30.11.09

ブラム・ストーカー『ドラキュラ』、石井聰亙『爆裂都市 BURST CITY』

・ブラム・ストーカー『ドラキュラ』

反ドラキュラ陣営は速記、タイプライター、蓄音機、電報、
写真、新聞など19世紀末に急速に発展した情報通信手段を駆使する。
この技術の進歩がどのように作品内で現れているのか
識ること、これが、本作品をあえて読もうとした動機だった。

イギリス最大の繁栄たるヴィクトリア朝の末期に書かれたことが、
実は本作品の最大のポイントであることは、
読んでいてよくわかった。
(詳細な註釈の附された水声社版で読めてよかった)
当時は、イギリスの経済成長の頂点を過ぎ、
世論が次第に保守化していた(ちょうど現在の日本のような)状況。

小説内で登場人物たちは、最新の技術や学識を駆使する。
あるいは「新しい女」やタイピストが登場する。
優生学的な思考や、性別役割分業など
イギリスの高度経済成長を支えた社会秩序が
ちらりちらりと見え隠れする。
その背景を共有しつつ反ドラキュラ陣営が
月並みに一元化された「善」に結託すること、
これを私は保守と捉えた。
技術はイギリス繁栄の文明の象徴、
情報通信技術は、そのために持ち出されたのだと思う。

聖書、そしてシェイクスピアの影響があちこちにあるが、
これは枝葉末節部分に思われる。
例えばドラキュラ城の三人の女、これは『マクベス』だが、
だからといってあまり鍵になるようなことはない。

しかし、ドラキュラとの戦いが情報戦であるとみると、
この作品は面白かった。
情報が力となるのは、集積・整理され、
複製可能なものとして京有されるときだ。
この迅速さを増す技術として、
タイプライター、カーボン紙、蓄音機、速記術、電報が
小説内では大活躍する。

鋭く示唆的で面白かったのが結末。
顛末のまとめられた文書はautoriséされていない、
しかしこれが現実であることは信じてもらうしかない、と云ってしまうのだ。
情報は特徴として参照元を持たない。
それを根本的な危うさとして指摘しているわけだ。
だから、このあらすじは嘘かもしれない。
というか、小説だから嘘なんだけど、
その虚構性が小説から、現実の複製を通じて現実に忍び込んで来るに至った
ヴァーチャルな現代を、仄めかしているような気がした。


・石井聰亙『爆裂都市 BURST CITY』

上映時間にして二時間弱。
うち半分がどつきあいの喧嘩じゃないのかというくらい、
最後のシーン、長々と繰り広げられる乱闘が
目に耳にどぎつかった。
はっきり云って気持悪くなった。
即物的すぎる。えぐい。
それが魅惑といえば、確かに魅せた。

29.11.09

J.M.G. Le Clézio講演会

本郷での対談形式の講演会を聴講。

・ニースの、モーリシャス島の、光満ちた景色。
・exotismeからの脱却が、異文化理解への第一歩。
・映画の特徴に、現象学らしさ、心理主義からの遠さが挙げられ、なるほどな、と思った。

それにしても、あのキャンパスの、
虚仮威しじみた前現代性は、どうにかならないものか。

24.11.09

身分制再び

あらゆる社員が正社員だった時代が、「一億総中流」の題目に象徴されるように、
高度経済成長の各人の意欲と横並び意識を支えたことは有名だが、
バブル後と雇用格差のいま、そのような時代があったと、想像できない。

正社員か契約社員か派遣かバイトか。
仕事として何をするかではなく、どう雇われるかが、格差を生む。
いささか、戦前までと似ているように思う。

戦前、出身の学歴によって歴然と雇用が差別されていたことは有名。
社員が現代の正社員に当たり、雇員、傭員と続く。傭員は月給ではなく日給だった。
雇員と傭員の差はさほどないものの、
雇員と社員は大きく隔てられていたというところが、
現代の正社員と契約社員の違いに似ている気がする。

この雇用形態の違いは、主に(専らといってよい)学歴だ。
例えば、大学出身者は、最初から社員。
社員の中でも出身校で違い、帝大がトップで、続いて私大。
専門学校(その多くは戦後に大学になった)が一番下で、
ここらあたりだとスタートは社員とも限らない。
ちなみに、これらのどこに進学できたかは、
出身の(旧制)高等学校によったらしい。
現在の高校よりはるかに強い相関関係があったと思う。
高等小学校や中学出身だと、傭員からスタートで、
下の社員との給与の差は、初任給でも倍近くになった。

もちろん、その時代よりは格差は小さいのかもしれない。
だが、企業という同一組織内の格差は、
それ自体としてではなく、格差として認識が共有されることで、
はじめて問題になる。
だから、データがどうのこうのというのではない。
これは実感だ。私自身が契約さんと話をしていて思う。

しかし、そうも云っていられない。
人事系の業務の友人に聞いて知ったが、
地方公務員では下級正職員(=ヒラ)を主事という役職に任じる。
正職員であれば否応なく、契約職員の上に置かれるのだ。
これは、「正」「契約」「派遣」が、
本来の意味合いでは単に雇用形態の違いに過ぎないところに
上下関係を組み入れるという点で、露骨だという印象を受けた。

22.11.09

篠田正浩『桜の森の満開の下』、阿満利麿『宗教は国家を超えられるか』

・篠田正浩『桜の森の満開の下』

脚本に富岡多恵子、音楽に武満徹や渡辺晋一郎と、
知らずに択んだながら錚々たる顔ぶれが制作に揃っていることに驚く。
原作から、桜の狂気をどう出すかが見物だった。
京すら土色の多い、全体としてくすんだ色遣いの中で、
桜の森(と女の衣装)だけが生気を帯びて鮮やぎ、確かに狂いそうだった。
幻想的な撮り方で映画全体を包んでしまわず、
生々しさをそこかしこに露骨に見せて進行していったので、よかった。



・阿満利麿『宗教は国家を超えられるか』

幕末の国学から明治体制の確立まで、
どのようにニッポンの精神性が作られたかについて。
いくつもの新智識を獲得できた。
以下、メモランダム。

○桜を日本の象徴として特権的な地位に挙げたのは、本居宣長。
○明治維新後、主に在野からの天皇親政体制への少なからぬ反撥。
○国家神道という新宗教を「宗教ではなく、
 伝統ある日本の習俗」として浸透させたプロセス。
○新政府は国会開設や天皇制の行政システムを、西本願寺に試験的に導入した。
 それゆえ、宗会(=議会)や門主(=天皇)が置かれた。

21.11.09

クッツェー『夷狄を待ちながら』

帝国の辺境に及んだ帝国の論理が
どんな二枚舌的な不幸を招くか、の記録。
舞台は冷寒地だが、沖縄の敗戦前を思い起こさせた。

印象的だったのは、「歴史」についての主人公の独白。
帝国が歴史を創造した。帝国は、四季の循環の滑らかな回帰する時間の中にではなく、勃興と衰退の、期限と終焉の、カタストロフィの、荒々しい時間の中に自己を生き続けてきた。帝国は、歴史の中に生き、かつ歴史に対して陰謀を企むことを自らの運命としている。帝国の隠れた精神を占有する者はただ一つ、いかにして終焉を迎えないか、いかにしてその全盛期を長引かせるかである。(集英社文庫版、p.296)

帝国であれ企業であれ組織であれ結社であれ、
その存在の正統・異端を決定づけるものは、存在しない。
だからこそ、歴史を築き、そこから自らの由縁を引用する。
歴史は登場人物たちの縁起書として機能する。
好人物の主人公であればなおよいから、かくして歴史教科書は粉飾され、
「過去から学ぶ」ためでなく「自己満足」のための歴史が教えられる。
存在、あるいはアイデンティティーという、
曖昧で移ろいやすい存在を固定化するための歴史。
それは、神話となんら変わらない。

Claude Lévi-Straussが亡くなった。
「歴史の一般性」よりむしろ「語りとしての歴史」へと
歴史の捉え方が変わりつつあるように思われる最近の、
この推移を、象徴するかのようだ。
レヴィ=ストロースからクリステヴァ、
大江健三郎から村上春樹、ダーウィンから木村資生。
一般性に、時代固有の恣意性を混ぜるという手法だ。
不確定要素が入る分だけ、誤差は生じなくなるが、
そこに意図が混入する危険性があることを、忘れてはならない。
しなしながら歴史から学ぶという態度、
そのスタンスをどこに求めればよいのだろうか。

あ、なんか固くなったけど、この小説は本当に面白かった。

14.11.09

長雨

週の半ばから、雨雲のどんより重い日々だった。
昼頃に急に太陽が出て風も止み、溜まった洗濯を干したが、
あまりに湿気が多くて、窓を開けた途端にムッとした。
「卯の花腐し」の時節ではないにせよ、
木々もコンクリートも腐りそうな湿りだった。

昼食後、久しぶりにプールに。
初めて行ったプールは時間制限がなく、数人しかいなかった。
たっぷりと泳いでから、図書館にてしばらく本を選び、
クッツェー『夷狄を待ちながら』を少々読んでみて、
気に入ったので借りた。

9.11.09

J.L.ボルヘス『永遠の歴史』、ポール・ニザン『アデン、アラビア』

・J.L.ボルヘス『永遠の歴史』

論集。永遠というものがどう捉えられ、描かれてきたかの表題作より、
「ケニング」および「循環説」「円環的時間」が面白かった。
面白かった、というよりむしろ、知識と示唆に富んでいた。

「循環説」は、まぁ、いわゆる永劫回帰説だ。
世界が有限個の原子で構成されている以上、
その組み合わせもまた有限であり、
よって世界の瞬間瞬間は、他のすべての組み合わせが過ぎ去った後、
再び現れる、という、途方もない時間を言い包めたような説だ。
人は歴史を、その中身の因果応報の連続、として捉えがちだ。
人が生きるせいぜい数十年で、歴史なんてそんなもんだから。
でも、その流れ方一般、捉え方、
うまく折り合いを付ける方法、のようなものを
考えるとき、いやに薄寒い心地に、
空っぽな宇宙の果てを考えるような気分になる。
これはなんなのだろう。
涅槃なのか、ニーチェ的な超人なのか。


・ポール・ニザン『アデン、アラビア』

パリを脱出して、アデンへ。
この徒労じみたうんざりする旅程から見出した人間世界に
彼はめちゃくちゃ怒っている。
大人に対する、若者の怒り。
この本を、「でも」をつけずに読めること、
それこそが人間らしさなんじゃないかと、思った。
自分は今のところ、大丈夫。ニザンに加担できる側だ。

4.11.09

古井由吉『槿』

どうして、こんなに濃密で無駄のない散文が長編小説を書けるのかわからない。
文章が、こめかみに冴え渡り、あるときはねっとりと鼻腔に粘り着く。
この感覚。どこで感じ取って文章に写し取れるのか。

幻想曲が、幻想とつかずにたゆたいながら、しかし確かに耳には響いている、
とするとこの曲は幻想なのか何なのか、みたいな小説。
妖しい中年の男女関係、性、その駆け引きの、背筋の伸びるような大人っぽさ、
こういうのを読まされては、老いるのも悪くない、とすら思う。
危なっかしい、一つの小説としてばらばらに分解されてしまいそうなくらい
細部が妖艶に輝き、浮き沈みしながら連関しあい、形を保ってこぎ着けたような、
ええもんを読ませてもらった。

こういう女性と関わり合ってみたい。切に望む。

3.11.09

今日の行程70km



国道1号に沿って藤沢駅のあたりまで延々と道行き。
空があまりに澄み、光が眩しかった。
片瀬海岸で30分余り、陽光が江ノ島の海で物憂げに反射するのを、
その海に無数に突き立てられたウインドサーフィンを、
ぼんやりとただ眺めていた。

国道134号を西へ、防砂林の向こうの潮を感じながら。
海岸の名の標示が変わってゆき、藤沢市から茅ヶ崎市へ。
相模川の河口にかかる湘南大橋から富士山を見る。
夕入りも近い。県道46号、折れて45号。川に沿い北へ。
寒川町は平らだった。相模国は案外と平坦と知った。
畑が多い。家畜のにおいもどこからかした。
丹沢の向こうに夕陽が暮れなずむ。

藤沢市、清瀬市へ。何もない道行き。
ひたすら漕ぎ続ける。
米軍厚木飛行場の脇を抜け、ようやく横浜市内へ。
すでに宵の口で、
瀬谷区から旭区に入ってからは夜の車の光を縫ってひた走った。
最後の、桜台への上り、そして自宅までの階段がしんどかった。

あまりに青々と澄んだ空にかまけて何もできなかった、
午前中の補いとして、この今日の道行き。
走行距離70km、走行時間約4時間。

1.11.09

湊の遠い風を感じて

保土ケ谷区西谷を折れて北へ。都筑区星谷を経て港北ニュータウンへ。
高台をまっすぐに太い道路を、まっすぐに下り、登る。
両脇は森か畑。風が吹いて心地よい。
仙台の、泉中央へと北上する道を、ふと思い起こさせる。
MGの脇を抜け、パークタウンへ至る道。
確かそこにも、桜ヶ丘という地名があった。

空が広かった。風が吹き、海も見えないヨコハマが陸を続く。
突如目の前に開ける港北ニュータウン。
建物の大きいばかりの、ひとの少ない小さい街だ。目立つのは際限なく大きい看板。

こんな景色が郷愁を煽るなら、私に故郷なんかなかったことになる。
幾本かの直線が空を区切るだけの景色だ。
ここに歴史はない。この明らかな嘘から醒めないために、横浜市立歴史博物館がある。

自転車のペダルを漕げば漕ぐだけ、面白いほどに進む。
どこまでも行けそうな気がした。
地図を見ると、川崎を越えて、東京は数センチ。
南の相模湾へ、道路が太く延べてある。

しかしどこへも行かない。
帰宅し、飯を喰って、この心地よい体の疲れを眠った。
暖かい日だった。明日は寒波がすさぶらしい。