18.6.08

『これはパイプではない』/バレーボールの試合のテレビ放送

ルネ・マグリットの絵画『これはパイプではない』について書かれた
ミッシェル・フーコーの評論『これはパイプではない』を読んでの、私見。

明らかにパイプであるデッサンと、
その下に書かれた一文 « Ceci n'est pas une pipe. » と。
ルネ・マグリットによって、この二つがいかにして提示され、
矛盾しているのかを考えたとき、
フーコーは、言説と断定の合間を縫ったのだ、というような説明をしていた。
なるほど。

そもそも、なぜ、絵と文字が同時に提示されねばならないのか。
絵が文字を、文字が絵を説明することで互いに補完しあっている、とする考え方が一つ。
これをフーコーは、カリグラムを援用して説明していた。
一方、自分は、絵画『これはパイプではない』を観て、
パイプの絵と« Ceci n'est pas une pipe. »の文面との不自然な結合が
画家の積極的意志によるものと考えなかった。

カンバスを六つに仕切る枠のそれぞれの中で、卵の絵とその下に「アカシア」の字が、
靴に「月」が、帽子に「雪」、蝋燭に「天井」、コップに「雷雨」、金槌に「沙漠」
というように、敢えて絵と字が違っている、というものがあるし
また、« Ceci continue de ne pas être une pipe. » という、
(パリ市の通り名の標示に似た)標識がパイプの絵の下にある、というものもある
これらから、パイプに対して下の文面が後付けに思えた、
いや、むしろ、お互いに独立していたのに
外部からの圧力が、マグリットをして互いに矛盾する両者を併置させた、と自分は考えた。
言語の濫用・乱用が。

垂れ流される広告に乗って惜しげもなく使われる最上級の文句の数々、
選挙活動で次々と飛び出す、嘘か本当か分からない煽動と公約、
そして、壮麗に着飾った氾濫する言葉を存在しないが如く往来する無数の人々。
商業的にか政策的にかわからないが、すでに言霊なんて現代では死に瀕している。
だから、パイプに「パイプではない」という正反対の文句をくっつけたって
言葉も絵も逃げ出さずに、結局一つのカンバスに悠々と収まっているわけだ。
『これはパイプではない』は自分にとって、言霊の死に思えたのだ。


話しは変わって、バレーボールの試合のテレビ放送について思ったこと。
実況、カメラワーク、選手紹介などをすべて取り払って、
ネットを中心にした俯瞰図でカメラを固定し、
試合会場の映像と音声を延々と垂れ流し続ける、という放送にしてくれればいいのに。
そうすれば、上から見た選手の頭があちこちせわしなく動き回って、
ボールが行き来するだけの、単純な電子運動めいた試合風景になるだろう。
できれば、観客もいなければいい。
観客のほとんど誰もが、選手との個人的つながりなんてないのだから、
国籍が同じというだけで声を張って応援するのは不条理だ。
選手と審判と監督がいれば、試合は成り立つし、
試合は選手のためのものだ。だからスポンサーも要らない。

小中高と、クラス分けというものがあった。
四月に40人ほどの集団を、構成員の意思を無視して併存させる。
常に同じ集団で行動させ、スポーツ大会やらで集団間の競争を煽るだけで、
あ〜ら不思議、構成員はみずから集団への帰属意識を持ってくれるのだ。

クラスっていうのは、国籍のようなものだ。

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