便宜上10DH=1€で計算されてしまい、
明らかに損になると聞いていたで、
まだディルハムをもっていない身としては、買いたくなかった。

荷物を載せるおじさん達と乗客がまだ何やら大声で話しながら
少しずつトランクに荷物を入れているバスのトランクの脇に戻った。
厭でも耳に入る言葉は、しかしさっぱりわからない。
かなり崩れたスペイン語のようにも聞こえるが、
やはりアラビア語なのだろうと思った。
やがてバスの扉が開かれ、フェズ行きを確認して乗った私と友人は、
寝不足と狭かった座席、そしてフェリーにより昼前にしてすでに疲れていたため、
席に座るやいなや隣に荷物を置いて、ゆったりした一人席を確保した。
いよいよ走り出すと思いきや、運転手らしき人が通路に立って
何か云い、少し車内がざわざわとなった。
通路向かいに座っていたおじさんがこちらの様子を見ているので、
何なのかフランス語で訊くと、
伝わらなかったらしく何やら云っている。
その中に「フェス」と聞こえたので、行き先かと思い「フェス」と繰り返すと、
おじさんは納得したような表情をした。
自分も、さぞ安心、というようなみぶりをした。
ようやく走り出し、しかしすぐにガソリンスタンドに入った。
そこでまたしばし待たされ、ようやく走り出した町並みは、
これまで訪れたどの街ともちがっていた。

気がつくと眠っていた。バスが停車して目が醒めた。
昼食の休憩だというので、バスを降りた。
公園のようなスペースに、屋台を大きくしたようなレストランと、
向かいには別の小さな屋台、なぜかシャワーもついているトイレ、
そしてキャンピングカーがいくつか停まっている広い駐車スペースがあった。
レストランのメニューがレジの上に掲げられていて、
それはフランス語だった。
どれがムニュなのかも何を食べたらいいのかもわからない一方、
屋台の方はメニューは20DHのケフタ一つだけだった。
別の人が頼んで出たものを見ると、ケバブと同じようなものだった。
友人はなぜかレストランでオレンジジュースを9DHで買って、
そのおじさんとしゃべっていた。
なぜオレンジジュースなのか訊くと、
モロッコで美味しいとネットで見たからということだった。
絞りたてで美味しい、といって彼は二杯目を買い、
自分は2€でケフタを一つ作ってもらった。
空腹だったのでするすると入った。
ケバブと違うのは、肉がひき肉を平たくして焼いたものである点ぐらい。
半ば野外のテーブルにつき、食べはじめた。
食べていて驚いた。蠅だらけで、当たり前のようにテーブルや体に止まる。
ケフタの屋台でも、積んであるパンに蠅が止まっては飛んでいった。
こうも近しくされては食事に集中できなかったが、
同じバスに乗ってきた人も、途中から来て食事を始めたフランス人老夫婦も、
わずかばかりの気も留めない。
これが普通なのか、と納得した。

食後、トイレに行き、ベンチに座ってぼーっとしていると、
通路向かいに座っていたおじさんが、木の陰で祈っていた。
布を敷いて靴を脱ぎ、頭を地面につけているのだった。
それが至極自然に見えた。
やがておじさんは立ち上がり、敷物をはたきながらバスに向かう途中、
私と友人に気づいた。
どこから? ──日本。 学生? ──フランスの学生。
いつものやりとりの末、おじさんは簡単なフランス語なら話せるとわかった。
スペインで働いていて、メクネスに帰るらしい。
バスに乗ってからも、席が近いので少し話した。
友人は、アラビア語で「ありがとう」「こんにちは」を訊いて、
それをメモしたりしていた。「ありがとう」は「シュクラム」、
「こんにちは」は、先に行ったほうが「サラム・アレクム」、
云われたほうの返事は「アレクム・サラム」になる。
他にもいろいろな役立つ表現を、友人が自分の後ろの席で、
横のおじさんやさらに後ろの人から
いろいろ教えられているのを、自分は目をつぶって聞いていた。
やがて、眠った。

道が悪いからか、次第に揺れが激しくなっていった。
外の景色も変わっていた。砂地に岩や石がごろごろしていて、
そのあちこちに木々が生えていた。
道路標識もやはりアラビア語とフランス語の併記だった。
もちろん、建物が過ぎ去ったり、視界が開けたりはしたが、
森が現れるということはなかった。
相変わらずひどい揺れだった。
遊園地で乗り物系のアトラクションに乗ったような感じだった。
と、友人が急に後ろから手を伸ばして背中をつついてきた。
しんどそうな声でビニール袋があるか聞くので、
リュックから出して渡すと、その中に戻しはじめた。
背中をさすりつつ、この揺れでは無理もないと思った。
近くのおじさんたちも心配してくれ、
メクネスからフェズまでの道は大丈夫だから、などと云ってくれた。
ただ、あとフェズまで何時間ぐらいかかるかと聞いても、
語学力不足のせいか、きちんと伝わらず、
フェズからはそんなに揺れない、と繰り返された。
友人がひとまず落ち着き、そのままどれくらい揺られたかというあたりで、
おじさんが、ではいい旅を、と云ってバスから降りた。
なぜフェズより南のメクネスに先につくのかわからなかったが、
あと二時間ほどで到着することはわかった。
モロッコとスペインにどれくらい時差があるのかもわからなかったので、
今が何時なのかもわからなかった。

ようやくフェズに着いたのは、夕方前といった陽の傾き具合の頃合いだった。
友人は降りるや少し待合室で横になり、だがすぐに大丈夫と云って立ち上がった。
市内に入ってからバス駅に着くまでの道を見ると、
フランスやスペインほどは通り名が掲げられておらず、
地図もないので、ユースホステルを探すのに少し手間取りそうだった。
待合室から出るとすかさず、若い男が近づいてきて、
英語で、ホテルはもう取っているのか、と聞いてきた。
もうユースに取ってある、と云うと、
ユースはあまりよくないからいいホテルに移るといい、と食い下がる。
しつこいので遠ざけようと思い、銀行に行くから、と云うと、
あっちにあるから案内する、と、駅を出ても付いてくる。
とにかく遠ざけたかったので、ユースの地名を見せて、
どう行けばいいのか訊くと、あっちに行けばある、と教えてくれたものの、
自分がホテルを紹介するから、そこなら快適だし安く済む、としつこい上に、
観光案内を自分がするから、と云って、電話番号を紙に書いて押しつけてきた。
メクネスへ行くための時刻を窓口で訊こうにもおせっかいに先回りしようとするし、
いつの間にか呼び方がmon amiになっているので厭わしくなり、
明日電話するから、となんとか遠ざけて銀行のほうに行った。
銀行は明らかにBNP Paribasのロゴだったが、BMCIという名だった。
もう閉まった、というので、ATMで100DHほどだけ下ろした。
うざったい男がどこかに行ってしまったことを確認してから、
カフェでくつろいでいるおじさん二人にユースの住所を見せた。
店員も来て三人であれこれしゃべった後、
うざったい男の云ったのと同じ方角の先のモスクの向かいだと云う。
礼を云ってそちらに歩を進める。
が、モスクらしいものが見当たらないので、もう一度人をつかまえて訊くと、
こっちだと云って、一緒に付いてきてくれた。
モスクは、そこそこ交通量のある道路の向かいの公園の奥にあった。
おそらくこっちだ、いや違う、とモスクをぐるりと回り、
最後は番地の番号を見ながら、モスクから少しだけ離れたところにユースを見つけた。
呼び出しベルを鳴らすとドアが開き、おばさんが出てきた。
到着が遅れるとメールをもらったのに、早かったね、と云いながら、
朝食の時間や洗濯ができることなど、当ユースの諸注意を長々と教えてくれた。
案内してくれた部屋は、ユースだが二人部屋で助かった。

とにかく街に出てレストランを探すことにした。
友人との言葉のキャッチボールすら億劫になるくらい空腹で飢えそうであっても
少しでも安く食べたいという平生の心構えはどうでもよくなることはなく、
街だというのに少ないレストランをいくつか回った根性は、
吝嗇なのか倹約家なのか意地なのか。
どのレストランにもムニュはなかったので、結局、モロッコ料理を出す店に入った。
蠅が二、三匹飛び回っていてうんざりしたものの、
それが当たり前の国なら慣れるより仕方がなかった。
前菜にモロッコ風サラダ、メインにタジンを頼む。
注文後、友人はすぐに外へ出て、自分独りぼーっとしていた。
友人が水を頼んだとは知らず、持ってこられた1.5リットルの水を、
頼んでない、と拒絶したとき、友人が戻ってきた。
慌てて受け取り、どこに行っていたのか問うと、水を買いに行っていたのだと云う。
レストランに余所からの水を遠慮して飲まない律儀さに敬服したが、
そんな細やかな配慮を客側がしなければいけないところなのかどうかは、
まだ数時間も滞在していないのでわからなかった。
サラダとパンが出された。パンはケフタと同じ丸いもので、
フランスではケバブ屋で食事をすると一緒に出されるものと同じ。
サラダはトマトときゅうりの角切りにオイルドレッシングのかかったもの。
瑞々しく、いくらでもパンが進んだ。
タジンはモロッコの代表的な、煮込み料理。
底の浅い陶器の器に三角頭巾のような蓋をして運ばれてきた。
蓋を取ると中身がまだぐつぐつ云っていて圧巻だったが、
味つけはシンプルで、野菜の味が出ていた。

食事中、テラス席からおばさんが来て、英語はできるかと尋ねてきた。
フランス語のメニューがわからないらしく、
「pommeは林檎で…」などと教えた。
モロッコの公用語は憲法上アラビア語だが、
フランス語も公用語扱いで学校や大学の授業はフランス語、と聞いていた。
それは事実らしく、看板にも広告にも、
アラビア語とフランス語が併記してある。
英語は三番目の言葉、といった感じなので、
モロッコの旅行では少し苦労するのではないか、と思った。
横のテーブルで一人で来ていたおじさんも、
タジンの登場に圧倒されていた。
イタリアから来たらしく、アラビア語は昔勉強したがもうさっぱりらしい。

まだ時差がわからなかったので、店員に時刻を訊いた。
夏時間のフランスと二時間の時差だった。
まだ七時過ぎなのに暗くなるのが早いと感じながら、
イルミネーションに光る大通りを眺めていた。
しばらくしてはっとしたのは、その日没時間を、
日本と似ている、ではなく、フランスと違う、と感じたことだった。
記憶とは残酷なもので、直近の常識が優越するのだろう。
その大通りを歩いて、自分は先にユースホステルに戻った。
どの車も古い。そのため、排気ガスが汚い街だった。
友人は、少々値の張るサンダルを買ってから帰ってきた。
ユースのシャワーを見て、スリッパなりサンダルなりが要る、と
思ったからだということだった。

ベッドはやたらと柔らかく、寝ていて肩が凝りそうだった。
ほかは完璧で、とても居心地のよい場所だった。
通路は屋根がなくテラスのようで、BGMが流れていた。
もっとも、シャワーはほかのユースホステル同様に入りづらく、
うまいことやらないと持ち込んだものが濡れてしまう。
さらに悪いことに、シャワーで湯の出る時間帯は、
朝の二時間だけだった。
それでも自分は夜にシャワーを浴びたかった。
自然と水風呂になったが、これも運命とあきらめ、
体が冷えないように呼吸を荒げて水を浴びた。

部屋でくつろいでいると、茶色の法衣のような服をきたおじさんが来た。
旧市街のメディナに行くなら、バス駅でしつこかったような偽ガイドではなく
当局に認められたガイドを予約するから、どうするか決めてほしいということだった。
120DHだというので、明日の朝九時過ぎからで予約を頼んだ。
フェズのメディナは世界遺産である。
明日が楽しみだった。

3.6.08

五月の旅行記5 グラナダ

21日

このホテルはもう宿泊しないので、荷物をまとめて階段を下りる。
受付のおじさんに荷物を預かってもらえないか訊くと、
勿論、と快い返事をもらった。
というわけで、朝の光まぶしいグラナダを揚々と歩いてグランヴィアへ。
アルハンブラ宮殿の入場時間は13時半ということだが、
庭園などあると聞いていたので、早速向かうことに。
途中、タバに入って日本へ送る封筒を見せ、0.78€の切手を買う。
貼付してからポストに投函、しかしPAR AVIONの記載を忘れ、
もしや船便で数ヶ月揺られて届くのではないかと、
いささか不安にもなる。

カフェでチョコレートの菓子パンを購入、齧りつつ宮殿への道を上る。
土産屋が数件続いてから、工事現場をすり抜けると森になっている。
その先にアルハンブラ宮殿が図体を構えているようだ。
道に建てられた地図には、受付は先、とあったが、
左手に森がひらけて大きく古い煉瓦作りの門が口を開けていては、
引き寄せられざるを得ないというのが人情。
その上を観光客が歩いている門をくぐる。
宮殿のある丘を下りるようにして、崩れて砂利だらけになった道があり、
ところどころにひび割れもあるがまっすぐで強固な壁が続き、
その生真面目さを笑うように木や草がいっぱいに茂り、
小さな滝やせせらぎまでができていた。
杜甫の「城春にして草木深し」とはこんなだろうか、と感じつつ
丘を下りると、アルバイシン地区の丘との谷に出た。

谷沿いに歩くと、博物館があったので入ってみる。
EU圏内の住居者は無料ということなので、
フランスの滞在許可証を見せたところ、首を傾げつつチケットを切ってくれた。
何のことはない、考古学的な出土品を展示してあるのだった。
興味深かったのは、中世前のキリスト教からイスラム化を経るあたり。
紀元8世紀に西ゴート王国からウマイヤ朝へと明け渡された痕跡は、
装飾が幾何学模様へと移行するさまにも現れ、
宗教の心性を垣間見ることができたように思われる。
小さな博物館は、一時間もしないで観ることができた。
中庭から臨む空とアルハンブラ宮殿は綺麗で、
この宮殿はスペインの乾燥した気候にあってこそ、と思った。
雲がちで四季それぞれの濃い日本にあっては、
強い違和感を覚えさせずにはいられまい。

再び同じ上り坂を通って、今度はアルハンブラ宮殿の受付へ。
昨日にした予約をチケットに印字する機械でチケットを引き出す。
地図に従い、道を少し戻ってアルハンブラ宮殿の入り口へ。
まだ我々の入場時刻ではないので、自由に入れるカルロス5世宮殿へ。
外観は四角い普通の建築物なのに、内部はローマ風の円形の中庭、
という変わった建物で、内部には博物館があった。
さまざまなアラベスクの施された器具や装飾が展示され、
目玉としては、最近復元されたらしいライオンの石像があった。
痛んで細部が剥がれたからか、もともとそんなデザインだからか、
つるんとしていてかわいらしかった。

ついでにやっていた現代美術の小企画展を歩いてから、
13時半が近づいてきたため宮殿内部入り口に並ぶ。
少し遅れてようやく列が進み、我々がチケットを出すと、
なぜかバーコード読み取り機が異音を発した。
係員が、あぁ、というような表情をし、チケットに印刷された日付を指差した。
あろうことか、ひと月先の6月21日のチケットだったので、
ネットでのミスかと同情してくれた係員も
中に入れてはくれず、もう一度、受付への道のりを歩くことに。
とりあえず売り場でチケットを買い直し、
案内の係員にどうすれば払い戻してもらえるか訊くが、
名札にあるフランスの国旗がフランス語OKを示しているにもかかわらず
大した意思疎通ができずに、英語でようやく伝えると、
どうしようもない、と梨の礫。
安くなかった予約チケットがゴミになるのは惜しいと、
どこか買い取ってくれるチケットショップのようなところはないかと訊くと、
そんなものはないが個人で売るなら勝手にしてくれ、と云う。
同じくフランスのナンシーから来ていた夫婦は、
自分たちも別の不具合で二枚チケットを買う羽目になった、と云ってきた。
ここの仕組みは融通が利かない上に解りにくい、と。

Generalifeという庭園があり、最終入場が14時というので、急いでいった。
綴りから勝手にジェネラルライフとか云っていたが、
ヘネラリーフェと読むのが正しいらしい。
植え込みが平らに刈り込まれていたり、
かなり手は加えられているものの、
それでもまばゆい日光に映える草花がどこまでも咲き誇り、
低木からにゅっと木が突き出ていたりと、完全に人工的というわけではなく、
ほどよく整えられた庭園、という感じで、
ヴェルサイユの庭園より遥かにこちらのほうが好み。
人工的な噴水や道は名脇役として、草の美しさを際立たせている。
薔薇の花はどれも大きくて妖艶しく、
木によって微妙に違う緑色が同時に風に揺すられるさまも美しい。
アセキアの中庭に入る手前で、日本人の女性に声をかけられ、
ここから宮殿内部入り口への近道はないかと尋ねられた。
係員がフランス語ができたので訊いたが、ないとの返事。
足が少し悪いということだったので、あの距離を定刻通り戻れたのかいまだ気になる。
アセキアの中庭に入ると、草花と噴水が競演しているようだった。
建物にはアラビア文字の装飾が緻密に施されていて、
相当な技術力を物語っていた。灌漑技術にしてもそうで、
糸杉の散歩道にある階段では、手すりを涼しげに水が流れていた。

昼食をとれなかった15時前、酒場で軽食を取ることにした。
宮殿を出てまた同じ道を下りてゆく途中、
フランス人高校生たちが排水溝を取り巻いて騒いでいた。
覗いてみると、魚がはねている。
ほどなく、どこからか来たおっさんがその魚を掴んで、
どこかに行ってしまった。
それでまたはしゃぐ高校生たちを見て、
高校生独特のノリに国境は関係ないと実感した。

下り道を間違えたせいで変な路地を下ることになったが、
ほどなく街の中心部にたどり着いた上、
何の変哲もない古い住宅にもアラビア語の装飾を見つけられた。
酒場を探して歩きながら、フラメンコの衣装を身につけた
小さな女の子が散見されることに気づく。
何か行事でもあるのかと思いながら、
見つけた酒場でスペイン風オムレツを食す。
予想外にパンも出てきたので、空腹は充分に満ちた。
街をうろつき、入場時刻まで時間があるので、
友人はその待ち人に葉書をものし、自分は本のワークシートを進めた。
切手を買うためタバに行ったが、もう閉まっていたらしい。
六時頃、三度目の上り坂を疲れた足で歩き、
列に並んで待つこと十数分、今度こそ宮殿内の見学が始まった。

イスラム建築の珠玉の一つに数えられるのはうべなるかなだった。
壁一面のみならず、天井にも精密な幾何学の彫り物が施され、
そんな部屋がいくつも続いてゆく。
残念ながらあの有名なライオンの中庭は修復中だったが、
数学的なきめ細かい象形美の世界は、
キリスト教のイコン的な美に長らく浸っていた自分にとって、
異形に包まれたような感覚だった。
人間味からはどこまでも隔離された無機質な世界だが、
それでいて美しいと感じるのは、不思議な感触だった。
ただ、息が詰まるようでもあった。
廊下からアルバイシン地区を見渡すと、その緊張は緩むようだった。
人間性の徹底排除された美しさ、これもまた聖への一経路なのかもしれない。
(聖は遍在するにしても、聖の表現についてはそうではないと考える。
 要は、日常の排除であれば何でもよいのかもしれない。
 美とはその窮まった形であり、一点にではなく、
 日常を中心とする同心円の円周に起原があるのだろうか)

街に下り、昨日うろついて見つけた、
ムニュ6.50€という格安のレストランへ歩いていると、
いくつかの場所で大きな祭壇のようなものを組み立てていた。
レストランは、格安とはいえワイン1グラスつきで、
料理もそこそこいけたし、そこそこ満腹になった。

午前3時に出発するバスを思えばいくらでも時間はあるが、
レストランを出て、ぶらぶらとホテルに戻ろうと歩いた。
友人が祭壇の警備員に何のためのものか問うと、聖体祭ということだった。
ほかの広場では舞台ができていて歌と踊りを披露していたし、
街はイルミネーションで飾られたり若者が集団ではしゃいでいたりと、
お祭りの雰囲気が伝わってきた。
ホテルに戻って受付のおじさんに詳しく訊くと、
一年で一番大きな祭りの前夜祭が今日だということで、
荷物はまだ置いていていいから行ってみてはどうかという。
いずれにせよ今晩はシャワーを浴びられないので
濡れたタオルで体を拭き、粗末な代用とした。

バスターミナル近くのバーでタパスをつまみながらバスを待つ、
という計画をどう変更するか友人ともめ、
バスターミナルへと向かうバスがなくなることを一番危惧していたのだが、
そう遅くなることはないと、前夜祭に行ってみることにした。
受付のおじさんが地図で示した方向に足を進めたが、
浮き足立った市民たちは逆方向へと急いでいるように見えた。
また同じ広場で、前夜祭の行われる場所を訊くと、
レンフェ駅の近くということらしく、バスの番号を教わってきた。
駅からホテルはもう戻ってこられないので、
ホテルに荷物を取りにいった。
しかしどうも自分は腑に落ちず、
レンフェ駅からバスターミナルへ無事行けるかもわからず、
駅付近とて前夜祭開催地がどこかもわからないのでは、
どうも不安で行けない、と考えていた。
しかも、教わった二つの番号のうち一つは
明らかに駅に行かないことに気づき、
もう一度受付のおじさんに訊くと、
駅ではなくバスターミナル附近ということだった。
それなら、とバスターミナル行きの路線バスに乗り、
同じように前夜祭へ行くのであろうグループに続いて下車すると、
道には人の流れができていた。

五月の旅行記4 マドリッド、グラナダ

20日

朝起きると、同室人のおっさんが2人に増えていた。
起こさぬよう身支度をして朝食を摂った。
5時間揺られ続けるバスで酔わぬように、
2人分弱の量を、美味しくないながらも胃に入れた。
メトロ6番の循環線は、急ぐ我々を意にも留めずにのんびりと運行し、
バスターミナルに着いたのは出発5分前だった。

バスの最前列と真ん中に二箇所備えつけられた液晶テレビで
映画が始まったが、スペイン語である上に声が聞こえないので、
退屈しのぎに即興のアテレコをしてみた。五分で飽きた。
窓から見る風景は、とにかく陽を反射してまぶしかった。
郊外のそこここで、大きな団地が建設されていた。
12時頃、鞄からチョコドーナツを出して食べた。
1時すぎには小休憩があり、何か食べたかったが
空腹というわけでもなかったのでやめておいた。
景色は次第に起伏を帯び、むき出しの黄色い丘の連なりに
低木が規則正しくどこまでも続いている。
あまりに規則正しいので、植林事業でもあったのかと考えたが、
そう考えるにはあまりにも広い。
また調べてみたい事項である。

グラナダに着いた15時半、さっそく次の目的地への切符を買うことに。
モロッコのフェズへの直行があり、なんと午前3時発の午后8時着。
ジブラルタル海峡に面した港町アルヘシラスから
フェリーでモロッコのタンジェに行き、
そこで現地の長距離バスを探すことにしていた我々は、
そもそも道程が休みなしでも17時間かかるとは知らなかった。
グラナダからアルヘシラスへのバスの始発は朝8時からで、
それに乗ってフェズに予定通り投宿できなくなることを危惧し、
たといその17時間のバスが90€以上もするとはいえ、
文句は云うまいと、思い切ってその高価なチケットを買った。
これで、グラナダの2泊は1泊になる。
友人の携帯電話に残ったクレジットでホテルに電話し、
とりあえず予約をドタキャンすることに。
旅全体への見通しがついたところで、
バスの窓口に併設された観光案内で地図をもらい、
見所を簡単に教えてもらった。

バスターミナルから市内へバスに乗り、グランヴィア1で下車。
そこから大聖堂の脇を抜けてホテルへ。
受付のおじさんは簡単なフランス語ができたので、
2泊を1泊に変更したい旨を云うと、
ネットカフェから予約サイトを通じて変更してほしいという。
取りあえず宿泊手続きのためパスポートを預けると、
おじさんはメモを取りはじめた。
部屋に荷物を置き、教えられたネットカフェから
予約の変更と、ついでにアルハンブラ宮殿の入場券のオンライン購入をした。
ホテルに戻るとおじさんは、まだ書いているからと、
パスポートを返してくれなかった。
30分経ってどうしてまだ終わってないんだ、と訝りつも、
予約の変更は完了し、キャンセル量も発生しなかったことに安堵した。

まだ五時過ぎで日没まで時間があったので、
アルバイシンという旧市街に行った。
丘の裾に位置し、細い迷路のような道を上ってゆく。
家はどれも飾りのない壁をしていて、
ときどきイスラム調の門があったりする。
アルバイシン地区の北には、小さな広場があって、
主に観光客がのんびりとしゃべっていた。
あまりにのんびりしていて、犬までが地べたに横臥して目を閉じていた。
谷を挟んで向かいにはアルハンブラ宮殿が森の中に建ち、
その遥か向こうにも山々の稜線が見え、とても景色がきれいだった。
細い道を行くため、路線バスも小型だったが、
それには乗らずに足で下りた。
広葉樹からヤシ、サボテンまで幅広い種類の植物が、
茶色屋根の連なりに映える、綺麗な街グラナダだった。

目抜き通りグランヴィアに戻り、歩いていると、
道に落ちているある物体を、友人が踏んだ。
口を指で左右にいっぱいに拡げながら「文庫」と云おうとすると
代わりに発音されてしまう、とある物体のことである。
日常から、その物体を踏んでしまうことに
異常なまでの恐れを感じている友人に、
たったいま起きてしまった事故のことを指摘すると、
彼は非常に悲しみ、犠牲となった靴との思い出を語りながら、
水たまりを見つけては熱心に浸し、噴水を見つけては洗っていた。

いろいろ歩いた末に良いレストランを見つけられず、
大聖堂近くで入ったレストランは観光客向けだった。
あまり美味しくないスープと揚げ物だったが、
パンとともに空腹は満たされた。
ホテルに戻ると、さすがにパスポートの写しは終わっていた。
シャワーはマドリッドの初日の部屋のように、
部屋の片隅に小さく仕切られたもので、なんとも入りづらかった。
部屋のベッドは残念なことにツインではなくダブルだったので、
寝ているときは掛蒲団の奪い合いだったらしく、
自分の無頓着な寝返りのせいで友人は寒い思いをしたようだった。
申し訳ない。

2.6.08

五月の旅行記3 マドリッド

19日

味気ないユースの朝食を無理に喉から腹に入れ、
今日向かう先は、と地図を開いた。
昨日、逆方向に出てしまい近づいていた王宮に行こうかと、
メトロに乗ってオペラ駅で降りる。
オペラの向こう側にひらけた広場の奥に見えた真っ白な建物は、
王宮というには小さすぎる気がしたし、
スペインというには白すぎるような気がした。
ルーヴルというよりオルセーという感じのコンパクトな感じが、
親密で心地よかった。
装飾もヴェルサイユのようなごてごて趣味ではなく、
部屋を移動するたびに変わる色調の、特に緑色には暖かさがあった。
かといって壮麗ではないというわけではなく、
ストラディヴァリウスが飾られていたりもした。
いまだ王国のスペインだが、王族が住んでいるようには思えなかった。
ということは、あの守衛たちは何を警備しているのだろう?

王宮の横にあるカテドラルは、アルムデナ大聖堂というらしい。
外観に違い、内装は現代的で興味深かった。
メッスの大聖堂といいパリのサクレ・クールといい
バルセロナのサグラダ・ファミリアといい、
かくもステンドグラスの色が澄んでいて美しいのは、
デザインなのか技術なのか。
中世風の絵があり、かと思えばルネサンス風の絵、
天井はポップアートや、キリスト教らしからぬ幾何学模様と、
一つ一つを見ると確かにごちゃ混ぜだが、
全体として不可思議に統一がなされているように感じた。
茨の冠をかぶり十字架を背負って苦しむキリストの像が、
自分としてはもっとも心を打った。

マヨール通りをソルへと向かい途中、
ムニュが9,50€のレストランがあったので入る。
内装がシックだったので量に覚悟をしたが、
ギャルソンはスペイン語の解らない我々に対し、
牛や羊の鳴きまねをしたりして懸命に料理を説明してくれ、
その料理もおいしかった。
ワインがボトルではなくグラス1杯だけだったので、
幸か不幸か、さして酔う羽目にも至らなかった。

長距離バスの時刻を調べるため、アトチャ駅に行くが、
レンフェ(スペイン国営鉄道網)駅しかなく、
もう一度地図を見ると、目的は隣の駅だった。
駅にはなんと中に小さな植物園と池があり、
その中を亀が何匹か泳いでいた。
せっかくすぐそばにソフィア王妃芸術センターがあるので、
バスは後回しにして入館する。
ダリの『大自慰者』『雨後の隔世遺伝の痕』など、
超有名な作品も多々あって、立ちっぱなしの脚の疲れさえなければ
いくらでも時の過ぎるに任せていたことだろう。
もちろん、目玉のピカソ『ゲルニカ』も、しっかりと観た。

センターを出て、メンデス・アルヴィロ駅からバスターミナルへ。
「オラリオ・ア・グラナダ、ポル・ファヴォーレ」という
正しいかどうかもわからない自称スペイン語で、
窓口でグラナダ行きの時刻表をもらう。
10時15分発のチケットを買い、
マドリッド最後の晩を美味しく締めくくるためソルに向かう。
「どん底」というゴーゴリな店名の日本料理店を探しつつ
見つからなかったときのために他のレストランも検討し、
ソルの南をさまよい歩く。
結局見つかった「どん底」は、やはり値が張る料金設定のため、
ムニュ10€の普通のレストランへ。
自分の頼んだ牛タンの煮込みも、友人の食した牛の脳みその揚げ物も、
これまでスペインで食べてきた料理の一、二を争う美味しさだった。
話も盛り上がり、会計を済ませたのが10時半過ぎ。
明日の出発もあるので、あまり乗り気ではなかったのだが、
昨日の夜にユースの受け付けて訊いておいたフラメンコの観られるカフェを探す。
11時までに見つからなかったら帰る、という自分の条件に対し、
友人は、尋常と遥かにかけ離れた方向感覚の鋭さを発揮して、
ものの20分もしないうちに、ほぼ最短ルートでカフェを見つけ出した。
30€少しを支払って入り、舞台前の席に通される。
踊り手たちはそう若くはなかったが、熟練が相当に映える踊りなのだろう。
歌い手の絶叫するような声の張り上げ方もよく、
まさにマドリッド最後の晩を飾るにふさわしい美しさだった。

ユースに帰ると、空きのベッドのうち1つに、おっさんが寝ていた。

五月の旅行記2 マドリッド

18日

八時過ぎに起き、身支度をしてすぐにユースへと向かう。
一時間ほど待ってからようやく二泊分のベッドを確保、料金を支払う。
建物の真ん中の吹き抜けスペースをエレベータが四階まで通っていて、
とてもゆったりしたユースだった。
荷物を宿から持ってきてロッカーに突っ込み、観光へ。
グランヴィアで市があるというので、メトロで向かう。
駅を出たそばから露店が軒を連ね、どこまで行っても果てずに、
サンダルやら安そうな衣服やらサングラスやらその他もろもろを売っていた。
スリやひったくりに注意しながら、店の連なるがままに歩き、
友人は中世の祭壇画のミニチュアのようなものを買っていた。
正午を過ぎて、このまま徒歩でプラド美術館まで向かおうと、
手許の地図と実際の通り名の標示を交互ににらめっこしながら、
あちこち行ったり来たりしながら、とうとう方向がわかり、
延々と歩いた末、なんと真逆の果てに行き着いた。
すでに一時前で朝食もない空腹には勝てようもなく、
スペインにしては高い12€のコースの店に入った。
もちろん飲み物はワインで、グラスに注がれた赤を、
喉の渇きから、一気に飲み干してしまった。
その後、料理とともに瓶の2/3ほどを飲み、
おかげで、メトロに乗ってプラド美術館に着く頃には
酔いが回って眠たくなってしまい、
せっかくのエル・グレコやルーベンスなどの名画の数々を前に
観賞に集中できなかった。
それでも、ボッシュの絵の素晴らしさには目を醒めさせられた。

六時半、友人との待ち合わせで美術館入り口に戻ると、
地球の歩き方ヨーロッパ版を盗まれたと云う。
入り口の空調設備の裏の隙間に荷物まとめて隠し置いていて、
戻るとなくなっていた、とのこと。
それは盗んだのではなくて持って行かれたというものだが、
取り返さねばと、受付に行ったりしたが、ないとの返事。
スペインにはこれから数日いるのに、そのための手助けが不意になくなったので、
フナックでロンリープラネットでも買おうかということも考えたが、
ないならないで仕方ないと、美術館を出てちょうどあった観光案内所で
無料の地図やガイドをもらう。
そこからメトロに乗る途中、妙なおっさんに、
日本人ということで日本人サッカー選手の名前を挙げられ、
脚を掛けてきたが、気をつけていたからか財布を掏られはしなかった。

ユースに戻り、夕食に街をうろついてみる。
昨晩に友人がラーメンを食べた界隈は中国人街で、
中華料理屋や公司が多かった。
結局、昨晩の友人と同じ店に入り、
野菜と魚の入ったラーメンを食する。
量は多くなかったが、久しぶりのアジアの味にほっとした。
ユースに戻り、汚いシャワーを浴びても
二段ベッドに寝転んで上板の落書きを眺めていても、
空いている二つのベッドを埋める人物は入ってこない。
珍しいことに書き物机があったので、
持ってきていた便箋を取り出し、待ち人に手紙を書く。

1.6.08

五月の旅行記1 ルクセンブルク、マドリッド

17日

朝6時半、前日に買って作っておいたバゲットのサンドイッチを手に家を出た。
明けきらぬ朝の薄い靄の中をÉtoile Bourseへ向かい、トラムで駅へ。
コライユでメッスへと向かうが、途中で減速、
おかげで20分ほど到着が遅れ、ルクセンブルクへの乗り継ぎが一本ずれた。
ルクセンブルク駅はコルマール駅ほどかそれ以下の規模で、
一公国の陸路の玄関口とは思えない。
実際、車のナンバープレートの国表示は
Lが多いものの、F(フランス)もD(ドイツ)も少なくない。
ここから、フランクフルト郊外のハーン空港へのシャトルバスを探さねばならないが
バスの停留所めいたものが駅前広場さながらに広がり、
どこに目当ての発着口があるとも知れない。
バスの運転手に聞いて指した方角に行っても、それらしい表示は何もない。
他の数人の運転手や駅員や、揚げ句の果てにはホテルの受付にまで聞いて、
結局見つかったのは、偶然そのバスがバス停の隅に止まっていたからだった。

ルクセンブルクの公用語は三つ。ドイツ語、フランス語、そしてルクセンブルク語。
それはもちろん知っていたが、標示としてはフランス語が優勢のようだった。
店の看板やホテルは、フランス語がまずあり、ドイツ語が下に沿えられていた。
もっとも、バスの運転手同士はドイツ語かルクセンブルク語かで話していたし、
尋ねた運転手の一人はフランス語ができなかった。
道行く人の声を聞いても、フランス語はそう多くはなかった。

ルクセンブルクは今回の旅行の第一の目的地として、
何を観光するか少しは考えていた。
しかし、空港へ二時間もかかる(その上20€もする)シャトルバスのせいで
駅舎以外には何一つ観ることはできずに終わった。
窓の外の風景に目をやって、
ドイツの農村風景はフランスのそれとは微妙に違う、
とぼんやり考えつつ、少し眠った。

ハーン空港から、今晩泊まるユースホステルへの電話を試みた。
予約票に、午后五時以降の到着の際は要連絡、と読み取れるスペイン語があったからだ。
しかしドイツ語表記の公衆電話の操作は煩雑で、結局いいや、と諦めた。
さっさと手荷物検査を通過して、友人の通過を待つが、
えらく遅れて出てきた。
コンタクトレンズの保存液の容器が大きすぎるということで
詰め替えさせられていたらしい。
カールスルエでもボーヴェでもジローナでもストックホルムでも許可されていたのに、
なぜ今駄目なのかは釈然としなかった。
逆に、ボーヴェでは通過できず破棄された顔面洗浄剤は、今回は問題なくくぐり抜けた。
フランクフルト郊外で1,50€のホットドッグを食べるのもよかったが、
単にパンにフランクフルトソーセージが挟まっただけだったのでやめた。

午后三時から二時間の飛行の終わりでは、地表はすっかりスペインになっていた。
畑と森の交互がフランクフルトの地表で、砂地にまばらな木々がマドリッドだった。
格安航空会社とはいえ、マドリッドでは他航空会社と同じ大きな空港に到着した。
空港からバスではなくメトロで移動できるメリットは楽だったが、
言葉と文字がスペイン語になっていた。
綴りを見れば大意は取れるが、発音は大きく違う。
メトロで回数券を買い、ユースの最寄り駅へのルートを探す。
マドリッドのメトロは広く伸びていてややこしいものの
構内は清潔で新しく、車両はデザインがストラスブールのトラムに似ている。
古くて汚く、階段の多いパリのメトロとは比べ物にならない。

アルゲレス駅を出て、手許の地図を見ながらユースにたどり着く。
予約票を見せるが、案の定すでに五時を過ぎて予約は取り消されていた。
スペイン語しかできないおばちゃんは、それでも別の安宿を手配してくれ、
明日の朝に来るように云った。
その宿は、ユースから歩いて十分もかからない場所にあり、
何の変哲もない住宅のなりをしていた。
扉のブザーを鳴らし、自分の名前を云うと鍵が開いた。
シャワーと洗面所はあるがトイレは共同という一室に通され、
パスポートを見せて一人15€支払った。
昼に何も食べていない空腹を満たすべく、
荷物を置いて早速、マドリッドの街に繰り出した。
賑やかな人通りの中を、スペイン広場を抜けてソルに至る。
夕陽を受けたアブランテス宮殿の脇を抜け、
マイヨール広場への途中にレストランを見つけ、
観光客向けで英語メニューなどもあったが、空腹には堪えられずに入った。
店には豚のおそらく腿の肉がずらりと吊るしてあって、圧巻だった。
自称、ペルー出身で日本人の奥さんのいる店員がうるさかったが、
友人はイベリコ豚のハムのサンドイッチを、自分は揚げ物のセットを食す。
パンがカスカスでまずい上に別料金だった。

近くで賑やかな音楽が聞こえてきたが、
食べ終わるころにはもう終わったようだった。
マイヨール広場に行くと人だかりができていて、
ほどなくすると、巨大スクリーンに司会のような女性が映し出された。
広場に設えられた舞台でのオペラを映し出しているのだった。
スペイン語が解れば面白いのだろうが、人物たちの動きと音楽を楽しむしかない。
しばらく観た後、宿に戻った。
友人はさすがにハムのみのサンドイッチだけでは腹が満たされなかったのだろう、
自分がシャワーを浴びている間に、
中華料理屋でラーメンを食べてから帰ってきた。