5.6.08

五月の旅行記6 グラナダ、アルヘシラス、タンジェ、フェズ

22日

着いてみると、前夜祭の正体は、単なる移動遊園地だった。
過剰な冷たい光とはしゃぐ熱気に満ちて、
会場はアトラクションの発する音と人の騒ぎあう声でかしましかった。
もっと伝統的な祭りを無意識に期待していた我々は、
期待はずれの無口のまま、そううろうろもせずに会場を出た。
午前1時。あと2時間をやりすごさねばならず、
当初の計画通りバーでタパスをということにした。
しかし場所は住宅街で夜、来た道にあったバーに落ち着いた。
だが店員はスペイン語しかできず、
メニューをと友人が指でカードの形を作ると
「トーストは朝だけだ」と莫迦にするように説明され、
後ろで飲んでいた女の子二人が下品に笑いを漏らしている。
気分の悪い店なので勝手に出てゆき、
もう一軒あったバーでサンドイッチだけ買おうと
友人は入っていったが、もう閉店という。
しまいには、マクドでだらだらしようと試みても、
酔っぱらいの学生のような集団に英語で
「閉まったよ〜ん」と云われ、
バスターミナルで深夜の2時間の過ぎるのを待つほかなくなった。

バスターミナルでは、深夜便の出発を待ってか、
何人かが座ったまま目をつぶっていた。
トイレで顔を洗い、もう一度タオルを濡らして体を拭く。
眠気はすぐにでも背後から襲ってきそうだったが、
本を読んだり友人と話したりしていると眠くはならなかった。
3時10分前、電光掲示板に表示された番号の停留所に向かったが、
なぜかバスも客もいない。
アルヘシラス行きのバスが出そうだったので運転手にチケットを見せると、
バス出口から出たところだ、という。
奇妙な話だがあと5分もないので、荷物を持って指差された方角に走った。
と、ターミナルから出て、歩道に何人かの若者がいた。
バスの影も形も見えなかったが、一人で座っている女の子に、
モロッコ行きのバスはここでいいのか訊くと、そうだ、という。
スペインとモロッコの二重国籍だと云うし、
まだ時間になっても来ないことにそわそわする様子もないから、
乗り慣れているのだろうと思い、ひとまず安心した。
別の連中はフランス語で話していて、
ほどなくして、一人を残してみな引き揚げていった。
80年代のパンクといった髪型にピアスの男で、
マラケシュへと向かう途中のボルドレだった。
たった4人でバス1台とは贅沢に乗れるのではないかと思ったが、
だいぶ待ってようやく来たバスの中は、
暗く、みな眠っているかうつむいているかで、時たま赤ん坊が泣き出す、
旅路そのものが悲嘆にくれているような雰囲気だった。
座席はみな荷物を自分の横においているせいで、
我々だけ横並びの2シートに座らねばならず、
なんだか損をしたような気分になった。
しかも友人は、寝るためにシートを倒すと後ろから理不尽な文句を云われ、
倒すことがままならなかった。

途中に寄ったトイレ休憩以外は、午前5時に下ろされるまでずっと眠っていた。
ジブラルタル海峡の港町アルヘシラスに着き、下りるよう云われたとき、
寝起きの脳はフェリーに乗り換えるとは知らずトイレ休憩と思った。
Nous sommes à Algeciras ?(アルヘシラスにいるの?)と訊きたかったのに
Nous sommes ici ? (俺らはここにいるの?)という
わけのわからない文章を口から発せさせた寝起きの脳に、
バスの運転手は優しくスペイン語で、Si. と云ってくれた。
荷物はバスの中に置いたままでよいというので、
肩掛け鞄のみ持ってバスから出た。
全然問題はなかったのだが、置きっぱなしはやはり不安ではあった。
フェリー乗り場の待合室で、起きているとも寝ているともなく待ち、
やがて運転手の配ったフェリーのチケットを手に、
税関でパスポートにスタンプを押された。

空腹を覚えたので、昨日の夕食前に買っておいたドーナツを食べる。
フェリーなんて何年ぶりのことかわからなかったが、
こうして揺られながらジブラルタル海峡を越えられるのは嬉しかった。
ユーラシアとアフリカの二つの大陸を隔てる
国境線としての海を実感したいがために、
モロッコだけだった今回の旅行での行き先に
スペインを加え、さらにそこからバスとフェリーで移動するという
金も時間もかかり面倒な手段を択んだのだ。
フェリーの中はすでに半ばモロッコだった。
一軒だけある免税店の看板も、携帯電話の広告も、
アラビア語とフランス語の併記だった。
さらに、船の奥には簡易モスクがあり、
乗客の女性の多くはスカーフで髪を隠していた。

椅子に座り、パスポートチェックの始まるのを待っていたが、
一向にその気配がないので、いくつかある待合室をうろつき、
さらには友人と甲板に出てみた。
階段を上りドアを開けると、風の吹きつける艫(とも)に出た。
ユーラシア大陸はまだそう遠くなく、逆にアフリカ大陸はまだ見えなかった。
正確にはアルヘシラスは、大西洋から地中海を閉ざすジブラルタル海峡ではなく、
そこから少し東にいった地中海に面している。
そのためだろう、二大陸間の距離はそれほど近くないし、
風は潮の香りをほとんど含まない。
海は青に濃い緑色をこっそり溶かし込んだような色をしていて、
フェリーのつくる衝撃波も白に淡い青と緑の泡となって海面に刻まれる。
アルヘシラス、タンジェ間の行き来は多いらしく、
何隻もの船が我々のフェリーと同じ向きに走っていた。
一面が海の景色を風に吹かれながら眺め、
甲板の上をあちこちうろついてから、
パスポートチェックがまだか見るために下に戻る。
しばらく始まる気配はまだなかったが、
ようやく、モロッコ側の警備らしき人の前に列ができた。
パスポートに押されたモロッコ入国のスタンプは、
「タンジェ警察」「入国」そして日付がフランス語で記され、
それとは別の3行のアラビア語のどれかが国名を示しているのだとしても、
これでは一目見てどこの国なのかわからなさそうだった。

再び甲板に出ると、向かう先に陸が見え、俄に昂揚した。
それは見る間に大きくなり、建物だらけの街が拡がっていた。
一本高く見える塔は、教会ではなくモスクのミナレットに違いなかった。
下に戻り、舳先にある営業しているのかわからないバーに行き、
入港のため碇を下ろす作業と近づいてくる街を眺めた。
やがて船が到着した。アフリカ大陸初めての一歩を踏みしめ、
ぞろぞろ列になって歩いていった。
待っているとバスが出てきて、しかしナンバープレートは
EU仕様からモロッコ仕様に替えられていた。
それに乗り、荷物の無事に安堵して席に落ち着いた。
しかし、すぐに降りるよう云われた。今度は荷物も背負ってだった。
行く先に従ってバスを乗り換えるらしかった。
フェズへはと訊くと指差したバスでは、
荷物を下のトランクに入れようと、その前に人が群がっていた。
あまりにだらだらやる上にまだ乗車できそうになかったので、
そばで小さな屋台に目一杯の商品を並べている売り子に、
袋入りのパンがいくらなのか訊いてみた。
いくつか入って30DHでスペイン水準の倍ほどは安かったが、
ディルハムをユーロで払う場合は、
だいたい11DH=1€のところを便宜上10DH=1€で計算されてしまい、
明らかに損になると聞いていたで、
まだディルハムをもっていない身としては、買いたくなかった。

荷物を載せるおじさん達と乗客がまだ何やら大声で話しながら
少しずつトランクに荷物を入れているバスのトランクの脇に戻った。
厭でも耳に入る言葉は、しかしさっぱりわからない。
かなり崩れたスペイン語のようにも聞こえるが、
やはりアラビア語なのだろうと思った。
やがてバスの扉が開かれ、フェズ行きを確認して乗った私と友人は、
寝不足と狭かった座席、そしてフェリーにより昼前にしてすでに疲れていたため、
席に座るやいなや隣に荷物を置いて、ゆったりした一人席を確保した。
いよいよ走り出すと思いきや、運転手らしき人が通路に立って
何か云い、少し車内がざわざわとなった。
通路向かいに座っていたおじさんがこちらの様子を見ているので、
何なのかフランス語で訊くと、
伝わらなかったらしく何やら云っている。
その中に「フェス」と聞こえたので、行き先かと思い「フェス」と繰り返すと、
おじさんは納得したような表情をした。
自分も、さぞ安心、というようなみぶりをした。
ようやく走り出し、しかしすぐにガソリンスタンドに入った。
そこでまたしばし待たされ、ようやく走り出した町並みは、
これまで訪れたどの街ともちがっていた。

気がつくと眠っていた。バスが停車して目が醒めた。
昼食の休憩だというので、バスを降りた。
公園のようなスペースに、屋台を大きくしたようなレストランと、
向かいには別の小さな屋台、なぜかシャワーもついているトイレ、
そしてキャンピングカーがいくつか停まっている広い駐車スペースがあった。
レストランのメニューがレジの上に掲げられていて、
それはフランス語だった。
どれがムニュなのかも何を食べたらいいのかもわからない一方、
屋台の方はメニューは20DHのケフタ一つだけだった。
別の人が頼んで出たものを見ると、ケバブと同じようなものだった。
友人はなぜかレストランでオレンジジュースを9DHで買って、
そのおじさんとしゃべっていた。
なぜオレンジジュースなのか訊くと、
モロッコで美味しいとネットで見たからということだった。
絞りたてで美味しい、といって彼は二杯目を買い、
自分は2€でケフタを一つ作ってもらった。
空腹だったのでするすると入った。
ケバブと違うのは、肉がひき肉を平たくして焼いたものである点ぐらい。
半ば野外のテーブルにつき、食べはじめた。
食べていて驚いた。蠅だらけで、当たり前のようにテーブルや体に止まる。
ケフタの屋台でも、積んであるパンに蠅が止まっては飛んでいった。
こうも近しくされては食事に集中できなかったが、
同じバスに乗ってきた人も、途中から来て食事を始めたフランス人老夫婦も、
わずかばかりの気も留めない。
これが普通なのか、と納得した。

食後、トイレに行き、ベンチに座ってぼーっとしていると、
通路向かいに座っていたおじさんが、木の陰で祈っていた。
布を敷いて靴を脱ぎ、頭を地面につけているのだった。
それが至極自然に見えた。
やがておじさんは立ち上がり、敷物をはたきながらバスに向かう途中、
私と友人に気づいた。
どこから? ──日本。 学生? ──フランスの学生。
いつものやりとりの末、おじさんは簡単なフランス語なら話せるとわかった。
スペインで働いていて、メクネスに帰るらしい。
バスに乗ってからも、席が近いので少し話した。
友人は、アラビア語で「ありがとう」「こんにちは」を訊いて、
それをメモしたりしていた。「ありがとう」は「シュクラム」、
「こんにちは」は、先に行ったほうが「サラム・アレクム」、
云われたほうの返事は「アレクム・サラム」になる。
他にもいろいろな役立つ表現を、友人が自分の後ろの席で、
横のおじさんやさらに後ろの人から
いろいろ教えられているのを、自分は目をつぶって聞いていた。
やがて、眠った。

道が悪いからか、次第に揺れが激しくなっていった。
外の景色も変わっていた。砂地に岩や石がごろごろしていて、
そのあちこちに木々が生えていた。
道路標識もやはりアラビア語とフランス語の併記だった。
もちろん、建物が過ぎ去ったり、視界が開けたりはしたが、
森が現れるということはなかった。
相変わらずひどい揺れだった。
遊園地で乗り物系のアトラクションに乗ったような感じだった。
と、友人が急に後ろから手を伸ばして背中をつついてきた。
しんどそうな声でビニール袋があるか聞くので、
リュックから出して渡すと、その中に戻しはじめた。
背中をさすりつつ、この揺れでは無理もないと思った。
近くのおじさんたちも心配してくれ、
メクネスからフェズまでの道は大丈夫だから、などと云ってくれた。
ただ、あとフェズまで何時間ぐらいかかるかと聞いても、
語学力不足のせいか、きちんと伝わらず、
フェズからはそんなに揺れない、と繰り返された。
友人がひとまず落ち着き、そのままどれくらい揺られたかというあたりで、
おじさんが、ではいい旅を、と云ってバスから降りた。
なぜフェズより南のメクネスに先につくのかわからなかったが、
あと二時間ほどで到着することはわかった。
モロッコとスペインにどれくらい時差があるのかもわからなかったので、
今が何時なのかもわからなかった。

ようやくフェズに着いたのは、夕方前といった陽の傾き具合の頃合いだった。
友人は降りるや少し待合室で横になり、だがすぐに大丈夫と云って立ち上がった。
市内に入ってからバス駅に着くまでの道を見ると、
フランスやスペインほどは通り名が掲げられておらず、
地図もないので、ユースホステルを探すのに少し手間取りそうだった。
待合室から出るとすかさず、若い男が近づいてきて、
英語で、ホテルはもう取っているのか、と聞いてきた。
もうユースに取ってある、と云うと、
ユースはあまりよくないからいいホテルに移るといい、と食い下がる。
しつこいので遠ざけようと思い、銀行に行くから、と云うと、
あっちにあるから案内する、と、駅を出ても付いてくる。
とにかく遠ざけたかったので、ユースの地名を見せて、
どう行けばいいのか訊くと、あっちに行けばある、と教えてくれたものの、
自分がホテルを紹介するから、そこなら快適だし安く済む、としつこい上に、
観光案内を自分がするから、と云って、電話番号を紙に書いて押しつけてきた。
メクネスへ行くための時刻を窓口で訊こうにもおせっかいに先回りしようとするし、
いつの間にか呼び方がmon amiになっているので厭わしくなり、
明日電話するから、となんとか遠ざけて銀行のほうに行った。
銀行は明らかにBNP Paribasのロゴだったが、BMCIという名だった。
もう閉まった、というので、ATMで100DHほどだけ下ろした。
うざったい男がどこかに行ってしまったことを確認してから、
カフェでくつろいでいるおじさん二人にユースの住所を見せた。
店員も来て三人であれこれしゃべった後、
うざったい男の云ったのと同じ方角の先のモスクの向かいだと云う。
礼を云ってそちらに歩を進める。
が、モスクらしいものが見当たらないので、もう一度人をつかまえて訊くと、
こっちだと云って、一緒に付いてきてくれた。
モスクは、そこそこ交通量のある道路の向かいの公園の奥にあった。
おそらくこっちだ、いや違う、とモスクをぐるりと回り、
最後は番地の番号を見ながら、モスクから少しだけ離れたところにユースを見つけた。
呼び出しベルを鳴らすとドアが開き、おばさんが出てきた。
到着が遅れるとメールをもらったのに、早かったね、と云いながら、
朝食の時間や洗濯ができることなど、当ユースの諸注意を長々と教えてくれた。
案内してくれた部屋は、ユースだが二人部屋で助かった。

とにかく街に出てレストランを探すことにした。
友人との言葉のキャッチボールすら億劫になるくらい空腹で飢えそうであっても
少しでも安く食べたいという平生の心構えはどうでもよくなることはなく、
街だというのに少ないレストランをいくつか回った根性は、
吝嗇なのか倹約家なのか意地なのか。
どのレストランにもムニュはなかったので、結局、モロッコ料理を出す店に入った。
蠅が二、三匹飛び回っていてうんざりしたものの、
それが当たり前の国なら慣れるより仕方がなかった。
前菜にモロッコ風サラダ、メインにタジンを頼む。
注文後、友人はすぐに外へ出て、自分独りぼーっとしていた。
友人が水を頼んだとは知らず、持ってこられた1.5リットルの水を、
頼んでない、と拒絶したとき、友人が戻ってきた。
慌てて受け取り、どこに行っていたのか問うと、水を買いに行っていたのだと云う。
レストランに余所からの水を遠慮して飲まない律儀さに敬服したが、
そんな細やかな配慮を客側がしなければいけないところなのかどうかは、
まだ数時間も滞在していないのでわからなかった。
サラダとパンが出された。パンはケフタと同じ丸いもので、
フランスではケバブ屋で食事をすると一緒に出されるものと同じ。
サラダはトマトときゅうりの角切りにオイルドレッシングのかかったもの。
瑞々しく、いくらでもパンが進んだ。
タジンはモロッコの代表的な、煮込み料理。
底の浅い陶器の器に三角頭巾のような蓋をして運ばれてきた。
蓋を取ると中身がまだぐつぐつ云っていて圧巻だったが、
味つけはシンプルで、野菜の味が出ていた。

食事中、テラス席からおばさんが来て、英語はできるかと尋ねてきた。
フランス語のメニューがわからないらしく、
「pommeは林檎で…」などと教えた。
モロッコの公用語は憲法上アラビア語だが、
フランス語も公用語扱いで学校や大学の授業はフランス語、と聞いていた。
それは事実らしく、看板にも広告にも、
アラビア語とフランス語が併記してある。
英語は三番目の言葉、といった感じなので、
モロッコの旅行では少し苦労するのではないか、と思った。
横のテーブルで一人で来ていたおじさんも、
タジンの登場に圧倒されていた。
イタリアから来たらしく、アラビア語は昔勉強したがもうさっぱりらしい。

まだ時差がわからなかったので、店員に時刻を訊いた。
夏時間のフランスと二時間の時差だった。
まだ七時過ぎなのに暗くなるのが早いと感じながら、
イルミネーションに光る大通りを眺めていた。
しばらくしてはっとしたのは、その日没時間を、
日本と似ている、ではなく、フランスと違う、と感じたことだった。
記憶とは残酷なもので、直近の常識が優越するのだろう。
その大通りを歩いて、自分は先にユースホステルに戻った。
どの車も古い。そのため、排気ガスが汚い街だった。
友人は、少々値の張るサンダルを買ってから帰ってきた。
ユースのシャワーを見て、スリッパなりサンダルなりが要る、と
思ったからだということだった。

ベッドはやたらと柔らかく、寝ていて肩が凝りそうだった。
ほかは完璧で、とても居心地のよい場所だった。
通路は屋根がなくテラスのようで、BGMが流れていた。
もっとも、シャワーはほかのユースホステル同様に入りづらく、
うまいことやらないと持ち込んだものが濡れてしまう。
さらに悪いことに、シャワーで湯の出る時間帯は、
朝の二時間だけだった。
それでも自分は夜にシャワーを浴びたかった。
自然と水風呂になったが、これも運命とあきらめ、
体が冷えないように呼吸を荒げて水を浴びた。

部屋でくつろいでいると、茶色の法衣のような服をきたおじさんが来た。
旧市街のメディナに行くなら、バス駅でしつこかったような偽ガイドではなく
当局に認められたガイドを予約するから、どうするか決めてほしいということだった。
120DHだというので、明日の朝九時過ぎからで予約を頼んだ。
フェズのメディナは世界遺産である。
明日が楽しみだった。

0 件のコメント: