28.2.10

マルセル・エメ傑作短編集

20世紀の暗いユーモアが語った、でも人間味ある物語たちだった。
星新一っぽいかもしれないけれど、
パリやプロヴァンスの舞台や時代、情景は心境とともに、
綺麗に文体に写し取られている。
第一次大戦で一気に突入した、
戦争と総力戦の世紀としての短い20世紀の幕開け、
それと同時に断ち切られた19世紀への望郷が、
ところどころで垣間見えるような気がした。
人はたくましく、都市のグロテスクを生きてゆく。

24.2.10

折口信夫『死者の書』

大津皇子の魂が二上山の墓で目醒め、藤原南家郎女を呼ぶ。
藤原南家郎女はその俤を感じて、導かれるように都を出る。
蓮から糸を紡ぎ、その細い糸を奇蹟的に織り上げ、
そこに描いた曼荼羅絵の、刹那にして永遠のきらめき。
この伝説めいた感じ。

大津皇子の子孫の淡海三船、藤原仲麻呂(=恵美押勝、南家)、
大伴家持、といった官僚たちの権力争いが、脇で垣間見える。
そのせせこましさ、無常感は、主題の力強い素朴さを逆に強調し、哀れで滑稽。
言葉の端々に見える、紫微中台、大師といった官職名は、
唐風に染まった天平文化の頃の特有の名称だ。
または、平城京のだだっぴろい寂しい描写が西安の都を対比させる。

さらには、神ではなく仏が、神秘の核にある。
でも、ここに描かれた仏は、果たして仏教的な仏なのか。
葛城の寺院と、物忌の思想、さらには大津皇子の俤が菩薩となって現れるということ、
これらはかなり日本化された仏信仰ではないだろうか。

躑躅(ツツジ)や田植え、嵐、村の描写は、
どうしても緑豊かな奈良盆地を脳裡に浮かべずにはいられない。
二上山のたおやかな双峯も、また奈良らしい景色だ。

旧仮名遣いの文章ながら、さほど意識せずに読めたのは、
漢語が少なく大和言葉の多い文体ゆえかもしれない。
むしろ、漢字熟語をここまで抑制して、この表現力。

21.2.10

諏訪敦彦&イポリット・ジラルド『ユキとニナ』、アンドレ・ブルトン『ナジャ』

・諏訪敦彦&イポリット・ジラルド『ユキとニナ』

子供が両親の離婚をどう受け入れてゆくか、になるんだろう。
母親の、そのことへの子供への説明や態度が、とてもフランス人的だった。
潔いくらいドライだが、だから子供の心にはけっこう暴力的。

あくまでも両親のことだから、そこに挟まれたユキの振る舞いが、
どうしても強制されたものになってしまう。
離婚の理由を問う手紙に泣かれた母を前にして、もう自分は泣けない。
日本にきて良かったかという母の問いに対して、「…うん」としか答えられない。
この言葉にならない立場の危うさの感覚、それがこの作品とその設定には豊潤だった。

上映後、諏訪監督のトークショーがあった。
作品への思い、脚本の即興さがどんなふうなのか、などが、
寡黙の奥から絞り出すようにして語られた。
だから重みがあったし、パフォーマンスではない正直な声だったと思う。

脚本には設定と登場人物の思い、そこから帰結されるかもしれない科白、のほかは
書かれていない、ということだった。
役を着た役者たちがどう振る舞うか、それは自由なのだ、と。
『M/OTHER』のカットの長さも、そうすると理解できるし、
一見何も起きていない、動きのないシーンも、
細やかな心境の動きとして保存されているのだな、と思った。


・アンドレ・ブルトン『ナジャ』

« Qui suis-je ? » に、語りは始まる。
動詞suisがêtreでもありsuivreでもあることが、
作品に深い深い主題を落とす。
「私は誰か?」と「私は誰を追っているのか?」は
両義的な違いなのか、本質的には同一なのか?

パリを彷徨し、ときには近郊へもふらふらと赴いて、
ブルトンはナジャを追う。
ナジャがいなくなり、はたと自分をも見失う。
次の女性と付き合ってナジャを意識から遠ざけようにも、
そのようにしてナジャの影を追っている。

夢幻の心地に茫然として書かれた手記のよう。
美しい、そして結びにあるとおり、CONVULSIVEな作品だった。

14.2.10

諏訪敦彦『M/OTHER』

同棲相手が元妻との子を家に連れてくる。
それがそれでうまく回ると、
男は無意識に「家」の主になってしまう…ということなのか。
M/OTHERってのは、子供から父親の同棲相手を見た微妙な立場のことと思ったが、
子供ができると夫からも同じような立場で見られる、
という閉塞の意味が隠されているのかもしれない、と思った。
閉塞…。
それが垣間見えてしまったから、二人の同棲生活はもう
もとに戻りようもなかったんじゃないか。

気づいたのは、1カットが非常に長いこと。
さらに、カメラワークも最小限なので、アングルが計算されている。
アンドレ・バザンの1シーン1カットの美学を継いで?
しかしそれは良い意味でドラマチックではなく、
ゆえに日常を日常感を失わずに映像に写しとれているように思う。
もっとも、間延びとも云えなくはない。観るのに集中力が要った。

petite amie

Je sors avec une fille de dix-neuf ans depuis hier soir.
Je ne dis à personne où et comment nous avons rencontré.

13.2.10

ポール・ハギス『クラッシュ』

良い映画……というか、良い題材ではあるけれど、
ちょっとあからさま過ぎるきらいがある。
それに、最後はなあなあの感がどうしても否めなかった。
子供に天使をかけるのはLos Ángelesだから? とすると、安直。

テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』

高雅の夢のあと。
プラトン的に追求する妄想に走るか、動物的に生きることだけを生きるか。
このそりの合わない二者の態度をめぐる、うるさくて哀しい喧嘩。

舞台はNouvelle Orléans、英語名ニュー・オーリンズ。
ブランチ(Belanche Du Bois)の元の農園の名称はBelle Rêve。
喧噪としみったれた下町は、その名もフレンチ・クオーター。
まさに、旧世界の思い出にはもう戻れないアメリカの土地。
欲望の電車は、そこへ向かうのか逃げるのか。

11.2.10

西川美和『ディア・ドクター』

『ゆれる』もそうだったけれども、
作品は状況説明と裁きの二部構成のプロットになっている。
そして、どちらが正しいのかが問われる。
人望厚いヤブ医者と、ルーチンワークに堕した正規の医者。
そして、その判断を下すのは、警察なのか、村なのか、
その執行権のようなものの主体さえ「ゆれる」。

社会派ドラマではある、しかしこの組み立てはそれと関係ない。
同じ監督の他の監督の作品も、プロットゆえに観てみたい。

7.2.10

ドナースマルク『善き人のためのソナタ』、タルリ『明日、君がいない』

・フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク『善き人のためのソナタ』

東ドイツの作家たちと検閲を巡る人間ドラマで、
面白かった。
結末が秀逸。


・ムラーリ・クリシュナ・タルリ『明日、君がいない』

月並みの模倣を固有と信じて疑わないことが青春の醜悪さだと、
柄谷行人は初期評論で云っていたような気がする。
だが、青春に悩むべき主題は無数にあるし、
それを経てこその発達なのだろう。

原題は『2:37』。作品を観ないことには何もわからない定量。
どうして自殺したのが××なのか。
「悩み」が人生の主題ということ? 生きるための殻だということ?
でも、そんな一般論の逆説で片づくような映画ではない。

木々に縁取られた空を見上げてぐるぐる回るシーンは、
パゾリーニの『アポロンの地獄』(だと思うんだけど…)を思い起こさせた。
エリック・サティの『ジムノペディ』の繰り返しの閉塞感と相俟って、
問いは深い。

塚本邦雄の三歌 戦後、過日、煌めき

(A)たまかぎる言はぬが花のそのむかし大日本は神国なり・き

(B)春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状

(C)あぢさゐに腐臭ただよひ、日本はかならず日本人がほろばす


 Aについて:

枕詞「たまかぎる」は、玉のごとく麗しいこと限りない、の意味。
大日本=神国に係るのではなく、そのむかし、に係るのではないか。
そう読むと、あまりに保守的でもはやお伽話じみたノスタルジーだ。
だって、過去それ自体が好いもの、なのだから
(=「なのに最近の若い者は…」)。
過去の栄光の大日本。これが歌のベース、下地、となる。
そこに突きつけた「言わぬが花」と「・き」が現在のスタンスで、
歌の意をどう舵取らせているのか。
いや、むしろ、過去のベースから、現在にいる読み手が
どれだけ立ち位置を遠ざけているか、
ということで読み解いた方が良いように思う。

過去は現在に深く繋がっている。
戦後の経済発展を享受しながら、
過去を棚上げにして素知らぬ顔の平均的日本人が、
読み手の目の前にあるわけです。
その仮面を剥ぎ取り「じゃあ昔の日本はなんだったんだ?」と
問うたときの答えが、この一歌なんじゃなかろうか。
「・き」の中黒の空白の意味するところは?
哀愁の心地? 訣別?


 Bについて:

夢=春の夜の夢ばかりに包まれていること
現実=春の夜の夢が永続しないこと、召集令状
「あかねさす」は「日」に係るが、ここで召集令状に係っていることで、
召集令状が夜明け(=現実)であると読める。
召集令状の赤色、さらには日章旗・旭日旗が透けて見える。
夜明けに赤紙を渡されて目覚める。戦後から戦中への逆戻り。
あり得ない時間の逆行を、この歌は提示しているのだ。

あかねさす召集令状は、果たして夢の続きなのか現なのか?
残念ながら現なのだ。向かう先は?
街頭の右翼の主張するような無謀な自滅を揶揄したいのか、
物質的にばかり豊かになってだらけた国に頬を張りたいのか?


 Cについて:

「あぢさゐ」はアジサイ科の卯の花から「卯の花腐し」を連想させる。
むんむんとした五月雨の湿気の中で咲いて、咲いたまま腐敗する。
梅雨が過ぎて旭日が空に輝くとき、日本は蘇るのだ! みたいな感じ?
しかし、これは読み込みの一つだ。そこまで過激には歌われていない。

危うい感じだが、両手挙げての断言というより、鋭利な指摘、だ。
戦中の精神性、戦後の経済至上主義、両者の断絶としての戦争・戦後。
この三者の関係を歌った短歌を挙げてきた。この歌もそうだ。

面白いのは、「日本」をニッポン、「日本人」をニホンジンと読む相違。
大意に添えられた技巧ではあるが、精緻さを感じさせる。

6.2.10

円城塔「オブ・ザ・ベースボール」、ペドロ・アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』

・円城塔「オブ・ザ・ベースボール」

つまらなかった。でもそれは、
提示内容がそう見せかける必要があるから。……なのか?
これで複雑系ぶってもらっては困る、というのが正直なところ。
そのくせ現実を斜に構えて、
『ライ麦畑でつかまえて』をパロって見せる辺り、
何がしたいのかあまりよくわからない。
「俺たちはレスキュー・チームではなくて
 ベースボール・チームではない」って、何回云うかね。
『ライ麦畑…』のお伽話から醒めさせたいだけのための小説?
難解、ではなくて、難解ぶってるし。
語りの衒学(での水増し?)、てな文体が、
かなり鬱陶しいものの、読みやすくて、せめてもの救い。


・ペドロ・アルモドバル「オール・アバウト・マイ・マザー」

映像が自然とカラフルな、南欧の感触が、久しぶりだ。
そして、ペネロペ・クルスが好いね。
男の名前エステバンほか、作中反復があちこちにあって、
だから粗筋にまとめられない、よい映画だった。
劇中劇でテネシー・ウィリアムズの未読作品が重要だったので、
図書館で借りてきた。

1.2.10

田中慎弥「図書準備室」、澁澤龍彦『初期小説集』

田中慎弥「図書準備室」

中篇としてそつがない、とでも云おうか…。
何が書きたかったんだろう。
何かを信じることと、全く逃げ続けることの、両極端?
小説で○○を書こう、ではなく、小説書こう、という意図でできた、
みたいな、そんな作品。
妙につるんとしてて、面白さのスパイス的なものがなかった。


澁澤龍彦『初期小説集』

博識の独白のような文体と、夥しい情報量、
これらに覆い隠されるようにして、
時間経緯の欠如があるのを、感じた。
日常にピン留めされない、祭じみた、あるいは寓話じみた時間が流れる。

それはいいとして…やはり面白い。
「陽物神譚」は、横尾忠則のような原色のキャンバスに
中世の陰陽をちりばめて夜にしたような、すばらしい短篇だった。