21.11.09

クッツェー『夷狄を待ちながら』

帝国の辺境に及んだ帝国の論理が
どんな二枚舌的な不幸を招くか、の記録。
舞台は冷寒地だが、沖縄の敗戦前を思い起こさせた。

印象的だったのは、「歴史」についての主人公の独白。
帝国が歴史を創造した。帝国は、四季の循環の滑らかな回帰する時間の中にではなく、勃興と衰退の、期限と終焉の、カタストロフィの、荒々しい時間の中に自己を生き続けてきた。帝国は、歴史の中に生き、かつ歴史に対して陰謀を企むことを自らの運命としている。帝国の隠れた精神を占有する者はただ一つ、いかにして終焉を迎えないか、いかにしてその全盛期を長引かせるかである。(集英社文庫版、p.296)

帝国であれ企業であれ組織であれ結社であれ、
その存在の正統・異端を決定づけるものは、存在しない。
だからこそ、歴史を築き、そこから自らの由縁を引用する。
歴史は登場人物たちの縁起書として機能する。
好人物の主人公であればなおよいから、かくして歴史教科書は粉飾され、
「過去から学ぶ」ためでなく「自己満足」のための歴史が教えられる。
存在、あるいはアイデンティティーという、
曖昧で移ろいやすい存在を固定化するための歴史。
それは、神話となんら変わらない。

Claude Lévi-Straussが亡くなった。
「歴史の一般性」よりむしろ「語りとしての歴史」へと
歴史の捉え方が変わりつつあるように思われる最近の、
この推移を、象徴するかのようだ。
レヴィ=ストロースからクリステヴァ、
大江健三郎から村上春樹、ダーウィンから木村資生。
一般性に、時代固有の恣意性を混ぜるという手法だ。
不確定要素が入る分だけ、誤差は生じなくなるが、
そこに意図が混入する危険性があることを、忘れてはならない。
しなしながら歴史から学ぶという態度、
そのスタンスをどこに求めればよいのだろうか。

あ、なんか固くなったけど、この小説は本当に面白かった。

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