28.6.10

鈴木博之『東京の地霊(ゲニウス・ロキ)』

東京のいくつかのまとまった土地の由縁を語る、というもの。
所有者や利用の変遷を時系列に沿って云々すれば、
その土地を透かして時代そのものの流れがおのずと垣間見える。
読み物としてはなかなか面白かったし、
やはり東京は千代田城=皇居あっての物種なんだな、と思った。
バルトの云ったような、空洞を持つ東京像だ。

だからといって、ことさらちょっとした名所を取り立てて、
やれ強い土地だの弱い土地だの、ゲニウス・ロキだのとあげつらうのは、
正直云ってどうかと思った。
「こんな素晴らしい由緒ある土地を自分は歩いているんだ!」という
貴種流離譚の亜種のような、御上に跪いて喜ぶ凡人のような根性が
垣間見えた気がして、なんかちょっと珍奇な心地がした。

時代を経ている限り、何にでも由縁はある。
だからといって、それを必要以上に尊ぶような真似事を始めれば、
あらゆるものに縁起のタグを貼付けなければならないし、
本来自由であるはずの行く末を雁字搦めにしかねない。
そうして附属物に覆われた世界をまともに見るために、
やがて「現象そのものへ!」とフッサールみたいなことを叫ばなければいけなくなる。
まぁ、人の目というものは、何かを知覚しているようで
実は何もまともに視ていないということの一事例か。

27.6.10

リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』

前作と同じく、三部同時進行の構成となっている。
しかし、それらは意を翳めつつ一本には収斂しないところが、
前作との最大の違いであり、かつ、本書の難解さだろう。
ゲーム理論の基本モデルそのまんまのわかりやすいタイトルとは裏腹。

ウォルト・ディズニーの夢のある虚構の話が、一つの通気口となっている。
むしろ、それがないことには、病める父の過去を遡行することは出来ないし、
家族内での囚人のジレンマ状態が続いた。
そして、ディズニーの話における囚人のジレンマは、
日系人収容の閉塞を打ち砕くことぐらいしか現れていない。
そこに大きく打ち立てられるのは、
信頼しあうことの絶対的必要性という陽と、
その信頼が実は完全なる虚構だという陰。

そのことに気づくとともに父親を失った家族には、
囚人のジレンマ状態を打ち破った成果としての家庭的な暖かみが残る…?
なんか保守的だなぁ。
あんまり生産的な結末じゃない気がしてしまった。

26.6.10

根岸吉太郎『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』、ジャン=ジャック・アノー『愛人/ラマン』

根岸吉太郎『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』

佐知、もてすぎなのに一途で、出来過ぎてるよなぁ。
最後に加えられたさくらんぼは短篇「桜桃」の主題で、
もっと場末で汚らしく描けばもっと良かったのに、と思った。
全体的にシーンが小綺麗だ。もっと土ぼこりの匂いのする光景がよかった。
広末涼子演じる秋子のぴらぴらな妖艶さが、なんかよかった。


ジャン=ジャック・アノー『愛人/ラマン』

恥ずかしながらデュラスの原作が未読のままに観た。
揺れる心のひだまで透かすような、綺麗な物語の進みだった。
下の兄が泣きながらピアノを弾き、
上の兄がジェーン・マーチを売女と責める場面の最後、
Salope! という科白でカットが入るのが印象的だった。
阿片を吸う梁家輝の変わり果てた目の曇りも。

22.6.10

村上春樹『1Q84 Book3』

面白かったので、二、三日で一気に読み通した。
ただし、単に物語に没頭したわけではなく、
一方で物語性と文体について考えていた。

村上春樹の文体の特徴は、あまり必要なく付け足された挿入句だ、ということ。
アガンベン『スタンツェ』にて取り上げられた洒落男ブランメルと酷似している。
それを私は長い間、他者性の欠如と考えていた。
まだそう思っているが、今ではその文体はむしろ、余裕やくつろぎに思われる。
本作を読んで一縷の光と見えたのは、
その他者性なき文体が「敵側」たる牛河の語りをも始めたからだった。
しかし、それはあまり関係ないまま了った。

物語性、とここで書くのは、柄谷行人の「構成力」というもののこと。
時代性を相対化する庄司薫の意志を継いだ初期中篇二作からは、
遥かに遠いところに来たという気がした。
しかし、本当にそうなのだろうか。
むしろ、その精神は強固にされて再生されたのではないか。
現代という、よくわからないけれど渾沌とした闇を、
濾過して具現化されたものが、リトル・ピープルであり、
新興宗教=NHKという、いわばサーバ型ネットワークのような
鍋蓋式の階層システムなのだ。

これからの物語の運びが楽しみ。
それは、物語・歴史という虚構マトリクスを一度括弧に入れるような
冷めた見方からしても、そうだ。

12.6.10

福永信『コップとコッペパンとペン』、レティシア・コロンバニ『愛してる、愛してない…』/上演阻止デモ

○福永信『コップとコッペパンとペン』

行為や状況が、その意味する裏を読めないまま、延々と羅列される。
さながら内田百閒の短篇のよう。
だから、物語が始めろうとしているとも、始まっているのかも、わからない。
それでいて状況は進行し、それなりにいろいろ起きて時間は経過している。

かなり印象論だけれど、
都市あるいは郊外にぽつんと取り残された一人一人が
その孤独を意識しながらおっかなびっくり人と繋がりを試みているような、
だから何かよくわからない暖かさと不安が入り雑じっている読後感がある。
この不思議な感触は、2002年の「文學界」で表題作を読んだときから変わらない。
砕かれた物語を、新たな時代の手で繋ぎあわせてゆくような
ゼロ世代、って感じの大いにある小説だと思っている。

Z文学賞という、パロディなのかれっきとした賞なのか、
そんなよくわからない形でしか評価はされていないみたいだけど…。
でも、大化けするならこの作家(か青木淳悟)であってほしい。


○レティシア・コロンバニ『愛してる、愛してない…』

オドレイ・トトゥ演じるアンジェリクと、その不倫相手のロイックとの
進展しそうでしない関係にやきもきしているうちに、
観客は事の真相を次第に明かされる。
この見事な視点のすり替え!
アンジェリクの一途さが、やがてどんどん不気味になってゆく。
後味としては、ホラーと同じといって差し支えまい。

さながら、メディアの情報操作というか、捏造、の実例だった。
そう読み取った自分は、おそらく穿っていたのかもしれない。
でも、そう読まれることに充分に耐える作品だし、
その意味でも確信をついているところがある。

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『ザ・コーブ』の上演阻止の中継を、昼の1〜2時間ほど見ていた。
伊勢佐木町だったから行けばよかったんだけど、
逆に中継で映画館支配人のインタビューが聞けた。
淡々としてて好印象ってのも素朴にあったけど、
「上映してるからって即座に国賊とか云われるのは、
 私だって日本人ですから、悲しくなりますよね」っていう発言なんかは、
阻止側の脳内にあるのだろう愛国vs左翼の二項対立が
いかに単純な幻想なのかを、よく表していた。

撮影の経緯や、もちろん題材の是非はあれ、
反対か賛成か議論するにはまず観なければ始まらないのに、
それを阻止するというこのムラ社会状態に、非常に懸念を覚える。
議論で堂々と渉りあうという手段をはなから無視して
阻止というゲリラ的な手法に出るという専制的な短絡さもあるし、
それで実際に上映を中止してしまう映画館の存在も、かなりイタい。

彼らの感情って、おそらく、
「ガイジンに土足で踏み込まれて勝手に撮影された」
ことが我慢ならないんであって、
その内容はあまり何でも良いんじゃないか…。
『YASUKUNI』にときもそうだが、監督は日本人じゃないし、
その見方が批判的であることに、というか冷めていることに、
我慢ならないんじゃないだろうか
(『買ってはいけない!』は発売禁止も自粛もなかった)。
逆に云えば、おそらく上映阻止側の人々ってのは、
とにかく何かにすがって熱狂していたいんだと思う。
今はちょうど、日の丸にすがるのが大義名分的にちょうど良い、と
まぁ、そういうことなのだろうよ。

にしても、日本人ってのは本当に国外からの目に弱いんだな、と思う。
映画自体は大したことがないのは、
もはや食用文化の廃れつつあるクジラより
さらに消費量が少ないことからもわかるし、
よって、映画のせいで風評被害で経済的にどうのこうの、というのは
ほとんど皆無だと、容易に想像はつくからだ。
その意味では、『スーパー・サイズ・ミー』なんかのほうが
はるかに影響力があっただろう。
『ザ・コーブ』も、ほっとけばよいのに
アナフィラキシーかっていうくらい過剰な反応をして、
逆に世界に日本のムラ社会性をアピールしてしまっている始末だ。

11.6.10

フアン・ルルフォ『燃える平原』

短篇集。
地の文、なんてものはほとんどなくて、
常に誰かの口調が物語を喋る。
それが二重鍵括弧になったり、どこからともなく別の声が割り入ったりして、
多重音声が物語を進める。
その技巧を駆使したのは『ペドロ・パラモ』で、
この短篇はその文体の編曲と云うか、萌芽を感じられる。
かくして得られる、土着が物語る、という独特の雰囲気は、
ラテンアメリカ文学のマジックリアリズムの鼻祖としてうべなるかな。

メキシコ革命頃の殺伐とした雰囲気にまず目がいくが、
国なんてない、村や集落のような共同体のみが人の生活圏だった時代が、
かなりなまなましく描かれているように思った。
だから、深沢七郎『楢山節考』を髣髴とさせたが、
そんなに上品ではなく、人はどんどん殺しあって死ぬし、
ムラっぽい縁の結びつきの美徳というより、
縁に雁字搦めになりながら蟻のように小さく逞しい生き様、という感じ。
これをもっと濃密に物語にしたのが、
後を継いだガルシア=マルケスだったりするんじゃないか。

6.6.10

ジェイク・クレネル『大阪恋泥棒』、ポール・オースター『幽霊たち』

映画と小説を一つずつ。
どちらも、作用反作用の法則が人間関係に露になっているような、
そんな作品だった、というのが、印象論だけど感想。
要は、構造は単純なんだけど大いなる謎、みたいなところ。


○ジェイク・クレネル『大阪恋泥棒』

タイトルはふざけているが、ドキュメンタリー。
そのふざけた感じを地で行く、つまり、
生々しい映像を虚構だと笑い飛ばせない戦慄が、
この映画にはあった。
日本では公開されていない。
もっとも、制作国イギリスでも劇場ではなく
Google Videoに公開されたらしい。

ミナミのあるホストクラブのホスト達へのインタビューと、
客達へのインタビューが、クラブ内の"日常"の断片で紡がれる。
夢を売る、人は弱い、癒しを求める、愛、云々、が
まるで道徳の教科書を要約したように語られ、消費される。

ホストの一人に思い入れて通い詰め、
それをどこまでもはぐらかしながら通わせ、払わせる。
「大体の子はいくつものクラブに通って、
 それぞれの所で誰かに熱を上げている」、
というのが、考えればそりゃあり得そうだと気づくことだけれども、
改めて気づかされ、驚かされた。
この人、と品定めをして惚れ込む、という行為すら、
もはや代替可能な商品なのだ。
嘘みたいに単純な心理戦なのに、
把握可能なほど単純であるにもかかわらず、
その構図を巡って一晩に何百万円がやりとりされる、
このことに何より驚いた。呆れられもしない。

客層はほとんどが風俗関係らしい。
風俗へ流れてホストへ貢がれる金額の出所は、
昼の社会の抑圧=ストレスだ。
サラリーマン達を癒す女性達をホストが癒す。
孤独を切り詰めて働きあい、散財し、そして溺れるスパイラル。


○ポール・オースター『幽霊たち』

登場人物が「定義」される出だしは、クンデラっぽいと思った。
しかし読み進めるとベケットで、着地はカフカだった。
物語の終わったあとに、人はどうできるんだ、ということを考えさせられる。
記憶喪失の人のエピソードとか、自分が誰かわからなくなる混乱とか、
ブラックが妙に文学者のエピソードに入れ込んでいるか、とか。
過去から現在、そして未来までを一本に貫いて説明したいのだ、人は。
それがアイデンティティだからね。

でも人物というのは、細部と風景だけ細かくて、
しかし一色に塗られた影なのだ。
しかもブラックとブルーは完全に重複して、同じ経路を辿る。

文章が散文詩っぽいから、ぐいぐい読めるし、面白かった。

4.6.10

丸谷才一『たった一人の反乱』

その一人は誰を指すのか、というより、
大衆が群れていながらもみんな一人一人で小さく勝手にやってる、
という感じの印象を受けた。
通産省の元キャリアで防衛庁への出向を断り
歳の離れたモデルの22歳と付き合ったあげく結婚した主人公もそうだし、
若くて血の気の多い写真家もそうだし、
何十年もひっそり女中をした後に袂を分かった女中もそうだし、
舅の助教授も、出戻りの義理の祖母も。

面白かった。波瀾万丈があり、それぞれの登場人物が生き生きとして。
物語、読み物、としてはね。
ただ、まぁ、至って真面目なんだよな。
婚外交渉にしろ通産省官僚の防衛庁出向を断るにしろ、
世に問いかけながらも吟味に手を抜かない手筈の良さというか。
そして、種々のエピソードが纏め上げられるキーワードが
市民と時計、なんだから、王道というか意外性のない学術書というか。
そこは良くも悪くも、昭和40年代の純文学長篇小説、という趣き。
福田章二が庄司薫名義として発表した処女作が、
いかに世に背を向けていると批判されたか、よくわかろうというもの。